遠い海の下
「仕事の依頼……引き受けるわよね?」
麗子が意地悪な笑顔を浮かべる。
目が笑っていないのが不気味だ。
その笑顔を背中で察したのか、相変わらず背中を向けたまま炭酸水で舌を洗いながらモンテクリスト№1を燻らせる美華。
暫し瞑目。
口中の香りを愉しむと言うよりも、口の中に放り込まれた得体の知れない味の塊を吟味する渋い顔を作る。
「……で、依頼の中身は?」
きっかり1分後。
口から大量の紫煙を大きく吐きながらストゥールを回転させて麗子に向き直る。
麗子は足音も立てずにキッチンに向かい、酒の肴として温存している缶詰を勝手に手に取っていた。
気配だけその場に残して、本体は違う場所へ移動……幽霊さながらのフットワークだ。
「ファイルはそこのテーブルに。今回は殺し屋さんの出番よ」
「今回も、だろ?」
半ば呆れ顔の美華は、半分ほどの長さになったモンテクリスト№1を左手の指に挟んで、麗子が指したテーブルに近寄る。
確かにA4ファイルが置いてあった。口にモンテクリスト№1を銜えたまま無造作にファイルを取り、先ほどまで麗子が座っていたソファにドカッと座って中身の書類を閲覧。
「…………」
QRコードが各所に鏤められたテキスト。
文字の情報は概要を記しているだけで余り価値は無い。
QRコードを携帯電話で読み取ってアクセスすると、本当に重要で本当に欲しい情報が閲覧できる。勿論、アクセス先は有料の情報屋サイトだ。
「で、このアクセス先の料金はどうなっているの?」
返答は解りきっているが一応、麗子に訊く。
「勿論、先に払ってあるわよ。好きなだけ覗いてね」
麗子はオリーブの缶詰を缶切りで開けながらウインクする。
気前のいい返答が聞けると思った。……気前のいい返答が聞けると言うことは、この仕事はヤバイ案件だという事だ。
尤も、麗子が持ってくる仕事で危険でない案件は数えるほどしかない。
「どれ……」
ジャージのポケットから携帯電話を取り出しカメラを起動させる。
紫煙に燻されながらもハバナシガーを口に銜える。ヤケに白い犬歯がチラリとのぞく。
麗子が油漬けの鰯とオリーブを口に運びながら、勝手にホームバーにやってきて、好きな酒を選んでタンブラーに注ぐ。
マッカラン12年を舐めてから美華の反応を窺う。
「……ふん。荒事に近いコロシの依頼、ねぇ……。『この街』の中じゃない辺りが危なそうね」
3つの勢力が均衡を保っているこの街では、暫くは『公式な抗争』は発生していない。
3つの勢力が虎視眈々と街を狙っていると言う体面を演出する為に先日の殺し合いゲームを模した賭場。
このように『偽の抗争』をでっちあげる事がある。
争っている体を見せておいた方が、地元警察の主力を分散させ易い上に職務に忠実で無い下っ端を篭絡し易いからだ。
先日に雇われる結果になったコンビナートの賭場で、充分な実力を見せ付けたとは言い難いが、それでもこのように仕事が舞い込むのは有り難い話だ。
きな臭い依頼。それはいつもの事。
人探しから人殺しまでと謳っているが、どっぷりと黒い仕事しか廻ってこない実情も織り込み済みだ。
自分をセールスするキャッチコピーに『何でもこなす何でも屋』と一言添えておけば、依頼する側からすればいつでも使い捨てできる都合の良い殺し屋が手軽に雇えると勝手に思い込んでくれる。
中には本当にご近所の自治体から清掃の手伝いを頼まれることも有るが、それもまた、美華が後ろ暗い世界の人間で無い事を言外に伝える手段として有効だった。
「……隣の県か……面が割れていない殺し屋をご所望か……」
携帯電話で読み取ったQRコードから、情報屋が提示する情報や依頼の詳細を読みながら呟く。
2cmほどに成長したモンテクリスト№1の灰を折るべく、ホームバーの先ほどまで座っていたストゥールに資料を手に戻る。
シガーアシュトレイに葉巻を置く。同時に静かに灰が折れた。
「……委細承知。この仕事、引き受けた。報酬も悪くない」
美華は隣の席でオリーブを突付きながらマッカラン12年を舐める麗子を見る。
麗子は流し目をくれて満足そうに唇の端を吊り上げる。
この女とつるんで10年近くになるが、今までに麗子の持ってくる仕事で、それを引き受けた場合の麗子の報酬がどこの誰から支払われて幾らぐらいの金額に達するのか訊いた事が無い。
訊く気もしない。
恐らくそれは親しい仲でも、訊いてはいけない部類の質問だろう。
それに……それを訊き出せば身の危険を感じる気がしないでもない。
常に剣呑な依頼。
だからこその割の良い報酬。
だからこその命懸け。
2人は黙ったままだ。麗子はタンブラーを傾け、美華は資料の書類に目を通す。
こうして夜は更ける。
頼りになる情報屋経由の仕事はいつでも欠伸が出ない。
自分で依頼のメールを漁る事も有るが、割に合う仕事が少ないので非常に助かる。
顔が見えない世界での遣り取りは素人の依頼人が多く、この世界の相場や慣例を知らない場合が殆どなので、ライバルが報復の為に『釣り針』を垂らしているのではないかと疑う。
『釣り針』とは、殺し屋を殺す殺し屋が良く用いる手段で、素人を演じて人気の無い場所に誘き出し、闇討ちして同業者を減らす悪質な殺し屋だ。
自分よりも強い殺し屋から、掃除目的で依頼を受けて自分よりレベルの低い殺し屋を殺害して儲ける事を指すが、いつの間にか同業者間での報復を指す隠語に擦り代わっている。
「じゃ、よろしく」
悪そうな微笑を顔の端に貼り付かせ、麗子はタンブラーを掲げた。
いつも、この笑顔の裏側を勘繰ろうとして痛い目に遭う。
この悪い笑顔の裏側には何も無い。
この性悪な女の素顔なのだ。
※ ※ ※
それなりの衣服。
高級高層マンションで住む以上、それなりに衣服の流行にも敏感でなければならない。
ファッションリーダーを気取っているのではない。この部屋の収入や購入層相応の格好をして出入りしなければ逆に不自然だ。
コンビニに行くのにも、お高く留まった服に着替える必要が有る。その生活の、高級物件のオーナーという意味では、その部分だけは少々窮屈だ。
故に、いつも違う車輌で乗り付ける運び屋の車の中で着替えを済ませる。
自ずとワゴン車やミニバンが多くなる。
ある程度の広さが無ければ着替えも難儀だ。
何より、スチェッキンのショルダーホルスターを始めとする弾薬ポーチをベルトに通して最終確認済みの弾倉を差し込んでいくのは大仕事だ。
今夜は黒いシボレーのバンに乗り込んで現地に駆けつける。
運び屋と言っても、都合のいいタクシー同然だ。その運び屋もリスクが少ないと言う理由でタクシーとして扱われる事に甘んじている。
美華にとっても都合のいいタクシー。
お互いの需要と供給が一致したのだ。
絶対に手放したくない業種なので、情報屋と同じくらいの金額を払って繋ぎ止めている。
1週間前に麗子の持って来た依頼を遂行すべく現地に向かう。
1週間の間、麗子以外の情報屋から情報を買うだけでなく、美華も実際に現地に赴き、下調べを念入りに行った。
馴染みの勢力が仲良くやっている、いつもの街が舞台ではない。
自分以外の力が頼りにならない隣の県の街だ。
その街の礼儀というものがある。
その街の勢力の分布図に乗っ取った序列が存在する。
シボレーの車中で着替え終えた美華は早くも、モンテクリスト・クラブに火を点けた。
麗子が意地悪な笑顔を浮かべる。
目が笑っていないのが不気味だ。
その笑顔を背中で察したのか、相変わらず背中を向けたまま炭酸水で舌を洗いながらモンテクリスト№1を燻らせる美華。
暫し瞑目。
口中の香りを愉しむと言うよりも、口の中に放り込まれた得体の知れない味の塊を吟味する渋い顔を作る。
「……で、依頼の中身は?」
きっかり1分後。
口から大量の紫煙を大きく吐きながらストゥールを回転させて麗子に向き直る。
麗子は足音も立てずにキッチンに向かい、酒の肴として温存している缶詰を勝手に手に取っていた。
気配だけその場に残して、本体は違う場所へ移動……幽霊さながらのフットワークだ。
「ファイルはそこのテーブルに。今回は殺し屋さんの出番よ」
「今回も、だろ?」
半ば呆れ顔の美華は、半分ほどの長さになったモンテクリスト№1を左手の指に挟んで、麗子が指したテーブルに近寄る。
確かにA4ファイルが置いてあった。口にモンテクリスト№1を銜えたまま無造作にファイルを取り、先ほどまで麗子が座っていたソファにドカッと座って中身の書類を閲覧。
「…………」
QRコードが各所に鏤められたテキスト。
文字の情報は概要を記しているだけで余り価値は無い。
QRコードを携帯電話で読み取ってアクセスすると、本当に重要で本当に欲しい情報が閲覧できる。勿論、アクセス先は有料の情報屋サイトだ。
「で、このアクセス先の料金はどうなっているの?」
返答は解りきっているが一応、麗子に訊く。
「勿論、先に払ってあるわよ。好きなだけ覗いてね」
麗子はオリーブの缶詰を缶切りで開けながらウインクする。
気前のいい返答が聞けると思った。……気前のいい返答が聞けると言うことは、この仕事はヤバイ案件だという事だ。
尤も、麗子が持ってくる仕事で危険でない案件は数えるほどしかない。
「どれ……」
ジャージのポケットから携帯電話を取り出しカメラを起動させる。
紫煙に燻されながらもハバナシガーを口に銜える。ヤケに白い犬歯がチラリとのぞく。
麗子が油漬けの鰯とオリーブを口に運びながら、勝手にホームバーにやってきて、好きな酒を選んでタンブラーに注ぐ。
マッカラン12年を舐めてから美華の反応を窺う。
「……ふん。荒事に近いコロシの依頼、ねぇ……。『この街』の中じゃない辺りが危なそうね」
3つの勢力が均衡を保っているこの街では、暫くは『公式な抗争』は発生していない。
3つの勢力が虎視眈々と街を狙っていると言う体面を演出する為に先日の殺し合いゲームを模した賭場。
このように『偽の抗争』をでっちあげる事がある。
争っている体を見せておいた方が、地元警察の主力を分散させ易い上に職務に忠実で無い下っ端を篭絡し易いからだ。
先日に雇われる結果になったコンビナートの賭場で、充分な実力を見せ付けたとは言い難いが、それでもこのように仕事が舞い込むのは有り難い話だ。
きな臭い依頼。それはいつもの事。
人探しから人殺しまでと謳っているが、どっぷりと黒い仕事しか廻ってこない実情も織り込み済みだ。
自分をセールスするキャッチコピーに『何でもこなす何でも屋』と一言添えておけば、依頼する側からすればいつでも使い捨てできる都合の良い殺し屋が手軽に雇えると勝手に思い込んでくれる。
中には本当にご近所の自治体から清掃の手伝いを頼まれることも有るが、それもまた、美華が後ろ暗い世界の人間で無い事を言外に伝える手段として有効だった。
「……隣の県か……面が割れていない殺し屋をご所望か……」
携帯電話で読み取ったQRコードから、情報屋が提示する情報や依頼の詳細を読みながら呟く。
2cmほどに成長したモンテクリスト№1の灰を折るべく、ホームバーの先ほどまで座っていたストゥールに資料を手に戻る。
シガーアシュトレイに葉巻を置く。同時に静かに灰が折れた。
「……委細承知。この仕事、引き受けた。報酬も悪くない」
美華は隣の席でオリーブを突付きながらマッカラン12年を舐める麗子を見る。
麗子は流し目をくれて満足そうに唇の端を吊り上げる。
この女とつるんで10年近くになるが、今までに麗子の持ってくる仕事で、それを引き受けた場合の麗子の報酬がどこの誰から支払われて幾らぐらいの金額に達するのか訊いた事が無い。
訊く気もしない。
恐らくそれは親しい仲でも、訊いてはいけない部類の質問だろう。
それに……それを訊き出せば身の危険を感じる気がしないでもない。
常に剣呑な依頼。
だからこその割の良い報酬。
だからこその命懸け。
2人は黙ったままだ。麗子はタンブラーを傾け、美華は資料の書類に目を通す。
こうして夜は更ける。
頼りになる情報屋経由の仕事はいつでも欠伸が出ない。
自分で依頼のメールを漁る事も有るが、割に合う仕事が少ないので非常に助かる。
顔が見えない世界での遣り取りは素人の依頼人が多く、この世界の相場や慣例を知らない場合が殆どなので、ライバルが報復の為に『釣り針』を垂らしているのではないかと疑う。
『釣り針』とは、殺し屋を殺す殺し屋が良く用いる手段で、素人を演じて人気の無い場所に誘き出し、闇討ちして同業者を減らす悪質な殺し屋だ。
自分よりも強い殺し屋から、掃除目的で依頼を受けて自分よりレベルの低い殺し屋を殺害して儲ける事を指すが、いつの間にか同業者間での報復を指す隠語に擦り代わっている。
「じゃ、よろしく」
悪そうな微笑を顔の端に貼り付かせ、麗子はタンブラーを掲げた。
いつも、この笑顔の裏側を勘繰ろうとして痛い目に遭う。
この悪い笑顔の裏側には何も無い。
この性悪な女の素顔なのだ。
※ ※ ※
それなりの衣服。
高級高層マンションで住む以上、それなりに衣服の流行にも敏感でなければならない。
ファッションリーダーを気取っているのではない。この部屋の収入や購入層相応の格好をして出入りしなければ逆に不自然だ。
コンビニに行くのにも、お高く留まった服に着替える必要が有る。その生活の、高級物件のオーナーという意味では、その部分だけは少々窮屈だ。
故に、いつも違う車輌で乗り付ける運び屋の車の中で着替えを済ませる。
自ずとワゴン車やミニバンが多くなる。
ある程度の広さが無ければ着替えも難儀だ。
何より、スチェッキンのショルダーホルスターを始めとする弾薬ポーチをベルトに通して最終確認済みの弾倉を差し込んでいくのは大仕事だ。
今夜は黒いシボレーのバンに乗り込んで現地に駆けつける。
運び屋と言っても、都合のいいタクシー同然だ。その運び屋もリスクが少ないと言う理由でタクシーとして扱われる事に甘んじている。
美華にとっても都合のいいタクシー。
お互いの需要と供給が一致したのだ。
絶対に手放したくない業種なので、情報屋と同じくらいの金額を払って繋ぎ止めている。
1週間前に麗子の持って来た依頼を遂行すべく現地に向かう。
1週間の間、麗子以外の情報屋から情報を買うだけでなく、美華も実際に現地に赴き、下調べを念入りに行った。
馴染みの勢力が仲良くやっている、いつもの街が舞台ではない。
自分以外の力が頼りにならない隣の県の街だ。
その街の礼儀というものがある。
その街の勢力の分布図に乗っ取った序列が存在する。
シボレーの車中で着替え終えた美華は早くも、モンテクリスト・クラブに火を点けた。