遠い海の下

 翌日から麗子に伝を持っている情報屋を動員して情報を集めるように手配する。
 少々金額が嵩むが致し方が無い。
 あのコルト・ウッズマンは本物だった。
 一瞬、美華が心を奪われるほどの輝きを持っていた。
 底の計れない沼から伸びた手に、魂を掴まれて引き摺りこまれる様な得体の知れない魅力だった。
 見蕩れなくとも表面の瑕や刻印を見ただけで分かる。
 現在では刻まれていない刻印。
 どんな使われ方をしたのか判然としない瑕。
 なのに……その銃は引き金を引けば確実に作動する気配が有った。
 少なくとも橘恵子の握っていたコルト・ウッズマンには実包が装填されていた。
 エピファニーに似た力を、女子高生に与える魔力を持つ拳銃の実力を垣間見た。


 顔面の腫れが引いて右手首の痛みが鎮まり、上半身の痛みも痣を残すだけとなった頃、急な依頼が舞い込む。
 コルト・ウッズマンの件に集中したかったが、差し込まれた依頼の方が美華からの割り高な報酬の提示にも怯まなかったので、引き受ける事にした。
 よく考えればコルト・ウッズマンを片手間に探している同業者は他に幾らでも居る。
 依頼人はそれぞれ違うと言う体を見せていたが、大本は同一の依頼人だろう。
 依頼人の公僕が、複数の手配師を使ってローラー作戦を展開しているのも分かっている。
 唯の探し物だけに……本気で探索をしている業者は美華だけだった。
 期限が付かず、報酬も安い。
 仕事をこなしたという履歴しか心に残らない仕事。
 一体、誰が本気で引き受けると言うのだ。
 少なくとも美華は本気を出している。
 その仕事を一旦、脇に置いて依頼を引き受ける。
 いつもの殺しの依頼だ。民間のバス車輌基地の跡地で潜む対象を殺害して欲しいとの事。
 これもシンプルだ。依頼人は不明。不明の方が都合がいい。
 余計な口を叩かずに済む。
 その代わりに殺害対象の情報は細かかった。
 情報の手配の仕方から身分の欺瞞から……依頼人はこの世界の玄人だと簡単に想像できる。
 何もかもがスムーズだった。
 依頼を引き受ける返信を送信すると、前金の振込みが一両日中に行われ、今後も長いお付き合いを約束したい商売相手だと舌なめずりした。
 殺害対象の詳しい情報は携帯電話のメール経由で送られてくる。
 複数の顔写真。体格や風貌の特徴。潜伏場所。潜伏場所付近の人口密度。潜伏を始めた時期。対象が外部との連絡や日用品の手配を如何にして行うか……事細かに送信されてくる。
 コルト・ウッズマンの件で少々、情報代に注ぎ込んだのでこれは嬉しいバックアップだった。
 早くこの依頼を遂行してコルト・ウッズマンの行方を追いたかった。目前にして『逃亡』したあの忌まわしい拳銃をどうしても見つけたかった。
 依頼の履行に全く問題の無いロケーション。
 住宅地から離れており、広い場所を確保する為に一般道へも国道へも繋がる道路が東西に走っていた。
 午後11時。
 モンテクリスト・クラブを強く大きく吸い込む。瞬く間に火を点けたばかりの先端1cm程が灰燼に帰す。
 廃業したバス車輌基地。光源は生きている。
 人気は無いが、街灯も有る。
 人間が潜伏するのに必要なだけの生活臭もする……事務所として使われている鉄筋2階建ての建造物に電灯が点っている。
 夜露どころかコックや栓を勝手に捻れば水道やガスも使えるだろう。長く使っていると、役所の然るべき部署が勘付くので長く滞在できて1ヶ月くらいだろう。
 殺害対象の顔や姿は頭に叩き込んだ。
 情報ではヤバイ取材を繰り返しすぎた売文屋とある。
 人生の最後をこんなところで終わるかもしれないとは、自称ジャーナリストも形無しだ。
 充分にモンテクリスト・クラブの馥郁たる芳香を愉しんだ後、吸殻を地面に落として踵で蹂躙する。
 一瞬だけ悪臭が立ち昇る。
 建物の敷地は高さ2mほどのコンクリブロックで囲まれている。
 正面のゲートは鎖と南京錠で施錠されている。
 その南京錠を破壊するのにスチェッキンを必要としない。足場には困らないので、施錠された正面の鉄の門扉を易々と乗り越える。
 今夜も夜陰に紛れる為に黒で統一したバラクラバ、パーカー、カーゴパンツ、運動靴だ。
 初夏の訪れを見せる季節。
 それでも……日が暮れると寒い。
 特に山間部に近いバス車輌基地では一層冷える。寒さで支障が出るほどではない。
 仕事でなければウイスキーを呷りたくなるような、『心地よい風』が頬を撫でる。
 午前中は茹だる様な暑さ。その気温のギャップに衣服のチョイスが難しい季節。
「…………」
 静まり返る敷地内。広大。駐車スペースには一切の車輌は見あたらない。
 民間のバス会社が廃業した跡地なのだから当たり前だ。
 その広大な敷地の端に鉄筋の建物が有る。本来なら無人のはずの建物。……灯りが点いている。
 スチェッキンを抜き両手で構え、頭を低くして小走りに建物に近付く。
 街灯や月明かりで光源光量は充分。
 標的は1人。そして独り。
 早く片付けてコルト・ウッズマンを早く探したい。
 目の前で逃げられた魚の大きさを麗子に見せてやりたい。
 逸る心を今だけは押し殺す。目の前に集中する。
 建物の正面口は閉まっている。鍵が壊された形跡は無い。
 自由に出入りが出来る状態……玄関のドア枠だけが残されて、鉄線が入った強化ガラスが無残にも叩き割られ、風通しが良くなっている。ドアを開ける手間が要らない。
 足元の細かいガラス片を踏みしめて建物内部に入る。
 換気が充分でない。埃と黴の臭いが立ち込める。時々顔に蜘蛛の巣が纏わりつく。
 屋内の廊下には電灯が点いていた。
 通路と各部屋へ続く廊下の電灯が全て点いているのではなく、必要な場所に必要なだけ点灯していた。トイレや給湯室、階段の踊り場などだ。
 敷地自体が背丈より壁に囲まれているので、傍目には電灯は確認し難い。
 敷地に入って視認できる。
 屋内だと更に詳しく分かる。
 生活臭が漂う。『生ゴミの臭い』がしない。
 人の気配がある。
 廊下や階段に浮いた足跡――潜んでいる者が埃の上を歩いた跡――が幾つも見える。
 足跡を見ると複数の人間が確認できる。
 標的のシンパが食料や日用品を差し入れしているのか。
「……?」
 ふと、疑問が湧く。
 生活臭が『大人しい』のだ。
 怯えて逃走して潜伏する人間の生活パターンから、幾つか常識が外れている。
 先ずトイレ。水道と電気が生きているのに、トイレットペーパーが確認できない。
 給湯室。『ゴミ箱が確認できない』。つまり、生臭い臭いに満たされていない。毎週ゴミ出しする習慣でも有るのか。
 それに廊下の床の埃が拵えた足跡。『2階に有る一つの部屋しか目指していない』。
 それ以外の部屋には用が無いように見える。
 2階へ上がり、床の埃を眼で追う。
 5m先の右手側のドアに足跡が続く。全ての足跡が続く。
 潜伏している人間は、最初からその部屋を目指していたかのように『迷わずにその部屋を使っている』。
 背中を氷で撫でられた気分になる。
 口から心臓が迫り出しそうだ。
 人の気配を感知した瞬間、2階へ上がったままの体勢で、左手側に体を押し付けてスチェッキンの銃口を大きく素早く前方から後方へと振る。
 咄嗟に切り替えたセレクター。
 フルオート射撃の銃声が火蓋を切った。
 遮蔽が無い場所。
 兎に角弾幕を張り、2階で篭城する事を考える。
 弾倉1本が瞬く間に空になり、空薬莢が無秩序に乱舞して廊下の空気を冷たく汚す。
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