遠い海の下

 雇った情報屋を射殺した時点でもう麗子に後戻りは出来なくなった。 この敷地内に居る、一山幾らの鉄砲玉もどきを雇ったのも痛めつけて弱ったところを甚振って殺す算段だったか、依頼から逃げられない口実を拵える為だけの仕掛けだったのか……今ではどうでもいい。
 このお膳立てをしたのは麗子だ。
 コルト・ウッズマンに呑み込まれた麗子だ。
 この女とは長い付き合いだが、ハジキを構えている姿は見た事が無い。
 それでも……美華は背筋を撫でられる不快感を覚える。
 美華自身が呑み込まれた。
 あの素人でカタギの橘恵子でさえもプロの美華に一矢報いる行動に出た。……手元にコルト・ウッズマンが有ったからだ。
 瞼は死人を思わせる精気の無さ。
 なのにその瞳孔には、殺意以上の……殺しに魅入られた人間のそれが爛々と輝いている。
 『こいつはここで始末しなければ危険だ。』
 美華は右手に携えたままのスチェッキンを両手で構え、銃口を麗子に向けた。
 麗子のコルト・ウッズマンはだらりと右手に下がったままで挙動に変化が無い。
 背後に感じる男たちの気配も微動だにしない。
 男たちの気配は変化が無いのに、肌を差すような殺意が感じられない。矢張り、この場の頭目は麗子か。
 麗子が美華を狙う理由。
 恐らくはそんな物は存在しない。
 敢えて付け加えるのなら、自分を『知る』人間を片付けて、違う街に逃げても手配され難いようにする為だろうか。
 だとすれば、美華を殺した後はこの場を囲む男たちも片付ける予定なのだろう。
 美華が好きだけど嫌い。
 嫌いだけど好き。
 そんな単純なアンビバレンスが働いただけなのかもしれない。
 ともすれば、麗子自身も自分が何をしているのか理解していない可能性も大きい。
 殺したいから殺す。
 人間特有の感情なのかもしれない。
 一番手近に美華が居た。
 それだけの理由で美華は狙われたのかもしれない。
 どのみち、もう引き返せない。
 現実として、情報屋を殺した麗子とつるんでいたのでは、美華も情報屋の組合から痛くない腹を探られる。匿うのも、逃がすのも困難だ。
 空気が震える。
 夜気が冷たさを帯びる。
 湿った微風が頬を撫でる。
 彼我の距離、たったの15m。
 15mが1500mに思えるほど麗子が遠くに見える。
 視野が狭窄する。耳鳴りがする。
 冷たさを帯びた汗がじわりと額に浮かぶ。
 先にスチェッキンを構えているはずの美華が気圧される。
 拳銃を握っている姿を見た事が無い麗子の心が、読めない笑顔に押し潰されようとしている。
 100挺の自動小銃に囲まれても、こんなプレッシャーは感じない。 圧倒的にこちらが有利なはず。
 圧倒的に向こうが不利なはず。
 あたかも1500mも離れているかのような解離感すら感じるのに、今直ぐ、直ちに、速やかに、たった1発でこちらこちらの内臓を射抜くような威圧感を感じる。
 ……威圧感ではなく、威圧そのものとさえ錯覚する。
 先に銃を構えている美華は決して精神に優位性を持っていなかった。 麗子を殺しても、背後に居る男たちが自分を始末するのではないかと言う恐怖感は勿論有った。同時に、この場を仕切っているのが麗子ならば、麗子を仕留めれば4人の男たちは何も手を下さずに陰に紛れて消えてしまうだろうと期待した。
「…………」
「…………」
 麗子の薄い笑顔。
 美華の消え行く表情。
 撃鉄が既に起きているスチェッキンが異様に重い。
 先に銃口を保持し、長く照準を定めたスタイルのままなのだから、疲労が蓄積して当然だ。
 果たして、スチェッキンの重さは物理的な重さなのだろうか。
 永い友だと思っていた女が、頼りになると思っていた女が、自分の事ならば何でも知っていると思っていた女が……拳銃を携え、手勢を連れて目前に立っている。
 麗子はコロシの世界ではプロである美華に大して、物怖じ一つせずに真っ向から挑戦している。
 明確に麗子は美華に「死ね」とも「殺す」とも言っていない。
 無言で多くを語っている。
 背中に背負うオーラが死ねと、殺すと、叫んでいる。
 和解の余地も必要も無い。
 そもそも何も争っていない。
 彼女の……麗子の心の中で様々な心情がマーブルを描き今に到ったのだろうか?
 美華には殺される謂れが無いのと同じで、殺さない謂われも無い。 
 『いつから麗子だけは敵にならないと錯覚していた』。
 湿度を帯びた夜の空気が季節の変わり目が訪れた事を報せる。
 どれ位の時間、15mの距離を挟んで対峙しているか解らない。
 次に取るべきアクションは引き金を引くことだけ。
 誰かが気を利かせて、コインを放り投げてくれたらどんなに楽か。
 麗子との過去の思い出が噴出する。
 その麗子はどうだろう? 相変わらずの腹の知れない笑顔。
 コルト・ウッズマンをだらりと提げて、それでも自分が有利だと笑顔が語る。
 取り巻きの男たちに撃たせるつもりではない。自分が負けるビジョンが見えていない。……絶対の自信を持った笑顔だ。
 空気は冷え込む。
 極点まで冷え込む。
 その瞬間だった。
 ピクリと麗子の右肩が動いた。
 躊躇は無い。躊躇が見えなかった。殺す気だった。
 互いに殺すつもりだった。
 だが、相打ちは望んでいない。
 必ず自分が勝つ。
 絶対に自分が生き残ると言う生への執着と、自分の信念が込められた滑らかな動作だった。
 滑らか。
 滑らかに美華の人差し指は引き金に命令を下し、滑らかに麗子のコルト・ウッズマンの銃口が残像を作って跳ね上がる。
 麗子にこれだけの速度が発揮できるのが意外だった。
 麗子を冷静に見守る事が出来る自分の時間が、止まっているかのようだった。
 銃声は一つ。
 9mmマカロフは間違える事無く、麗子の鳩尾に叩き込まれた。
 麗子はコルト・ウッズマンを手放す事無く、その場に膝から崩れ落ちる。
 最初から、勝負する前からこうなるのは解っていた。
 既に拳銃を構えていた殺し屋と、構えを取らない情報屋。
 どちらがハジキの勝負で勝利するのか解り切っていた。
 なのに、麗子は美華に銃口を向けていた。
 引き金を引き絞る速度と同じ速度で、コルト・ウッズマンの銃口を腰の辺りまで跳ね上げ、確実にそのサイトの先は美華を捉えていた。
 情報屋として活かしておくのが勿体無いほどの速度だ。
 美華は自分が勝利したと言うのに、満身創痍で辛勝を勝ち取ったのに似た疲労を覚えていた。
 全身から汗が噴出し、銃口を突きつけられた素人がその恐怖から解放されたかのように腰を抜かして座り込んでしまった。
 腹の底から恐怖がこみ上げて、激しい吐き気と寒気に包まれる。
 ほんのコンマ数秒間の出来事。
 勝ったはずの美華は顔を土気色に近くし、鳩尾に銃弾を受けた麗子は笑顔を一層深めて満足げに地面に転がる。
 麗子が雇ったであろう男たちは蝋燭の火を吹き消すように、静かに気配を一つ一つ、消していく。
 やがて、この場所には美華と麗子しか居なくなった。
 麗子を撃った後悔も疑問も呵責も無い。
 生き残るために引き金を引いた。
 『標的が麗子だった』。
「美華……口がきけるうちに喋っておくわ……」
 麗子が消え入りそうな声でとつとつと話し出す。
「貴女を殺すほど好きだったって言えば綺麗に収まるかしら? ……でも……違うの……貴女を驚かせようと先に……この銃を手に入れたけど……この銃を手にした途端、私でなくなった……ううん、違うなぁ。私がどこかに居る私と交代して何もかも壊したくなった……自分でも解らない……いつから……どこから話そうか……何もかもがダメだったのは最初から……かな」
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