遠い海の下

 背後から……階下から忍び寄ろうとしていた気配が、スチェッキンの急な乱射に驚いて一旦、後退して慌てふためく。
 足音が乱雑に連なる。
 美華は弾倉を交換しながら目前5mの部屋へと向かう。
 罠だと分かっていても、ここで立ち尽くしていては何も進まない。
 後退して階段を降りれば複数の銃口が待っている。
 もう美華は気が付いていた。
 これは『釣り針』だ。
 同業者が殺し屋に依頼した『釣り針』だった。
 心当たりが多すぎて、依頼主の背後を検索できない。
 表世界の素人が殺し屋を雇う振りをして、誘き出して競合相手を人知れず殺害する……それが『釣り針』の常だが、今回のように探り難い手段を用いる可能性もある事を失念していた。
 麗子に背後を洗わせず、コルト・ウッズマンに注意を向けすぎた結果、『今後も付き合いを続けたい依頼人』と言う色眼鏡を掛けさせられて目が眩み、簡単な罠に引っ掛かった。
 ここまで大掛かりな、分かり易くも分かり難い罠を仕掛けるとなると、美華に煮え湯を飲まされた複数の闇社会の人間が力を合わせたかと勘繰ってしまう。
 個人営業の事業主が寄り合って同業者を蹴落とす。
 それは汚い手段ではない。
 同業者だから仲間で敵同士。
 それが基本なのだから、自分の与り知らぬ所で複数が結託して1人を抹殺しようと考えるのも常だった。
 その淘汰に生き残れるかどうかと言うのも、裏稼業を渡り歩くのに必要な資質だった。
 『今回は』逃げ切ってやる。
 必ず今夜の件に関連した業者を探し出して逆撃に打って出る。そう決めた。
 ふと、目前のドア。
 ドアノブを捻る瞬間に更に全身に寒気が走る。このドアを開けてはいけない。
 足元の埃の足跡が『真っ直ぐすぎる』のがどうしても引っ掛かった。左手でタクティカルナイフを展開し、ドアの四つの辺の隙間に差し込んで切っ先を走らせる。
「!」
 ドアノブと反対側の辺で切っ先が細い針金を切断する手応えを感じた。
 爆薬が仕込まれている。
 ドアを開けると、その向こうに仕掛けられた罠が作動して爆薬が美華の体を吹き飛ばす。
 あるいは、据え付けられた機関銃や多数のボウガンなどで致命する負傷を負わされるだろう。
 ドアから静かに離れる。
 2階のフロアはシンプル。
 廊下は直線。前後に10m程度。
 階下へ降りる階段と、奥まった場所に非常階段が有るだけ。
 非常階段も罠の一つだと考えるのが普通だろう。
 2階の罠が破られても1階で手薬煉を引いている連中が銃を乱射して押し返してくる。
 こうしている間にも掃討に掛かる足音が階段の下に集まっているのが聞こえる。
 5人程度。少なくとも4人……プロの脚の運び方を修行中の歩幅。
 敷地内にも潜んでいる可能性有り。
 屋内に5人前後が潜んでいると考えて間違いない。
 全員を殺す必要は無い。逃げる隙を作ればいい。
 連中からすれば、必ず殺さなければ報復の報復が待っていると考えるはずだから死に物狂いだろう。
 そもそも……報復劇は外注で、他に雇い主が居るのか? 
 スチェッキンのセレクターをフルオートのまま。
 3、4発の指切り連射。
 階段の下に向かって盲撃ち。瞬く間に弾倉が空になる。
 間髪入れず弾倉交換。
 階段を駆け降りようとする。被弾を恐れない吶喊が階下より湧き上がる。
「!」
 連中は被弾を恐れないのではない。
 被弾の確率が非常に低い方法を取ったからだ。
 連中は機動隊が使う一般的なジェラルミンの盾を翳し、階段を上がってくる。
 横隊2人。その2人が重く大きな盾を翳している。
 それは可也の重量のはずで、階段を上がる足取りは、歩く程度の速さだった。
 驚愕に呆けている場合ではない。9mmマカロフのフルメタルジャケットでは逆立ちしても貫通しない硬さだ。
 盾を翳している人影は2人とも男だった。
 両手で盾を保持しているらしく、階段を難儀して昇っている。
 2階には逃げられる場所は無い。トイレと給湯室が2階にも有ったが、隠れると言うほどの役には立たない。篭城にも向かない。
 階段の横に一杯に広がった盾。
 その背後に数人の影。
 拳銃の銃口が盾の隙間からチラチラと見える。仲間に当たってはいけないので発砲を躊躇っている。
 銃口の脅威だけで美華を牽制する役目しか果たせていない。
 2階の階段を下りる事を一旦保留。
 短い指切り連射で盾に向かって発砲。怯む様子は無い。
 最初だけ銃声に驚いた素振りを見せたが、盾が完全に9mmマカロフ弾を防いだのを実感するや、即席の陣形を整えて階段を前進する。
 完全に2階へ踊り込まれたら絶望だ。
 盾の覗き穴のスリットを狙って右手だけで指きり連射。無為な抵抗だった。思わず後ずさりする。
 残弾を全てフルオートでばら撒く。空薬莢が階段の壁に当たって涼しい音を立てる。……弾倉交換。
 あと5段昇られると、自分の命が尽きると悲観が美華を覆う。
 ……その時だった。
「うおっ?」
 盾を持つ右手側の男が何かに驚いたと思ったら、階段を仰向けに倒れる。
 足元のバランスを崩して無様に倒れる様子が見える。
 1人を相手にするのに鉄壁の陣形だと思われた盾の1枚が突然、倒れる。途端……甲高くも聞き慣れた音を鼓膜が拾う。
――――空薬莢!
 盾の男は先ほどから繰り返しているフルオート射撃や、指きり連射でばら撒いた空薬莢を踏みつけてバランスを崩したらしい。
 防盾が大きく仰向けになるように、階段から仰け反るのを見た瞬間に美華は階段を下へ向かって飛ぶ。
 大きなジャンプではない。爪先が健在な盾の上辺を踏みつけ、スチェッキンで盾を持っている男の脳天を撃ち抜いた。
 体勢が大きく崩れる前にセレクターをフルオートに切り替える。
 盾の裏側に飛び乗るとそのまま階下へと階段を滑り落ちていく。
 ゲレンデを滑るスノーボードと同じ理屈で盾が滑る。
 集団のいる地点を抜けた時に9mmマカロフを仰向けになり、見上げるように寝転ぶ体勢で狭い階段の上方に銃口を向けて引き金を引き絞る。
 一まとめの集団はその乱射で、全員が満遍なく負傷し、行動不能に陥る。
 致命的な負傷を負った者は居ないだろう。脚や肩、肩甲骨に被弾した連中が多いと目視で確認した。
 直ぐに起き上がりながらスチェッキンの弾倉を交換する。
 この建物の内部は危険だ。
 風通しのいい扉から屋外に出た瞬間に散弾銃の咆哮。
 待ち構えていた銃撃。
 『足をガラス片に取られて滑って転んでいなかったら』直撃を受けていただろう。
 こけつまろびつ、寝転がったままの体勢を立て直そうともせずに体を側転させて今し方まで銃撃戦を展開していた建物の陰に転がり込む。
 その軌跡を銃弾が追う。
 4挺の銃声。
 屋内での作戦に失敗した時のために用意していた継ぎの矢か。
 万が一に備えての押さえの集団か。
 銃声を硬い地面を転がりながら数えて分析していた。
 散弾銃が1挺。短機関銃が1挺。拳銃が2挺。
 銃声からはそれくらいだ。
 少々の距離を転がり続けていたので三半規管が掻き回される。
 起き上がって、尚も足元が軽くふらつく。
 光源に4人の人影が浮かぶ。
 4人はそれぞれ二手に分かれて緩やかに美華を包囲しつつある。一気に火力で圧さない辺りを見るに、先ほどの素人とは少し違うと直感する。
――――やばい……。
 懐が軽い。スチェッキンの予備弾倉が心許ない。
 今までのように威勢良くフルオートばかりで圧していられない。それにスチェッキンの銃身の寿命も心配だ。
 メンテナンスに抜かりは無くとも拳銃は工業製品ゆえに磨耗には避けて通れない。
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