遠い海の下

 ドアを蹴破るよりも確実な方法で突破し、室内に転がり込む。
 本棚に囲まれた、洋室。白い天井。
 赤い絨毯。散らばる空シェル……そして……。
 スチェッキンのセレクターをフルオートに切り替え、残弾を全て左手側に有ったウオークインクローゼットのドアに叩き込む。
 この部屋を失念していたのでは無い。
 この書斎に『標的は居ないと言う勘違い』をしでかした美華の失態だ。
 1秒も持たずにスライドが後退。
 素早く新しい弾倉を叩き込む。5、6発の指切り連射を疎らに撃つ。このドアの向こうは2畳間ほどの空間が有る。
 『人間が隠れるのには充分な広さだ』。
「…………」
 硝煙が書斎に充満する。
 サプレッサーのバフはとっくに寿命を迎え、樹脂が焦げる臭いを立てる。
 レーザーサイトの赤いドットポイントは、濃厚な硝煙に遮られて充分な効果を発揮できていない。
 尤も、反撃が有ればの話だ。
 ドアの向こうの狭い空間で複数の人間が倒れる鈍い音を聞く。肉袋が折り重なる、手応えを感じる音。
 スライドが再び後退して停止している。
 無造作にウオークインクローゼットのドアを引く。血煙が立ち込めていた。
 散弾銃を携えた男が1人と標的の茂田を確認する。
 2人とも脈拍が弱い。
 弾倉を交換し終えて、茂田の頭だけを3発のマカロフ弾で弾き飛ばす。
 恨めしそうに、息の有る護り屋の男が細い呼吸をしながら美華を睨む。
 この男に止めを刺してやる義理は無い。
 だが、目が気に入らなかった。引き金を引く。
 男の口中に飛び込んだ9mmマカロフのフルメタルジャケットは男の小脳を破壊。……停止し、射出孔を作るに到らなかった。
 もう1人の散弾銃の男……特に追う理由も無い。
 その男はこの部屋を最初に後にした時に、美華の気配が去ったのを確認してから、茂田の家族を引率して違う階段から1階に降り、駐車場へ行き、家族諸共、茂田が逃走したと言う痕跡工作を残したのだ。
 だからこそ、この家屋の内部に茂田の家族の気配が無かった。
 2つ有る階段を用いた錯覚でしかなかった。
 タイメックスに視線を落とす。
 撤収まで充分に時間が有る……無事にこの家を囲む群衆を抜けられたらの話だ。
 それも心配無い。この家屋の半地下の部屋に下水道に繋がる路が有るのも調査済みだ。
 撤収ポイントはその下水を抜けた先に有る。
 スチェッキンを右手にだらりと提げながら小走りになり、左手でパーカーのハンドウオーマーからモンテクリスト・クラブを取り出す。
 左手の小指でバラクラバを必要なだけ下げて口にそれを銜えて一路、半地下の部屋――倉庫として登録されている――へ向かう。
 茂田が結局逃げなかった理由は、書斎に有る『何かしらの情報』をまだ纏めていなかっただろう。
 USBフラッシュメモリだかSDカードだか、それを未回収のまま自分の家から遁走するわけにはいかなかった……大方、そんなところだろう。
 それは美華が考える仕事ではない。
 茂田を殺害した今は、その殺害の事実だけで充分だ。
 下水道を出てから撤収ポイントに向かった。その下水道で衣服に染み付いた酷い悪臭で乗車拒否されるかと思いながら、銜えたままだったモンテクリスト・クラブに火を点けて一服した。
    ※ ※ ※
 自宅のマンション。
 広大な面積のベランダで、アウトドア用の折りたたみ椅子とテーブルを出して新聞紙を広げたくらいの綿の布を広げる。
 快晴。風は緩やかと言う予報だったが、高層階では常に風が吹きつけている。
 海風をまともに浴びるのだから余計に風は強い。
 そのテーブルの上にスチェッキンとクリーニングキットを広げ、メンテナンスの最中だ。
 スチェッキンは大型拳銃に分類されるが、その構造は到ってシンプルだ。
 銃身が固定式なのが最たる特徴で、ワルサーPPシリーズと大して差が無い構造をしている。
 分解するパーツが少ないのも大きな特徴だ。
 軍用の拳銃としては扱い易い部類に入る。
 その代わりに9mmマカロフ弾という9mmショート弾と同等に低威力な実包を使用する。
 一線で活躍する軍用拳銃と比較すれば、停止力の面では大いに不安が残る。
 最近では9mmパラベラム弾を使用するスチェッキンのバリエーションが発売されているらしいが、機関部やリコイルスプリングを中心にした作動機構の耐久性に心理的に不安なので使う気にはならなかった。
 セミオートとフルオートのセレクターを備えた拳銃が欲しかった。
 高性能を謳うマシンピストルなら幾らでも転がっている。
 その中でも、時代遅れの感が否めないスチェッキンを選んだ理由は、フルオート射撃での指切り連射が容易だったからだ。
 ベレッタM93Rに代表される3バースト機構を備えたマシンピストルでは不安だった。
 フルオートの瞬間的な制圧力がどうしても欲しかった。
 レートリデューサーと呼ばれるフルオート射撃時の発射速度をある 程度低下させる機能が組み込まれたスチェッキンは理想だった。
 APSグリップキットをグリップに交換する事でマカロフ弾の軽い反動を更に制御し易くなった。
 必ず標的を仕留めなければならない依頼など少なかった頃に手にした拳銃。
 それが今では手元に無ければ自分を証明できない存在に昇華されている。
「………」
 各部位をメンテナンスしながら手元の黄色い紙箱からモンテクリスト・クラブを片手で抜いて口に銜える。
 スチェッキンのフレームに潤滑油のスプレーを吹く。
 暫し手を休めて左掌で覆いを作り、イムコ・ストリームラインでモンテクリスト・クラブに着火する。
 角ばったイムコ・ストリームラインは、掌に良い感触を伝えてホイールが確実に作動した。
 これだけ風が強ければ、引火性が強いクリーニングリキッドを気にせずシガリロに火を点けることが出来る。
 その分、シガリロも強風に煽られて早く短くなる。
 口腔に溜めたモンテクリスト・クラブの煙を吐き出す。
 風のお陰で口から吐いた瞬簡にあっという間に流されてしまう。
 気が付けば、いつも手元にモンテクリスト・クラブが有った。
 スチェッキンと同じくらい長い付き合いだ。
 遣い潰す心算だったイムコのオイルライターも、タイメックスのコピー製品も、もう10年以上使っている。
 自分が一体いつからこの世界に埋没し始めたのか忘れそうになるくらいに、記憶の中で風化している。
 初めて人を殺した時はある種のPTSDに取り付かれる手前だった。 人を殺した悔悟で圧死しそうだった。
 推理小説の名探偵は幾つもの死体と殺人に直面しておきながら何故、自我を保てるのか? と、遊離した考えに到る事も有った。
 フィクションの人物はフィクションの中でしか生きられない。
 現実には、この世界に踏み込んだ時の美華のように、心を病んでリタイア――即ち、死。あるいはそれと同等の存在――し、いつの間にか消えていく人間ばかりだ。
 暗黒社会に踏み込む人間は、基本的に心が弱い。
 心が弱いからこそ、甘美で魅惑的なキャッチコピーとアイテムで横溢する暗い世界に寄って来ては、破局を迎える。
 そして、その破局はどこかの誰かの損得勘定に含まれて1円玉より軽い値で取引される。
 美華が鋼の神経を持っていたのではない。
 慣れた訳でもない。
 自分を説得する便利な言葉を見つけたのでもない。
 単純にここでしか生きられない理由を見つけてしまっただけだ。
 それも、今となって遠い昔の話。
 その起因となる、心の傷が回復したのではない。
 痛みが劣化したのではない。
 克服しただけだ。
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