遠い海の下

「ちっ!」
 続けざまにその男が飛び出した背後の路地から2人の影が飛び出る。少なくとも自軍ではない。
 唇の端に銜えたモンテクリスト・クラブを噛み縛る。吸い口がへしゃげて潰れる。
 火が点いていないモンテクリスト・クラブを銜えっぱなしにして、セミオートのまま何度も引き金を引いて牽制を放つ。
 その最中にバックステップで左手後方に有る、積み上げるように設置されていた、錆びついた室外機の陰に飛び込む。
 2人の影は激しい牽制に頭を抑えられて路地に引っ込んだ。
 引っ込んだ場所から、手首だけを突き出して大型自動拳銃を乱射する。
 美華は思わず噛み潰してしまったモンテクリスト・クラブを逆さにして、本来火を点ける方向を口に銜え直し、噛み潰した吸い口の方にイムコ・ストリームラインで炙って吸い込む。
 鉄錆と潮風に混じって場違いなハバナの香りが漂う。
 インドネシア葉とは一線を画す芳醇で濃厚な香り……口中に馥郁たる高貴な味が染み渡り充分な満足感が体の隅々に充足されていく。
 大きく吸い込むその度に火種が赤々と熱を帯び、1cm単位で灰になる。
 連中が放つ銃弾は脅威ではない。
 それはこの路地の真ん中に立たなかったらの話だ。
 ここで膠着している状況には変わりは無い。
 早くこの場を切り抜け、自分が先行させた自軍と正面衝突しているもう1つの勢力の背後に迂回して叩かねば全滅する。
 自分が先行して、自軍はたったの2人で防衛線を形成して踏ん張っている。それを別働する形式で援護するのが仕事だと美華は勝手に思っている。
 ここでどこかの誰かと変わらない間柄の自軍連中に、恩と義理を売るのも悪くは無いと言う算段が働いているのだ。
 モンテクリスト・クラブを銜えながら、紫煙に視界を燻られながら、片目を閉じ気味にスチェッキンの弾倉を抜いて確認する。
 目前10m以上向こうの角に潜む2人を押し留めるのに10発もの弾薬を消費した。牽制の盲撃ちを繰り返したのだから仕方が無い。
 呼吸するようにハバナのシガリロを吸い込んで荒々しく紫煙を吐く。 左手が心許なくなってきた予備弾倉をカーゴパンツのサイドポケットから引き抜く。序にタイメックスの安い腕時計を視る。
 残り15分。
 3つの勢力の内、どの勢力が優勢で、どの勢力が劣勢なのか判然としない。
 コンビナートの廃棄区画はそんなに広くない。
 その中で30人の人間が実弾で撃ち合いをしているのだ。……冷静にならずとも鼻で笑ってしまう。
 BB弾を発射するオモチャの方が余程、スピード感がある。
 実弾でのサバイバルゲームは予想以上にシビアだ。
 弾倉や実包の重量にホルスターやポーチの位置による疲労の度合い、予想以上に素直でない弾道、撃てば撃つほど軽くなる弾倉も体幹のバランスを微妙に崩すので意識しない疲れが発生する。
 「今は負けても次が有る」という精神的余裕は皆無。
 着ている衣服の迷彩効果など足しにもならない。
 体力が有ろうと無かろうと、実弾の威力は変わらない。
 当たれば死ぬ。
 死に到らなくとも『大変な事態』になる。
 残り15分。
 組織同士の抗争と言う面をした賭場が終わる。
 それまで生きていれば、勝利条件は満たした事になる。
 生きてさえいれば、契約通りの成功報酬をもらえる。
 成功の如何を問わずに変動しない報酬という話も普通に考えれば怪しい話だった。
 水物のように流動的なカチコミの現場で、雇った鉄砲玉の働きを考慮しない支払いも上手すぎる話で、プロの殺し屋や拳銃遣いなら誰も食いつかないだろう。
 それすらも眩んでしまうほどに、美華の財政事情は厳しかったのだ。 小遣い稼ぎ以上の稼ぎが期待できるだけに張り切りたくなる。
 その根底が、諸々の支払いが原因だったとしても……そして、その茶番はあと15分で終幕だ。
 15分。
 正午になれば信号弾が打ち上げられる。
 撤退を意味する信号弾。
 その特徴的な音響を聞けば、どの勢力も直ぐに馬鹿げた戦闘区域から速やかに離脱する手配になっている。
 逃走経路に無事に着けばピックアップしてくれる車輌に乗り込める。 五体が無事ならば、だ。
 無力化されて動けない体ならば、それぞれの勢力が雇ったどこの勢力にも属さない『始末』専門の殺し屋が丁寧に息の根を止めてくれる。
 バイタルゾーンにタマが当たらなくとも、致命的な結果を招く恐れがあるのはその為だ。
 半分ほどの長さになったモンテクリスト・クラブを吐き捨てて爪先で蹂躙する。
 強く吸い込みすぎたのでニコチンのエグ味が詰まってきてとてもじゃないが吸えない代物になってきた。一瞬だけ強烈な悪臭が立つ。路地に吹き込む風が、踏み潰したシガリロの悪臭を浚っていく。
 左手に予備弾倉を握る。
 スチェッキンのセレクターをフルオートに合わせる。
 弾倉には10発程度しか残っていない。
 引き金を引きっぱなしにすれば1秒も持たない。
 バラクラバを戻し、息を大きく吸い込む。
 腕を室外機の陰から突き出して碌に狙わずに引き金を引く。
 1秒も持たない連射。それで充分だった。
 連中は焚き火で爆ぜた木片が顔に当たったように驚き、角の奥に引っ込んだ。
 その時には既に美華は室外機の陰から飛び出しながら、弾倉交換を行っていた。
 連中が盲撃ちを止めて奥に引っ込むとは予想していない。博打だった。
 どうなろうと、スチェッキンの弾倉が空になった瞬間に飛び出して弾倉を交換しながら距離を詰める事しか考えていない。
 新しい弾倉を叩き込み、奥まった角の手前でパーカーが埃だらけになるのも構わずに滑り込んで、足首の位置から空を見上げるような角度でスチェッキンの銃口を勢いよく振り上げて引き金を……セレクターを切り替えていない引き金を一気に引き絞ることしか考えていない。
 狭い路地に2秒に満たない連射音が空気を汚す。
 木魂する銃声とは程遠い。
 大排気量のチェーンソウが唸るのに似た銃声。
 20発の9mmマカロフの弾頭は角の奥、1mほどの位置で呆然としていた2人の男の体をミシンで縫うように弾痕を刻んだ。
 スライドが後退。同時に信号弾の大音響。
 連射の銃声に鼓膜の機能を軽く麻痺させられていたので、信号弾の音が聞こえても情報と選別に時間が掛かった。
 正午を迎えた。
 抗争の姿を借りた殺し合いゲームはお終いだ。
 もうこの戦闘区域での恨みつらみは関係無い。
 信号弾がジャッジだ。
 今から発砲して危害を加えても、組織の顔に泥を塗るだけなので参加した三下連中には手を出せない。
 金で雇われた美華のようなバランサーは暗黙の了解とはいえ、一定のルールを理解しているので護身以外で発砲することは無い。
 信号弾があと1秒早ければ、地面で転がる2人の男は蜂の巣にならずに済んだ。
 これもその人間の運だ。
 状況が違えば、そこで転がっているのは美華だったのかもしれない。
 スチェッキンの弾倉を一応、交換して左脇に滑り込ませる。
 右脇の3連マグポーチは既に空だ。
 空弾倉も捨ててしまった。後日に買い足さねばならない。
 ロシア経由の流通経路を持つ武器屋と伝を持っているので、アクセサリーの購入窓口には困らない。
 困っているのは支払う代金だ。
 尤も、それも今回の報酬で釣り銭が来る程度には支払いが出来るので生き残ったことで安堵した。
 生き残ってこその達成感だ。
 美華は今度こそ悠々とモンテクリスト・クラブを燻らせだした。
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