遠い海の下

 美華はスチェッキンを放り出し、四つん這いになってずるずると声が段々消えて行く麗子に近寄る。
 9mmマカロフのフルメタルジャケットだ。
 まだ助かる。
 今直ぐ救急車を呼んで適切な処置を受ければ、内臓の破損だけで助かる……そう言った事を捲くし立てながら、美華は思うように動かない体を引き摺る。
 恐怖に屈する感触は久し振りだが、久々の体験がこんな場面である事を呪う。
「長く……喋りすぎたね……」
 力なく、麗子の右腕が地面を這う。
 その手にはコルト・ウッズマンが握られている。
 あたかも最初からそこにそう有るべきと言うかのように、コルト・ウッズマンの銃口を口に深く銜えて、麗子は引き金を引いた。
「!」
 麗子の口中でくぐもった発砲音。
 22口径は咽頭の奥へ真っ直ぐ進み、小脳と関連する脳組織を一発で破壊した。
 この部分は爪楊枝で刺しただけで致命傷になるデリケートな部位だ。22ロングライフルの銃弾であれば、確実に即死に到る破壊を提供できる。
 麗子はそれきり動かなくなった。
 まだ喋りたい事もあっただろう。
 まだ聞いて欲しい事があった。
 なのに彼女は永い友人との対峙と言う形式で、勝てない勝負の敗北で、唐突に始まり無為に終わる幕引きで、死んだ。
 22口径の弾頭は射出孔を拵えるほどではなかった。
 綺麗なままの顔。
 口から硝煙を薄っすらと立ち昇らせている麗子の死体。
 何もかもが馬鹿馬鹿しかった。
 麗子が、美華を一世一代の勝負の相手として選んだ理由は不明のままだ。
 美華は這い寄って麗子の手からコルト・ウッズマンを奪う。
 ゆらりと幽鬼のように立ち上がり、その場を、静かに、去る。
 歩きながらベルトを緩め、スチェッキンの弾薬ポーチやホルスターを置いていくように捨てていく。
 足跡のように残るアクセサリー。
 それらに執着は無かった。
   ※ ※ ※
 太平洋を水平線を一望できるヨットハーバーから小型クルーザーをレンタルして船頭を雇い、できるだけ沖合いに出てもらった。
 今の美華は丸腰だ。
 ポケットに収まっているのはモンテクリスト・クラブとイムコ・ストリームラインと携帯灰皿くらいの物だ。
 快晴とは言い難い。
 早く用件を済ませてヨットハーバーに帰らなくては。
「…………」
 麗子が死んで1週間経過した。
 美華はこの世界から足を洗う覚悟で関係各所へ頭を下げに奔走していた。
 麗子は情報屋を殺してしまっていたので、その落とし前の付け方を美華に迫られる事も多かった。
 美華と麗子は違う要件で依頼を受けていた事や、尻拭いは美華が行ったと説明するのに時間が掛かった。
 金で解決してやると言う関係先も多く、マンションを売り払った金で何とか工面した。
 今の美華は本当に丸腰だ。
 勿論、上手く足抜けができるとは思っていない。
 寧ろ、闇社会で生きていく方が余程楽だと思える苦難が待ち構えている。
 新しい自分を創る以前に、見つけなければならない。
 その素材になる『何か』を模索しなければならない……そんな事を海風に当たりながら漠然と考える。
 口に銜えたままだったモンテクリスト・クラブは強風に煽られて早くも中ほどまでが灰になっている。
 味にエグ味が出てきたので、ポケット型の携帯灰皿に押し込んで揉んで鎮火させる。
 空を仰ぐ。
 船頭が渡してくれたミネラルウォーターのペットボトルを呷る。
 この辺りの海は水深300mほど。
 船頭に指定したポイントに到着する頃合だ。
「船長。悪いけど、見なかった事にしてくれる?」
 美華はパーカーの懐から札束入りの封筒を船頭に渡す。
 船頭は何も言わずにそれを受け取る。
 『この手の仕事は船頭にとっては良くある事なのかもしれない』。
 おもむろに手にした小型ボストンバッグ。
 美華は中身を最終確認して、停止したクルーザーの甲板から放り投げた。
 バッグの中身はコルト・ウッズマンとコンクリブロック。
 たった1挺の、古ぼけた射撃競技用の自動拳銃を海中に放り込むのに随分と時間が掛かった。

 もう、これであの凶銃は人の目に触れない世界で、錆び付いて朽ち果てるだろう。




 それが美華の最後の仕事だった。

 海風が心地よい、午前の日本近海。
 今度はバカンスで自分で船の舵を取りたいと思った。






 後日、海洋調査チームが、近海の大陸棚と海流を調査する目的で大掛かりな地引を行った調査方法が問題視された。
 その話題は、地方版の紙面を少々沸きあがらせるだけで留まった。

 余談だが、海底から回収されたゴミの山の中に埋まっていたはずのボストンバッグ。
 それは海洋調査チームの一員にゴミに分類されたが、その後の行方は杳として知れなくなった。


 それは、美華とはもはや関係の無い世界での出来事だった。

《遠い海の下・了》
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