遠い海の下
ただ、克服しただけ。
それ以上でもそれ以下でもない。
克服するのに、何度も反吐を吐いて自分を恨んで世間を恨んだだけだ。
そして……それもまた、今となってはどうでもいい昔話だ。
しっかりと覚えているのは、スチェッキンの硝煙を忘れる為に、兎に角強い香りが欲しかった。
そうしてなりゆきでモンテクリスト・クラブを覚えた。
生きている実感が欲しくて、男娼や娼婦を買ったが体温だけでは物足りなかった。
人間の体温では鼻腔の奥にこびり付いた硝煙と血煙の臭いは消せなかった。
今も消せないでいる。
モンテクリスト・クラブだけが一種の鎮静剤として効果を発揮している。
酒に溺れる真似をしたが、アルコールに強い体質だったのか、世間で言われるほど、辛い事を忘却の彼方へ押しやる事が出来なかった。
やがて酒を用いて忘れる真似をする事を辞めた。
自分の精神を守る為に様々な手段を講じた。
モンテクリストの香りと、スチェッキンの重量感だけが残った。
※ ※ ※
そもそも、今回の依頼自体が奇妙だった。
たった1挺の拳銃を見つけて処分するだけの仕事。
どこの誰がユーザーなのか解らない。
謂われは詳しくは聞いていない。
訊かない方がいいと思った。
余計なお世話で麗子が差し入れと言わんばかりに、その拳銃の情報を持って来てくれた。
……尚更、奇妙だった。
『持ち主を必ず殺す拳銃』。
そんな曰くを持つ拳銃を見つけて処分して欲しいとの事。
今までに、持ち主を転々とする。
持ち主は悉く死亡。
事故死や病死、殺害、などと死亡の原因は様々だ。
必ず傍らにはその拳銃が落ちており、警察の鑑識が調べ尽くすのだが、その最中に……必ずどこかへ紛れて消えてしまう。
オカルトじみた謂われが付き纏うその拳銃は、ただのコルトウッズマン。
4.5インチ銃身。グリップの付け根にマガジンキャッチが有るモデルだ。
22口径10連発。スラリとした銃身が特徴的な射的用の拳銃。
モデルの詳細は不明。
警察関係者にそれとなく探りを入れた麗子が得た情報はそれくらいだ。
警察関係者としても、身内が関与している可能性が大きいだけに口を閉ざしたままで、年間に大量に発生する証拠品の紛失リストにも載せない。
かと言って社会不安を巻き起こすほどの数の銃火器を紛失したわけではなく、毎回、上層部からの指示で揉み消されている。
……その司直の筋から、依頼人は法の番人と同列の司法関係者ではないかと美華は察している。
汚いモノを、汚い人間に処理させる方法を思いつくほどに厄介な存在なのだろう。
確かに探し物を職掌の範疇にしているが、見つけ出して破壊しろとは奇妙極まりない。
この街に流れ着いたと言う情報が入ったので、小遣い稼ぎにと麗子が持って来た依頼。
逃げ出した子猫を探すのと同レベルの仕事。
少し違うのは、現在のユーザーが大人しく渡してくれる保証が無いのと、どこの誰がユーザーなのか判明していない事だ。
歴代の持ち主も職業が様々だ。
拳銃遣いに留まらず中学生が、主婦が、老年が……住んでいる世界の区別なく持ち主の手を渡り歩いている。
その全ての行く末が破滅。
凶銃という冠が似合うコルト・ウッズマン。
……先ずは情報の掻き集めから始まる。
依頼を受けて2日目。
セオリーのように、同業者の得意とする得物と最近の使用頻度を探ってみた。……自分の得物を公開する殺し屋は存在しない。
拳銃遣いなら使う得物を宣伝にする人間が多いので、洗うのが簡単だったが、そもそも、子供が射的練習で使うような拳銃に命を懸ける拳銃遣いは居なかった。
22口径を主に使う拳銃遣いはちらほらと見かけたが、コルト・ウッズマンの情報は皆無。
隠し玉として所持している場合が有るので一応の保留とする。
次に疑ったのが……容疑の範疇が広過ぎて匙を投げた。
それが2日目だった。
元から依頼人が期限を設けずに依頼してきたので、片手間の小遣い稼ぎとして依頼自体を保留にした。
この依頼に興味を持つ同業者は何人か美華に接触してきたが、誰もが真剣に探索をしていない。
複数の同業者が探索を開始したという参考にならない情報は得られた。
22口径10連発のコルト・ウッズマンは『護身用』としては割りと適している。
22口径という停止力に劣る口径ながら、10連発なので脱兎を決め込んで牽制の弾幕を張って逃げるという遣い方で有用性が見られる。
シンプルで故障が少なく、弾薬も恐らく、一番簡単に手に入る。
国内の銃砲店でも扱っている弾薬だ。
別段特筆する特徴は無いが、習練が簡単で誰でも扱える自動拳銃の一つだ。
件のコルト・ウッズマンと幸運にも初めて邂逅したと思われる機会が訪れた。
特に彼女は熱心に仕事をしているつもりは無い。
夜中にコンビニに行くべくマイカーのBMWのステーションワゴンを駆っていた時だ。
自宅の高級高層マンション周辺には、夜中でも買い物が出来る店舗や商店が少ない。殆どの住人は通販頼みだ。
愛車の白いBMWコンビニの駐車場へ滑り込ませた時に偶然、そのコンビニから強盗が逃げるのが見えた。
シルエットのみ。右手に拳銃。
そのシルエットが、コルト・ウッズマンに似ていた。
それだけだ。まさかと思い、その人影を追う。
迂闊だとは思ったがエンジンを切っていないBMWでその人物が逃げた方向を目指す。
この辺りは開発中の港湾地区だ。人気が少ない。
そこのコンビニにしたところで、トラックやタクシーの運転手を相手にした商売を展開している、全国的に有名なコンビニエンスストア。
サイドミラーにコンビニから飛び出る店員と思しき人影が見える。
警察でない美華がコンビニの防犯カメラを覗かせてもらって、確認を行うなど無理な話だ。
麗子なら何とかなるはずだ。今は麗子と連絡を取り合っている時間は無い。足で走っているはずの人影を見失う。
たった100mほどの距離だったが、右にも左にも街灯が乏しく、路地への入り口が10m間隔で口を開いている。
土地鑑のある人間だろう。コルト・ウッズマンらしき物を右手にした人影の身長を歩道の電柱や標識から割り出していた。
そんなに大柄ではない160cm程度。走る歩幅からして女。
頭からフルフェイスのヘルメットを被っていた。
ヘルメットの後ろ首から零れる長い髪。
ヘルメットを用意しておいてバイクが無い。
乗り付けた時は二人乗りで先にバイクは発車して、落ち合う場所で待っているのか……コンビニ強盗が逃走するのに、機動力であるバイクを使わずに脚で逃げて路地へ入り込んでから、そこで待機している仲間と逃げると言うのは珍しい手段では無い。
足で走って逃げたと言う印象を抱かせて遠くへ逃げる欺瞞工作として用いられる場合がある。
勿論、そのロケーションが整うのには幾つもの条件が必要だ。……今回のコンビニのように。
――――土地鑑が有って、拳銃を使う強盗?
――――否、強盗専門の稼業じゃない。
――――カタギか素人か……。
――――直ぐにアシを辿られる方法ではない。
――――慣れた手口……。
BMWを路肩に止めて暫し考える。
今の美華は丸腰だ。
カーディガンにデニムのスカートでサンダル履き。寸鉄一つ帯びていない。このまま追跡をするのは無理だ。
見間違えるはずの無い、特徴のあるシルエットをしたコルト・ウッズマン。
銃身の長さが違うルガーP08のコピーというオチではなかろうと、自分に言い聞かせる。
それ以上でもそれ以下でもない。
克服するのに、何度も反吐を吐いて自分を恨んで世間を恨んだだけだ。
そして……それもまた、今となってはどうでもいい昔話だ。
しっかりと覚えているのは、スチェッキンの硝煙を忘れる為に、兎に角強い香りが欲しかった。
そうしてなりゆきでモンテクリスト・クラブを覚えた。
生きている実感が欲しくて、男娼や娼婦を買ったが体温だけでは物足りなかった。
人間の体温では鼻腔の奥にこびり付いた硝煙と血煙の臭いは消せなかった。
今も消せないでいる。
モンテクリスト・クラブだけが一種の鎮静剤として効果を発揮している。
酒に溺れる真似をしたが、アルコールに強い体質だったのか、世間で言われるほど、辛い事を忘却の彼方へ押しやる事が出来なかった。
やがて酒を用いて忘れる真似をする事を辞めた。
自分の精神を守る為に様々な手段を講じた。
モンテクリストの香りと、スチェッキンの重量感だけが残った。
※ ※ ※
そもそも、今回の依頼自体が奇妙だった。
たった1挺の拳銃を見つけて処分するだけの仕事。
どこの誰がユーザーなのか解らない。
謂われは詳しくは聞いていない。
訊かない方がいいと思った。
余計なお世話で麗子が差し入れと言わんばかりに、その拳銃の情報を持って来てくれた。
……尚更、奇妙だった。
『持ち主を必ず殺す拳銃』。
そんな曰くを持つ拳銃を見つけて処分して欲しいとの事。
今までに、持ち主を転々とする。
持ち主は悉く死亡。
事故死や病死、殺害、などと死亡の原因は様々だ。
必ず傍らにはその拳銃が落ちており、警察の鑑識が調べ尽くすのだが、その最中に……必ずどこかへ紛れて消えてしまう。
オカルトじみた謂われが付き纏うその拳銃は、ただのコルトウッズマン。
4.5インチ銃身。グリップの付け根にマガジンキャッチが有るモデルだ。
22口径10連発。スラリとした銃身が特徴的な射的用の拳銃。
モデルの詳細は不明。
警察関係者にそれとなく探りを入れた麗子が得た情報はそれくらいだ。
警察関係者としても、身内が関与している可能性が大きいだけに口を閉ざしたままで、年間に大量に発生する証拠品の紛失リストにも載せない。
かと言って社会不安を巻き起こすほどの数の銃火器を紛失したわけではなく、毎回、上層部からの指示で揉み消されている。
……その司直の筋から、依頼人は法の番人と同列の司法関係者ではないかと美華は察している。
汚いモノを、汚い人間に処理させる方法を思いつくほどに厄介な存在なのだろう。
確かに探し物を職掌の範疇にしているが、見つけ出して破壊しろとは奇妙極まりない。
この街に流れ着いたと言う情報が入ったので、小遣い稼ぎにと麗子が持って来た依頼。
逃げ出した子猫を探すのと同レベルの仕事。
少し違うのは、現在のユーザーが大人しく渡してくれる保証が無いのと、どこの誰がユーザーなのか判明していない事だ。
歴代の持ち主も職業が様々だ。
拳銃遣いに留まらず中学生が、主婦が、老年が……住んでいる世界の区別なく持ち主の手を渡り歩いている。
その全ての行く末が破滅。
凶銃という冠が似合うコルト・ウッズマン。
……先ずは情報の掻き集めから始まる。
依頼を受けて2日目。
セオリーのように、同業者の得意とする得物と最近の使用頻度を探ってみた。……自分の得物を公開する殺し屋は存在しない。
拳銃遣いなら使う得物を宣伝にする人間が多いので、洗うのが簡単だったが、そもそも、子供が射的練習で使うような拳銃に命を懸ける拳銃遣いは居なかった。
22口径を主に使う拳銃遣いはちらほらと見かけたが、コルト・ウッズマンの情報は皆無。
隠し玉として所持している場合が有るので一応の保留とする。
次に疑ったのが……容疑の範疇が広過ぎて匙を投げた。
それが2日目だった。
元から依頼人が期限を設けずに依頼してきたので、片手間の小遣い稼ぎとして依頼自体を保留にした。
この依頼に興味を持つ同業者は何人か美華に接触してきたが、誰もが真剣に探索をしていない。
複数の同業者が探索を開始したという参考にならない情報は得られた。
22口径10連発のコルト・ウッズマンは『護身用』としては割りと適している。
22口径という停止力に劣る口径ながら、10連発なので脱兎を決め込んで牽制の弾幕を張って逃げるという遣い方で有用性が見られる。
シンプルで故障が少なく、弾薬も恐らく、一番簡単に手に入る。
国内の銃砲店でも扱っている弾薬だ。
別段特筆する特徴は無いが、習練が簡単で誰でも扱える自動拳銃の一つだ。
件のコルト・ウッズマンと幸運にも初めて邂逅したと思われる機会が訪れた。
特に彼女は熱心に仕事をしているつもりは無い。
夜中にコンビニに行くべくマイカーのBMWのステーションワゴンを駆っていた時だ。
自宅の高級高層マンション周辺には、夜中でも買い物が出来る店舗や商店が少ない。殆どの住人は通販頼みだ。
愛車の白いBMWコンビニの駐車場へ滑り込ませた時に偶然、そのコンビニから強盗が逃げるのが見えた。
シルエットのみ。右手に拳銃。
そのシルエットが、コルト・ウッズマンに似ていた。
それだけだ。まさかと思い、その人影を追う。
迂闊だとは思ったがエンジンを切っていないBMWでその人物が逃げた方向を目指す。
この辺りは開発中の港湾地区だ。人気が少ない。
そこのコンビニにしたところで、トラックやタクシーの運転手を相手にした商売を展開している、全国的に有名なコンビニエンスストア。
サイドミラーにコンビニから飛び出る店員と思しき人影が見える。
警察でない美華がコンビニの防犯カメラを覗かせてもらって、確認を行うなど無理な話だ。
麗子なら何とかなるはずだ。今は麗子と連絡を取り合っている時間は無い。足で走っているはずの人影を見失う。
たった100mほどの距離だったが、右にも左にも街灯が乏しく、路地への入り口が10m間隔で口を開いている。
土地鑑のある人間だろう。コルト・ウッズマンらしき物を右手にした人影の身長を歩道の電柱や標識から割り出していた。
そんなに大柄ではない160cm程度。走る歩幅からして女。
頭からフルフェイスのヘルメットを被っていた。
ヘルメットの後ろ首から零れる長い髪。
ヘルメットを用意しておいてバイクが無い。
乗り付けた時は二人乗りで先にバイクは発車して、落ち合う場所で待っているのか……コンビニ強盗が逃走するのに、機動力であるバイクを使わずに脚で逃げて路地へ入り込んでから、そこで待機している仲間と逃げると言うのは珍しい手段では無い。
足で走って逃げたと言う印象を抱かせて遠くへ逃げる欺瞞工作として用いられる場合がある。
勿論、そのロケーションが整うのには幾つもの条件が必要だ。……今回のコンビニのように。
――――土地鑑が有って、拳銃を使う強盗?
――――否、強盗専門の稼業じゃない。
――――カタギか素人か……。
――――直ぐにアシを辿られる方法ではない。
――――慣れた手口……。
BMWを路肩に止めて暫し考える。
今の美華は丸腰だ。
カーディガンにデニムのスカートでサンダル履き。寸鉄一つ帯びていない。このまま追跡をするのは無理だ。
見間違えるはずの無い、特徴のあるシルエットをしたコルト・ウッズマン。
銃身の長さが違うルガーP08のコピーというオチではなかろうと、自分に言い聞かせる。