44マグナム

 加湿させなければ、即ち乾燥しているので短い時間で吸いきれる利点もある。
 本来の葉巻の姿でない葉巻を愛好していてもそれはそれで嗜好品と言うものだ。
 風に葉巻の先の灰が流される。
 唇の端から細く強く吐く紫煙もあっと言う間に掻き消されてしまう。その安葉巻を1本、吸いきる頃になると大まかな方針が決まっていた。
「…………よし……行くか」
 短くなった葉巻の吸い差しを足元に吐き捨てる。踵で蹂躙する。
 無残な吸殻と成り果てて春先の風に屑の葉が煽られる。
 左肩にズシリと重く掛かる重量。
 S&W M29が黙っていてもその存在をアピールしてくる。
 あまりの重量に、屋外を歩く時以外は必ずホルスターごと外して肩のストレッチをしている。
 そうでなければ重量で肩凝りや痛みを誘発し、いざと言う時に腕が役に立ってくれない事が過去にあった。
 今よりも若い時分だったが、あの時に咄嗟に対応できなかった恐怖は体のメンテナンスは、銃のメンテナンスと同じくらいに大切だと思い知らされた。
 映画やドラマでは無視されがちな銃声と同じく、その銃自体の重量も無視されているが、実際には1kg、予備弾薬やアクセサリーを含めれば3kg前後の重量を体に纏って歩いて走るのだ。
 大きな跳躍など、筋肉だるまのハリウッド俳優でも無い限り無理な話だ。
 そして、銃の重量を気にしない体を手に入れると、今度はその体の維持という面倒と、体躯から戦闘力を想定され易い、顔を覚えられ易いという難題が待っている。
 公園から去った彼女はドヤ街に戻り、英気を養う為に長い睡眠を貪る。
 その為にドヤ街に入る直前に有る、会社帰りのサラリーマン相手のスーパー銭湯で充分に体を温めてマッサージで筋肉を解してもらい、全身に掛かるストレスをリセットしたのに近い状態にする。
 早い時間の就寝――その時刻は午後9時――だったのでIWハーパーのポケット瓶を煽って喉を鳴らして飲んでから乱暴な寝酒とした。
 翌日10時から始まる地方議員のOBと現役議員との懇談会が終わって、三々五々と散った後が勝負だ。
 その時を機に、玉置一は自分が本当に狙われている、自分の組織がどこかの誰かに狙われていると、無視できない状態に叩き落される手筈。
 長い一日になるであろう明日の予定を脳内で整理している最中から意識と記憶がぼやけてくる。
 リラックスした状態にアルコールが拍車を掛けてコトリと落ちるように眠りの世界に埋没した。
  ※ ※ ※
 作戦実行当日。作戦らしい作戦ではない。
 天候は曇天。少し暖かい。
 上着はまだまだ必要な気温の低さ。
 午前10時に懇親が始まる。
 街の商工会議所。繁華街の端っこに位置する。通りは小さく直ぐ近くには住宅街。雑多な住宅との境目に規模の大きくない鉄筋3階建ての商工会議所が有る。
 この商工会議所の駐車場にはどう見てもカタギの人間が乗る車や商用車しか停車されていない。
 理江は商工会議所の真正面に位置する遥か300m向こうのデパートの屋外テラスで、大して美味くも無いコーヒーを啜りながらオペラグラスで観察していた。
 まだ玉置一は自身が直接狙われるとは夢にも思っていないだろう。
 ここ暫くの鉄火場も、携帯電話や財布や免許証を狙った第三国マフィアとの小競り合い程度にしか思っていないに違いない。
 そんな小物の殺し合いが前哨戦だったとは考えていない。
 その証拠に今し方、玉置一が商工会議所に3人の秘書の姿をした警護要員を連れて入っていった。
 玉置一。53歳。やや小太り。
 頭髪の天辺が少し薄いのを櫛で髪を寄せて覆い隠している。
 血圧が高めなのか、顔が少し赤い。狸よりも人間寄りの醜男だったが、同じく商工会議所に入る有力者も似たような顔付きなので違和感は無い。
 軽い薄ら笑いが良く似合う、理由無しで殴り飛ばしたくなる顔。
 冷徹怜悧なキレ者と言う風体ではない。
 確かに、『何かを韜晦するのには充分に役に立つマスコット』だった。
 理江はタイメックスの腕時計をチラリと見た。
 午前10時10分。
 予定ではこのまま昼食会まで流れる。
 昼食会の会場は繁華街の中に有る大型テナントビル。
 そこに和食屋が有り、そこまでは車で移動だ。スケジュール通りなら1時間の会食の後にお開きとなり、地元の有力者達はそれぞれが席を立ち、店を出る。
 ざっと3時間。焦りは無い。予定に変更を加える余地も無い。
 その為に早朝から『仕込み』も済ませた。
 和食屋から出た時にこそそれらは起動する。
 それまで悠々と眺めている。



 理江のプリペイド式携帯電話に着信が有る。
 着信はメール。
 正し、文面が記載されていない空メール。
 にやりと笑う理江。
 理江はその頃、和食屋が入るテナントビルの近くのコンビニでホットドッグを買って齧りついていた。
 作戦決行。
 半分ほど食べたホットドッグをゴミ箱に捨てる。
「さて。予定通りに『始めてもらうか』……」
 玉置一が会食の会場である和食屋から、他の有力者達と談笑しながら出てきた。
 まだテナントの中。屋外の駐車場に行くまで徒歩で2分。
 大型テナントの前に乗り付けられるほど大きな通りではなかった。
 この和食屋はテナントビルの1階に有り、車で乗り付けるよりも少々歩き、路地裏へと通じる辻に正面出入り口が有る。
 見た目はこぢんまりとしており、店の構えの割に小さな正面口が隠れた名店の雰囲気を醸し出していた。
 路地裏へ通じる路。
 路地裏からも往来が有る……襲撃してくれといわんばかりのロケーションだ。
 太陽は高くとも、一撃離脱でカタを付けるのなら充分な隠蔽場所も揃っている。
 玉置一が正面で入り口から出てきた。
 秘書の姿を借りた3人の警護要員は、いずれもスーツ姿で懐に拳銃を呑み込んでいるのは想定済みだ。
 奇襲。
 反撃の余地を与えないのではなく、反撃の意思を抱く前に撤収。
 それこそが一撃離脱。
 波状攻撃を前提にした奇襲ではない。
 僅かなタイムラグを利用した襲撃。
 輪胴式拳銃を構える。撃鉄を起こす。呼吸が少し荒くなる。
 指先が震えることは無い。
 今までそうだった。
 これからもそうなのだ。
 ここでしくじるヘマはやらかさない。
 自分を何度も宥める。
 浅い深呼吸を繰り返す。
 過剰な酸素の供給は濃の回転を鈍くさせる。
 拳銃を握る掌がジットリと汗で濡れているのが解る。
 『玉置一なる人物』の写真を孔が開くまで睨んで覚えた。
 失敗はありえないと自分に言い聞かせる。
 『これで今まで生きてきたのだ』。
 やがて、玉置が表の大きな通りに通じる方向へ3人の秘書と歩き出すと、意を決したように飛び出した。
 握った拳銃が異様に重い。
 自身を隠蔽していた電柱の陰から勢いよく飛び出す。飛び出すことだけが全ての役目であるかのように。……だが、それだけではない。
 玉置一なる人物を仕留めるという大きな仕事が直後にやってくる。
 更にその後には、無事にこの場を離れる行動が必要になる。……数秒間で全てが決まる。
 電柱の陰から飛び出し、体の左半身を電柱の陰に任せて遮蔽を確保しながら……心の中で雄叫びを挙げながら引き金を引く。
 重量はこんなにズシリと重いのに何故、引き金はこんなにも軽いのか。
 銃声。たった1発。
 その1発は秘書の1人の背中にめりこみ、前のめりに押し倒しただけだった。
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