遠い海の下
モンテクリスト・クラブを吸いたい一心でバラクラバを顔から下げていた自分の迂闊さに呆れる。
モンテクリスト・クラブを唇の端に蓮っ葉に銜え、思いきり吸い込む。
途端に口中にハバナのドライシガー特有の土臭さと焦げ臭さが混じった煙が溢れる。
乱暴に紫煙を吐き散らす。
モンテクリスト・クラブの先端が一気に1cmほど灰燼となる。
強く吸い込んでも、弱く吸い込んでも風味に趣が出るので嫌いな味には変化しなかった。
悠々と燻らせる葉巻ではないが、10分程度でリラックスを得るのには最高の煙草だ。
細く長い機械巻き。仄かに甘味が舌に残る。
味わう余裕の無い中、半分ほどセカセカと灰にして直ぐに吐き捨てる。
単価で見れば1本辺りの値段は紙巻煙草の4倍以上だ。……満足感はそれ以上だ。
ニコチンへの渇望を難なく満たした美華は、スチェッキンをフィストグリップのアソセレススタンスで構えながら路地を行く。
路地の真ん中を走破する愚行は犯さず、左手側の壁や遮蔽に寄りかかるようにして走る。
角から咄嗟に敵が出現しても対応し易いように、右手の可動範囲を広げ、左足で即座に遮蔽に潜める様に常に構えているのだ。
散発的な銃声。
腕時計に視線を向ける。午前11時半を僅かに経過。
あと30分粘ればこの馬鹿げたゲームは終わる。
それまで生き残っていればいい。
事前の打ち合わせで、自軍の連中とは携帯電話で連絡を取り合う予定だったが、それも直ぐに瓦解する。
どいつもこいつもトリガーハッピーで役に立たないと判断した通りになった。
バラクラバで再び顔の下半分を隠し、狭い路地を当初の予定通りに迂回する。
このまま行けば、さきほどのフルオート射撃で先行させた自軍が交戦している背後を掻くことが出来る。
辺りはフェンスやパレットの山で脳内の地図が役に立たない。
拳銃よりも工具の方が有り難い状況だ。
今し方も目前に突如現れたフェンスを攀じ登るべく、スチェッキンを口に横銜えにして、ちょっとした障害物競走を堪能した。
袖に纏わりつくパーカーの裾が鬱陶しい。
これからの季節は上着の選択に気をつけなければ。
やや遅れたものの、目的の位置に到達する。
「!」
――――上手くいくとは思っていなかったけど……。
先行させた2人が、有ろう事か、背後から挟撃されて膠着している。先手を打たされて後手を取られた。
連中の方が有利!
「?」
挟撃にしては『挟み込んでいる勢力』の動きが変だ。
このまま見物をしていられる身分でもないのでスチェッキンのセレクターをフルオートに切り替えて3、4発の指切り連射を、手近な敵に向かって発砲。
銃口の先には3人。距離15m。
ドラム缶などの遮蔽に潜んで、乱射を放ち、必死で抵抗する。
連携が取れていない。……その3人は背後からの突然の銃声に炙られて右往左往する。
スチェッキンの弾倉を1本分使ったが、動きが妙だった。
牽制射撃を背後から浴びせられた連中は、慌てふためいているのに、もう一方の挟撃を受け持っている連中に大した動揺は無い。
弾倉を交換し、今度は今し方、背中を襲撃した連中に狙いを定める。 パーカーが汚れるのも気にせず、地面に伏せて被弾面積を少なくする。
この状態での発砲は戦術的と言い難いが、安定した射撃を継続し易い。
下から僅かに見上げるような角度で銃口を維持すると、意外と銃口が咄嗟に左右に振り易い。
慌てず、狙う。
背後からの銃撃に焦る連中は今度は自分達が挟撃されたのだと思ったのか、頻繁に弾倉を交換しながら四方八方に銃弾をばら撒く。
遮蔽を優位に運用する思考が鈍ってしまっている。
約15m。美華の腕なら外さない距離だ。
狙撃に向かないスチェッキンのサイトでも充分に狙える。
発砲。殺すつもりは無い。
この場で速やかに大人しくなってくれればそれでいい。
左手側に位置する男の臍下に命中。
9mmマカロフの空薬莢が掻き出される。
空薬莢がコンクリの地面にぶつかる。その男は体を二つに折るようにして腹を押さえて膝から崩れ落ちた。
……スチェッキンの銃口の先から硝煙が流れる。
その銃声に気が付いた、残りの2人も美華が潜んでいると思われる方向に銃弾を叩き込む。……その狙いは適当すぎるのでかすりもしない。
連中は銃声で大雑把な位置を知っただけで、美華がどのような体勢で発砲したのか全く特定していない。
美華は唇を引き締めて冷静に引き金を引く。
右手側の男の右肩に命中する。
15m先の動体目標ともなると外れはしないが、精密に命中させるのは流石に無理が祟る。
右肩に9mmがめり込んだ男は軸足を中心に衝撃で回転して力無く、その場に尻餅を搗き、やがて、仰向けに倒れる。衝撃で軽い脳震盪を引き起こしたのかもしれない。
残りの1人に銃口を振ると、その男は遮蔽から迂闊にも身を乗り出しすぎたのか、自軍の誰かが放った銃弾に胸を縫われて鈍い呻き声と共に仰け反り、倒れた。
漸くこの場の『図面』がはっきりした。
3つの勢力はそれぞれ殺し合いをしている。
『その大前提が覆らなかった』事と『自軍以外の顔ぶれを知らなかった』事による勘違いだ。
先行させた自軍の2人は1つの勢力に挟撃されていたのではない。偶々遭遇した、あるいは漁夫の利を得ようとしたもう1つの勢力とによって挟まれていた。
『敵の敵は味方とは限らない』。
それがこの小さな区域で乱戦に展開しない混乱を招いていた。
3つの勢力が偶々、入り乱れる事無く陣取ってしまったが故の、『挟撃に見える』陣取りだった。
自軍を先行させた美華に責任が有る訳ではない。
イニシアティブがラグビーボールのようにひっきりなしに3つの勢力を右往左往していただけの事だ。
美華がここで1つの勢力……今し方無力化させた3人を『整理』しなければ、余計に混沌とした展開になっていた。
ここを主戦場にしていれば被害は更に大きくなるだけだ。全ての勢力の仲間が仲間を呼び、ここで大きな銃撃戦に発展すると面倒な雲行きになる。
2つの勢力なら簡単だ。
敵味方という考えで割り切る事が出来る。
……だが、3つの勢力が入り乱れると、標的の取捨選択が億劫だ。
自軍の連中の顔は覚えている。
それ以外は敵……そのように単純に思考できても、場が乱戦だと様々な状況の把握に思考のタスクが割かれて余裕が無くなる。
もう少しで主戦場に発展しそうだった風向きを理解して突然、冷や汗が背筋を舐めた。
確かに気温は高いが突然、氷を押し付けられたように心臓に悪い冷たさだった。
美華は立ち上がると、またもバラクラバで顔を覆い、走りながらモンテクリスト・クラブの紙箱を取り出した。
左手の5本の指を蜘蛛の足のように器用に動かし、蓋を開けて中身から1本摘み出して口に銜える。
「……!」
モンテクリスト・クラブの紙箱をパーカーの左ポケットに押し込んだ時に目前10mの路地の入り口から飛び出した、『どちらかの勢力の誰か』を無造作に撃つ。
ハエに向かって殺虫剤を吹くような適当な発砲だった。
右手だけで保持したスチェッキンが、軽快な銃声を挙げて無用心に飛び出した男の腹部に銃弾を叩き込む。
男は紙風船が破裂したような呼吸を勢いよく吐くと、体を折って前のめりに倒れた。
手にしていた19111が滑り落ちて暴発する。飛び出した弾頭は明後日の方向に孔を穿つ。
モンテクリスト・クラブを唇の端に蓮っ葉に銜え、思いきり吸い込む。
途端に口中にハバナのドライシガー特有の土臭さと焦げ臭さが混じった煙が溢れる。
乱暴に紫煙を吐き散らす。
モンテクリスト・クラブの先端が一気に1cmほど灰燼となる。
強く吸い込んでも、弱く吸い込んでも風味に趣が出るので嫌いな味には変化しなかった。
悠々と燻らせる葉巻ではないが、10分程度でリラックスを得るのには最高の煙草だ。
細く長い機械巻き。仄かに甘味が舌に残る。
味わう余裕の無い中、半分ほどセカセカと灰にして直ぐに吐き捨てる。
単価で見れば1本辺りの値段は紙巻煙草の4倍以上だ。……満足感はそれ以上だ。
ニコチンへの渇望を難なく満たした美華は、スチェッキンをフィストグリップのアソセレススタンスで構えながら路地を行く。
路地の真ん中を走破する愚行は犯さず、左手側の壁や遮蔽に寄りかかるようにして走る。
角から咄嗟に敵が出現しても対応し易いように、右手の可動範囲を広げ、左足で即座に遮蔽に潜める様に常に構えているのだ。
散発的な銃声。
腕時計に視線を向ける。午前11時半を僅かに経過。
あと30分粘ればこの馬鹿げたゲームは終わる。
それまで生き残っていればいい。
事前の打ち合わせで、自軍の連中とは携帯電話で連絡を取り合う予定だったが、それも直ぐに瓦解する。
どいつもこいつもトリガーハッピーで役に立たないと判断した通りになった。
バラクラバで再び顔の下半分を隠し、狭い路地を当初の予定通りに迂回する。
このまま行けば、さきほどのフルオート射撃で先行させた自軍が交戦している背後を掻くことが出来る。
辺りはフェンスやパレットの山で脳内の地図が役に立たない。
拳銃よりも工具の方が有り難い状況だ。
今し方も目前に突如現れたフェンスを攀じ登るべく、スチェッキンを口に横銜えにして、ちょっとした障害物競走を堪能した。
袖に纏わりつくパーカーの裾が鬱陶しい。
これからの季節は上着の選択に気をつけなければ。
やや遅れたものの、目的の位置に到達する。
「!」
――――上手くいくとは思っていなかったけど……。
先行させた2人が、有ろう事か、背後から挟撃されて膠着している。先手を打たされて後手を取られた。
連中の方が有利!
「?」
挟撃にしては『挟み込んでいる勢力』の動きが変だ。
このまま見物をしていられる身分でもないのでスチェッキンのセレクターをフルオートに切り替えて3、4発の指切り連射を、手近な敵に向かって発砲。
銃口の先には3人。距離15m。
ドラム缶などの遮蔽に潜んで、乱射を放ち、必死で抵抗する。
連携が取れていない。……その3人は背後からの突然の銃声に炙られて右往左往する。
スチェッキンの弾倉を1本分使ったが、動きが妙だった。
牽制射撃を背後から浴びせられた連中は、慌てふためいているのに、もう一方の挟撃を受け持っている連中に大した動揺は無い。
弾倉を交換し、今度は今し方、背中を襲撃した連中に狙いを定める。 パーカーが汚れるのも気にせず、地面に伏せて被弾面積を少なくする。
この状態での発砲は戦術的と言い難いが、安定した射撃を継続し易い。
下から僅かに見上げるような角度で銃口を維持すると、意外と銃口が咄嗟に左右に振り易い。
慌てず、狙う。
背後からの銃撃に焦る連中は今度は自分達が挟撃されたのだと思ったのか、頻繁に弾倉を交換しながら四方八方に銃弾をばら撒く。
遮蔽を優位に運用する思考が鈍ってしまっている。
約15m。美華の腕なら外さない距離だ。
狙撃に向かないスチェッキンのサイトでも充分に狙える。
発砲。殺すつもりは無い。
この場で速やかに大人しくなってくれればそれでいい。
左手側に位置する男の臍下に命中。
9mmマカロフの空薬莢が掻き出される。
空薬莢がコンクリの地面にぶつかる。その男は体を二つに折るようにして腹を押さえて膝から崩れ落ちた。
……スチェッキンの銃口の先から硝煙が流れる。
その銃声に気が付いた、残りの2人も美華が潜んでいると思われる方向に銃弾を叩き込む。……その狙いは適当すぎるのでかすりもしない。
連中は銃声で大雑把な位置を知っただけで、美華がどのような体勢で発砲したのか全く特定していない。
美華は唇を引き締めて冷静に引き金を引く。
右手側の男の右肩に命中する。
15m先の動体目標ともなると外れはしないが、精密に命中させるのは流石に無理が祟る。
右肩に9mmがめり込んだ男は軸足を中心に衝撃で回転して力無く、その場に尻餅を搗き、やがて、仰向けに倒れる。衝撃で軽い脳震盪を引き起こしたのかもしれない。
残りの1人に銃口を振ると、その男は遮蔽から迂闊にも身を乗り出しすぎたのか、自軍の誰かが放った銃弾に胸を縫われて鈍い呻き声と共に仰け反り、倒れた。
漸くこの場の『図面』がはっきりした。
3つの勢力はそれぞれ殺し合いをしている。
『その大前提が覆らなかった』事と『自軍以外の顔ぶれを知らなかった』事による勘違いだ。
先行させた自軍の2人は1つの勢力に挟撃されていたのではない。偶々遭遇した、あるいは漁夫の利を得ようとしたもう1つの勢力とによって挟まれていた。
『敵の敵は味方とは限らない』。
それがこの小さな区域で乱戦に展開しない混乱を招いていた。
3つの勢力が偶々、入り乱れる事無く陣取ってしまったが故の、『挟撃に見える』陣取りだった。
自軍を先行させた美華に責任が有る訳ではない。
イニシアティブがラグビーボールのようにひっきりなしに3つの勢力を右往左往していただけの事だ。
美華がここで1つの勢力……今し方無力化させた3人を『整理』しなければ、余計に混沌とした展開になっていた。
ここを主戦場にしていれば被害は更に大きくなるだけだ。全ての勢力の仲間が仲間を呼び、ここで大きな銃撃戦に発展すると面倒な雲行きになる。
2つの勢力なら簡単だ。
敵味方という考えで割り切る事が出来る。
……だが、3つの勢力が入り乱れると、標的の取捨選択が億劫だ。
自軍の連中の顔は覚えている。
それ以外は敵……そのように単純に思考できても、場が乱戦だと様々な状況の把握に思考のタスクが割かれて余裕が無くなる。
もう少しで主戦場に発展しそうだった風向きを理解して突然、冷や汗が背筋を舐めた。
確かに気温は高いが突然、氷を押し付けられたように心臓に悪い冷たさだった。
美華は立ち上がると、またもバラクラバで顔を覆い、走りながらモンテクリスト・クラブの紙箱を取り出した。
左手の5本の指を蜘蛛の足のように器用に動かし、蓋を開けて中身から1本摘み出して口に銜える。
「……!」
モンテクリスト・クラブの紙箱をパーカーの左ポケットに押し込んだ時に目前10mの路地の入り口から飛び出した、『どちらかの勢力の誰か』を無造作に撃つ。
ハエに向かって殺虫剤を吹くような適当な発砲だった。
右手だけで保持したスチェッキンが、軽快な銃声を挙げて無用心に飛び出した男の腹部に銃弾を叩き込む。
男は紙風船が破裂したような呼吸を勢いよく吐くと、体を折って前のめりに倒れた。
手にしていた19111が滑り落ちて暴発する。飛び出した弾頭は明後日の方向に孔を穿つ。