遠い海の下

 美華は当初の予定通りに、ピックアップ要員として雇われたと思われる運び屋のハイエースに乗り込むことが出来た。
 思い返せば随分と数が減ったものだ。
 当初は10人でこの場に乗り付けたのに、今では美華と同じく金で雇われた2人と軽症を負っている三下が1人。
 美華を含めて4人だ。
 単純に6人も倒された計算になる。
 もしかしたら、無力化されてコンビナートの片隅で呻いているのかもしれない。
 そんな連中は非情な話だが、後始末専門の殺し屋が丁寧に止めを刺しているはずだ。更に清掃人が死体を片付ける。
 空薬莢や足跡は放置だが、ここで決定的に人が殺された事実は消されてしまう。
 仕掛けられた多数のカメラも同時刻に取り外されているだろう。
 今となっては美華にとってどうでもいい話だった。
 狭い車内で無造作にバラクラバを喉まで下げて、モンテクリスト・クラブを銜える。火は点けない。何と無く口が寂しかったのだ。
 他に乗り込んだ連中は、遠慮なく煙草を吹かしたり、持参したスキットルで中身を呷っている。
 軽く負傷している、末端組織が直接送り込んだ若い三下だけは顔を土色に変えて震えていた。
 今にも小便を漏らしそうな顔だった。
 生き残った実感が、今頃になって湧いてきて麻痺していた恐怖が蘇ったのだろう。
 そんな三下に一瞥をくれた美華だが、笑いはしない。彼女にもそんな時期があったからだ。
   ※ ※ ※
 新しく開発された埋め立て区画に建築された高層マンションの一室。それが美華の寝床だった。
 45階建て。遠くに水平線が臨める、絶景が売りのマンション。
 耐震設計がこの間の大震災以降に定められた新型の基準でもマンションの売り上げは今一つだった。
 海浜地帯で海よりも低い海抜の高層マンション。次に津波が押し寄せると保証の限りではない。
 埋め立て地と言う条件から、この一帯は謂わば、国道で結ばれた『人工の島』が群集している状態で、数本の道が閉ざされるとライフラインの途絶に直結する。
 『何も無ければ快適だが、何か起これば逃げようが無い』条件が揃っている。
 この高層マンションは破格レベルまで値段が下げられたが、それらのマイナスの条件が目立つことから業績がぱっとしなかった。
 その高層マンションの35階のとある一室。7LDK。
 部屋の数と拵えだけならば豪邸に匹敵する。
 眼下に広がる風景は観光名所とは違った明媚な美しさが有る。
 高層マンションの南東の角部屋を45年ローンで買ったのが美華だ。……普通なら無理な買い物だった。
 購入に際して審査を通り、担保で頭金を揃えるだけで精一杯だった。だが……買った。
 精神的に自分を追い込んで、支払いきるまで闇社会で生き残ると言う精神的鼓舞は勿論だが、高価な動産を万が一の財政の足しにする経済戦略が大きかった。
 それに狢のように大多数の闇社会の人間が世捨て人同然の生活をアピールする裏を掻く意味もある。
 『高層マンションの部屋を買う人間』というステータス自体が彼女の生活や身分を韜晦する武器になっている。
 このような立派な物件に住む人間が後ろ暗い世界の人間なはずが無いという世間の勝手な思い込みを逆手に利用したのだ。
 我武者羅に働く事を自分を自分に自動的に押し付けたのだが、それも悪くは無かった。
 揺るぎも弛みも無い、意識の高い職業意識を養うのにうってつけだった。
 その結果学んだのは、表の世界でも、裏の世界でも、金の有無で人間の意識の所在は、自分で勝手に目指してしまうものだという事だ。
 金が有るのなら、税金をまともに払うか税金対策に高級品ばかりを買い漁るか、脱税に走るか……いずれにしても知恵を絞るのと同じだ。
 生きる為に働く。
 働いて得た等価で以って衣食住を賄い、生きる。
 そして働き等価を得る。
 そのループだ。
 仕組みは表でも裏でも関係ない。
 人間は資本主義の下で、最高のスペックを発揮する動物だ。
 金に執着せず、共に産み出す事を掲げる大国の、居るはずの無い高級階層の住人ほど金に執着している。……それを見ても明らかだ。
「豪奢な造りのスイートルームで一服か……随分と優雅な生活が板に付いてきたわねぇ」
 パンツルックの黒いスーツに身を包んだセミロングの女性はホームバーで炭酸水の入ったタンブラーを呷る美華に、嫌味を乗せた台詞を嫌味たらしくない口調で述べる。
「その優雅な一時に何を言いに来たかと思えば……用件は?」
 美華は端整な顔を僅かに歪めて、シガーアシュトレイに寝かせたモンテクリスト№1に視線を向ける。
 背中越しにそのスーツの女性に返答する。
「なぁ。麗子……この素晴らしいセキュリティを簡単に破ってくれるなよ。情報屋風情がカードキーと暗証ロックを30秒で解析して20秒で開錠したとあっちゃあ、このマンションの警備会社や管理人も職を失う」
 水色のジャージ姿の……部屋着のままの美華は3分の1ほどが灰になったモンテクリスト№1を口に銜えて不快感を露にした。
 麗子と呼ばれた情報屋。……厳密には美華と同じで便利屋を営む。
 少しばかり情報屋界隈に顔が利くので、『情報屋としての出番』が多いだけだ。
 年齢は自称27歳。美貌と呼ばれる部類の容貌だが、どこか日本人とは違うニュアンスを顔の端に落としている。
 極東アジアの何れかの国のハーフかクオーターなのだろう。
 彼女が現れると決まって揉め事の解決を持ちかける。その解決した報酬として割の合う金額が預金通帳に刻まれるので悪くは無いが、いつも唐突で、ことちらの都合を鑑みない迷惑な性分だった。
 今の時間……午後8時のひとときにもまるで理解を示さず彼女はマンションの全てのセキュリティを最新のツールを駆使して突破してやってきた。
 麗子が違法に開錠した形跡はカメラにも残らない。……それはいつもの手口だ。
 カメラを通じてデジタル媒体に記録されても、警備会社のマニュアルを知り尽くしているので、持ち運び可能のデジタル媒体に保存されたデータ自体は、隙を見計らって簡易的なEMP発生装置でデータを焼き千切る。
 その度に警備会社はゴムの皮膜を張り巡らせるのだが、そうなれば今度は塩酸を垂らすというアナログな手段でデジタル媒体を読み込み不可能にさせる。
 高層マンションを任された警備会社と麗子のイタチごっこは今も尚、続いている。
 財政事情が厳しいと呻いていても、それはこのマンションを購入できるレベルでの財政難だ。
 一般庶民と比べれば僻み根性で金持ちめ! と罵られる程度の財産は有る。
 それでも尚財政事情が仕事を引き受ける直接の要因なのは、闇社会での相場が全体的に底上げされてきた証拠だ。
 非合法な商品や情報を購入や伝の橋頭堡の確保に払う金額は上昇の一途。
 割の良い仕事を請け負うのにも宣伝が必要。
 その宣伝も、やはり高額な情報屋経由で名前を知らしめる。
 それだけでは勿論、客は来ない。売名に足る仕事……実績を幾つも完遂して名刺代わりとして『プロフィールの端に書かねばならない』。
 そうなれば難易度と報酬が、無理の祟る内容であっても引き受けて命を支払う鉄火場に出なければならなかった。
 泥水の味を知っているからこそ、もう二度と泥水を啜りたくは無いのだ。
 ホームバーのカウンター席に座る美華。
 背中合わせで1人掛けのソファに腰を下ろす麗子。
 お互い、まだ、今夜は視線を合わせていない。
 室内に置いてある4台の空気清浄機が静かに作動している。モンテクリスト№1がどんなに素晴らしい香りであっても、人体に有害な物質を撒き散らしているのには変わり無い。
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