遠い海の下
橘恵子と仲間の力関係は不明だが、今の若い世代に力関係と言う堅苦しい概念がしっかりと存在しているとは思えない。暴走族でさえ連携を嫌う時代だ。
茂田の豪邸と比べると庶民の家だ。
洋館造りのデザインをした外見だが、和室や洋室が配置された普通の家屋。
防犯カメラも無い正面玄関のノブにシューティンググラブ越しに手をかける。
鍵は掛かっていない。
蝶番は軋む音一つ立てずに静かに開く。
正面玄関から入り込む。一般家屋と同じ内装の廊下を靴のまま上がり込む。
スチェッキンを抜く。
実包を装填してあるが、撃つつもりは無い。
銃口で脅せばすんなりと事が運ぶと勝手に目論む。
どこの誰かも解らない人間に銃口で脅されて、咄嗟に抵抗を試みる事が出来るほどの肝を持った女子高生には見えなかった。
2階へと真っ直ぐ進む。
2階へ上がり、左手側に灯りが漏れるドアがある。半開きではなく、締まったドアの隙間から漏れた灯りだ。
スライドを引いて実包を薬室に送り込む。
スチェッキンの銃身がにょきっと伸びる。
スライドの後退幅が見た目以上に長いのがスチェッキンの特徴の一つだ。
金属の作動音が染み入るように響く。自分の気配を消す必要すら感じない。
ドアを引いて中に滑り込む。
「!」
ベッドの上で橘恵子が携帯電話を握り締めて、驚愕の顔色を浮かべる。
今夜も外出すべく着替えを済ませたらしい。
悲鳴を挙げそうになる橘恵子は恐怖に呑み込まれた顔をしている。平静なら可愛い部類に入る今時の子供だった。
「おっと……動いちゃダメ。撃つよ?」
橘恵子は携帯電話を滑り落とした手でベッドのシーツに手を伸ばした。彼女の動作を銃口で制した。
橘恵子はピタリと停止すると、それ以上、反撃の意思を見せなかった。
つかつかと橘恵子に近寄った美華は、その頬を左掌で張り飛ばして一気にベッドのシーツを捲った。
「……」
隠していたコルト・ウッズマンが見える。
タオルに巻かれていた状態。銃身とグリップエンドが突き出していた。
ガンオイルが染みにならないように考えたつもりなのだろう。この方法では硝煙や火薬滓の臭いが防げない。
コルト・ウッズマンを左手で捥ぎ取り、その重量感を確認する。
グラブの上からでも解る、冷たく無機質な感触。
表面の艶消しに近くなるほどの無数の瑕が鈍色を造り、蛍光灯の白い灯りをふんわりと反射させる。
一瞬で理解する。
この無数の瑕は、女子高生一人がどんなに扱っても刻む事が出来ない瑕だと。
荒い紙やすりを掛けたような艶消しになった鉄の肌を見ているうちに……美華の視線がコルト・ウッズマンに釘付けになっていた。
大きな隙を60cm先に居る橘恵子に与えたことにも気が付かないほどに視線が吸い寄せられていた。
自分の頭から、この瑕の一つに吸い込まれるような深い錯覚に襲われる。
「…………」
――――あ……。
心の中で呟いてしまう。
どうしようもない衝動。
コルト・ウッズマンを握る訳でもなく撫でるでもなく、ただ、『見蕩れた』。
「……!」
突然、体が揺らめく。
その揺らぐ視界を更に揺らすように、大きな衝撃が美華の体にぶつかる。
橘恵子が体当たりで美華を押し倒そうと試みたのだ。
体重差では美華の方が上でも、完全に視界……よりも、三半規管を優しく揺らされる世界に埋没していた美華は簡単に仰向けに倒れた。
美華の腹の上に橘恵子が乗る。
馬乗りになって橘恵子が大きな絶叫とともに、握り拳を美華の顔面に打ち下ろす。
セフティを解除したスチェッキンを握る右肩にも握り拳が叩き込まれる。
喧嘩慣れした打撃。普通なら負けるはずの無い取っ組み合い。
今は一方的に打撃に晒される。
顔面を中心に、喉や鎖骨などの人体的急所に小さな拳が鋭く乱打される。
腕力で殴る拳ではない。
完全に腹からの呼吸を合わせて腰、背中、肩からの短く鋭い打撃。
バラクラバの下で鼻血を流す。唇が切れる。鼻の奥に鉄錆び臭い生々しい臭いが広がる。
美華は左手で橘恵子の上半身を押し放そうと試みるが、その掌や左脇にも拳が叩き込まれる。
激痛に気が怯む。
右手のスチェッキンを体に引き寄せ、橘恵子の胴体を狙おうとするも先ほどからの打撃で脇や上腕に痛みが走り、グリップを握っているのがやっとだった。
美華は体を左右に振りその揺れ幅を大きくし、馬乗りの隙を抉じ開けて上下の位置を反転させようと何度も試みる。
その腰の挙動を悟った橘恵子がカウンターの揺れを腰だけで発生させて揺れを無力化させる。
3分ほども殴られる一方。
防戦一方。素人相手に手も足も出ない。
近接され過ぎて拳銃が邪魔になる距離。
「があっ!」
唸り声を挙げる。美華が激痛が走って間隔が麻痺し始めた腕を振り、左握り拳を橘恵子の顔面に叩き込む。
その瞬間にスローモーションのように次の展開が脳裏を過ぎった。
なのに、その動作を止める事も、制御する事も出来なかった。
いつの間にか手放していた、左手にあったはずの、コルト・ウッズマン。
それが今は橘恵子の右手の中に有った。
その小さな銃口が此方に向けられる。
同時にスチェッキンを胸の前に引き寄せ、右手首だけで不安定な状態で構え……発砲したのだ。
手首が反動で『流される』。
床にぶつけた時、あるいは取っ組み合いの最中にセレクターがフルオートに切り替わっていたのか、横倒しにしていたスチェッキンの銃口が橘恵子の上半身を左逆袈裟斬りの軌道で反動で流され、コルト・ウッズマンの引き金を正に引かんとしていた彼女を蜂の巣にした。
彼女は悲鳴を挙げなかった。……悲鳴を挙げたかっただろう。
不自然な角度でスチェッキンを保持し、心の準備も出来ていない状態で突然のフルオート射撃で右手首を挫いた。
9mmマカロフを全弾吐き散らす前にコルト・ウッズマンを握っていた彼女の手首にも何発か被弾し、勢い良く千切れ飛び、コルト・ウッズマンを握った手首は窓ガラスを叩き割って家の外へと転がり落ちた。
衝突する音から、屋根から玄関の庇、ポーチ下へと落ちたらしい。
瞬間的に死体と化した橘恵子の上体を押しのけ、返り血で汚れた自分自身を無視。
彼女に殴られた箇所や部位の激痛も無視。
スライドが後退したままのスチェッキンを挫いた手で握る。
転がるように2階の部屋を飛び出る。
廊下でつんのめって、足元を滑らせながら電灯の点いていない暗い階段を転がり落ちる。
新しい激痛が全身に生まれる。
頭部や脊椎に問題は無い。眩暈や吐き気も無い。痛みを一切無視。玄関からドアを開け放って辺りを見る。
早く探さねば先ほどの銃声で就寝を邪魔された住人が気付く。
「!」
橘邸の前を一匹の野良犬が、目を金色に反射させてこちらを見ていた。
その口には手首……コルト・ウッズマンを硬く握ったままの橘恵子の右手首が銜えられていた。
野良犬は遅い夕食にありついた顔をしていた。
美華には、その犬が握る鉄の塊に用が有る。
少しばかり大きな体つきをした雑種犬は、ぷいとそっぽを向いて夜陰の中に走り出す。
その犬を仕留めるべく、苦痛を無視してスチェッキンを翳すが、頼みのスチェッキンはスライドが後退して弾切れをアピールしていた。
「…………くそ!」
美華は吐き捨てる。
走る犬の姿はもう見えない。
騒然とし出す前の住宅街からの撤収を優先とした。屈辱の上に屈辱。歯軋りを立てるだけの夜だった。
茂田の豪邸と比べると庶民の家だ。
洋館造りのデザインをした外見だが、和室や洋室が配置された普通の家屋。
防犯カメラも無い正面玄関のノブにシューティンググラブ越しに手をかける。
鍵は掛かっていない。
蝶番は軋む音一つ立てずに静かに開く。
正面玄関から入り込む。一般家屋と同じ内装の廊下を靴のまま上がり込む。
スチェッキンを抜く。
実包を装填してあるが、撃つつもりは無い。
銃口で脅せばすんなりと事が運ぶと勝手に目論む。
どこの誰かも解らない人間に銃口で脅されて、咄嗟に抵抗を試みる事が出来るほどの肝を持った女子高生には見えなかった。
2階へと真っ直ぐ進む。
2階へ上がり、左手側に灯りが漏れるドアがある。半開きではなく、締まったドアの隙間から漏れた灯りだ。
スライドを引いて実包を薬室に送り込む。
スチェッキンの銃身がにょきっと伸びる。
スライドの後退幅が見た目以上に長いのがスチェッキンの特徴の一つだ。
金属の作動音が染み入るように響く。自分の気配を消す必要すら感じない。
ドアを引いて中に滑り込む。
「!」
ベッドの上で橘恵子が携帯電話を握り締めて、驚愕の顔色を浮かべる。
今夜も外出すべく着替えを済ませたらしい。
悲鳴を挙げそうになる橘恵子は恐怖に呑み込まれた顔をしている。平静なら可愛い部類に入る今時の子供だった。
「おっと……動いちゃダメ。撃つよ?」
橘恵子は携帯電話を滑り落とした手でベッドのシーツに手を伸ばした。彼女の動作を銃口で制した。
橘恵子はピタリと停止すると、それ以上、反撃の意思を見せなかった。
つかつかと橘恵子に近寄った美華は、その頬を左掌で張り飛ばして一気にベッドのシーツを捲った。
「……」
隠していたコルト・ウッズマンが見える。
タオルに巻かれていた状態。銃身とグリップエンドが突き出していた。
ガンオイルが染みにならないように考えたつもりなのだろう。この方法では硝煙や火薬滓の臭いが防げない。
コルト・ウッズマンを左手で捥ぎ取り、その重量感を確認する。
グラブの上からでも解る、冷たく無機質な感触。
表面の艶消しに近くなるほどの無数の瑕が鈍色を造り、蛍光灯の白い灯りをふんわりと反射させる。
一瞬で理解する。
この無数の瑕は、女子高生一人がどんなに扱っても刻む事が出来ない瑕だと。
荒い紙やすりを掛けたような艶消しになった鉄の肌を見ているうちに……美華の視線がコルト・ウッズマンに釘付けになっていた。
大きな隙を60cm先に居る橘恵子に与えたことにも気が付かないほどに視線が吸い寄せられていた。
自分の頭から、この瑕の一つに吸い込まれるような深い錯覚に襲われる。
「…………」
――――あ……。
心の中で呟いてしまう。
どうしようもない衝動。
コルト・ウッズマンを握る訳でもなく撫でるでもなく、ただ、『見蕩れた』。
「……!」
突然、体が揺らめく。
その揺らぐ視界を更に揺らすように、大きな衝撃が美華の体にぶつかる。
橘恵子が体当たりで美華を押し倒そうと試みたのだ。
体重差では美華の方が上でも、完全に視界……よりも、三半規管を優しく揺らされる世界に埋没していた美華は簡単に仰向けに倒れた。
美華の腹の上に橘恵子が乗る。
馬乗りになって橘恵子が大きな絶叫とともに、握り拳を美華の顔面に打ち下ろす。
セフティを解除したスチェッキンを握る右肩にも握り拳が叩き込まれる。
喧嘩慣れした打撃。普通なら負けるはずの無い取っ組み合い。
今は一方的に打撃に晒される。
顔面を中心に、喉や鎖骨などの人体的急所に小さな拳が鋭く乱打される。
腕力で殴る拳ではない。
完全に腹からの呼吸を合わせて腰、背中、肩からの短く鋭い打撃。
バラクラバの下で鼻血を流す。唇が切れる。鼻の奥に鉄錆び臭い生々しい臭いが広がる。
美華は左手で橘恵子の上半身を押し放そうと試みるが、その掌や左脇にも拳が叩き込まれる。
激痛に気が怯む。
右手のスチェッキンを体に引き寄せ、橘恵子の胴体を狙おうとするも先ほどからの打撃で脇や上腕に痛みが走り、グリップを握っているのがやっとだった。
美華は体を左右に振りその揺れ幅を大きくし、馬乗りの隙を抉じ開けて上下の位置を反転させようと何度も試みる。
その腰の挙動を悟った橘恵子がカウンターの揺れを腰だけで発生させて揺れを無力化させる。
3分ほども殴られる一方。
防戦一方。素人相手に手も足も出ない。
近接され過ぎて拳銃が邪魔になる距離。
「があっ!」
唸り声を挙げる。美華が激痛が走って間隔が麻痺し始めた腕を振り、左握り拳を橘恵子の顔面に叩き込む。
その瞬間にスローモーションのように次の展開が脳裏を過ぎった。
なのに、その動作を止める事も、制御する事も出来なかった。
いつの間にか手放していた、左手にあったはずの、コルト・ウッズマン。
それが今は橘恵子の右手の中に有った。
その小さな銃口が此方に向けられる。
同時にスチェッキンを胸の前に引き寄せ、右手首だけで不安定な状態で構え……発砲したのだ。
手首が反動で『流される』。
床にぶつけた時、あるいは取っ組み合いの最中にセレクターがフルオートに切り替わっていたのか、横倒しにしていたスチェッキンの銃口が橘恵子の上半身を左逆袈裟斬りの軌道で反動で流され、コルト・ウッズマンの引き金を正に引かんとしていた彼女を蜂の巣にした。
彼女は悲鳴を挙げなかった。……悲鳴を挙げたかっただろう。
不自然な角度でスチェッキンを保持し、心の準備も出来ていない状態で突然のフルオート射撃で右手首を挫いた。
9mmマカロフを全弾吐き散らす前にコルト・ウッズマンを握っていた彼女の手首にも何発か被弾し、勢い良く千切れ飛び、コルト・ウッズマンを握った手首は窓ガラスを叩き割って家の外へと転がり落ちた。
衝突する音から、屋根から玄関の庇、ポーチ下へと落ちたらしい。
瞬間的に死体と化した橘恵子の上体を押しのけ、返り血で汚れた自分自身を無視。
彼女に殴られた箇所や部位の激痛も無視。
スライドが後退したままのスチェッキンを挫いた手で握る。
転がるように2階の部屋を飛び出る。
廊下でつんのめって、足元を滑らせながら電灯の点いていない暗い階段を転がり落ちる。
新しい激痛が全身に生まれる。
頭部や脊椎に問題は無い。眩暈や吐き気も無い。痛みを一切無視。玄関からドアを開け放って辺りを見る。
早く探さねば先ほどの銃声で就寝を邪魔された住人が気付く。
「!」
橘邸の前を一匹の野良犬が、目を金色に反射させてこちらを見ていた。
その口には手首……コルト・ウッズマンを硬く握ったままの橘恵子の右手首が銜えられていた。
野良犬は遅い夕食にありついた顔をしていた。
美華には、その犬が握る鉄の塊に用が有る。
少しばかり大きな体つきをした雑種犬は、ぷいとそっぽを向いて夜陰の中に走り出す。
その犬を仕留めるべく、苦痛を無視してスチェッキンを翳すが、頼みのスチェッキンはスライドが後退して弾切れをアピールしていた。
「…………くそ!」
美華は吐き捨てる。
走る犬の姿はもう見えない。
騒然とし出す前の住宅街からの撤収を優先とした。屈辱の上に屈辱。歯軋りを立てるだけの夜だった。