44マグナム

 塩分と言う意味ではツナマヨの次に齧り付いたおかか梅干も負けてはいない。
 こちらはクエン酸を補給できる日本古来の梅干のスペックを最大限に引き出した具材の一つだ。
 その片鱗が口中に入れた途端に、涎が溢れ出る。
 嘗ての国民弁当で白米に梅干一つの日の丸弁当と言う物が有ったが、それをこの掌に乗るサイズでアレンジし直し、付加価値で収まらないカツオと醤油で味を調えている。
 汗を大量に掻く時期なら喜んで頬張ったところだが、寒い今の季節では少々塩分が濃い。
 そこでインスタントのカップ味噌汁だ。
 あわせ味噌を用いた葱味噌汁。
 長期保存が大前提のインスタントとは思えない深い香り。
 出汁が利いていると思わせておいて、実のところ、コンビニで塩分過多な弁当や握り飯に合わせるべく減塩タイプを買ってきた。
 出汁の深い香りが鼻腔を擽る。
 熱く、湯気が立つカップを口に運び、一口啜る。
 ……左手におかか梅干の握り飯を持ったままの行儀が悪いとされるマナーで。
 味噌と葱……熱い関西風出汁は、口の中のおかか梅干の塩分をいとも簡単に洗い流し、葱の爽やかな苦味だけを残す。
 寒い時期に啜る熱い味噌汁。
 コンビニの電気ポットから注いだばかりかと思われる熱さを保ったままの発泡スチロールのカップも、不思議と持つ手には大した熱は伝わらない。
 だからこそ、感覚を失念し、舌を軽く火傷した。
 体感温度を狂わせるほどに断熱効果が優れた味噌汁のカップ。
 美味しい物をいつまでも美味しいままに……そんな思想のシンプルな表現としてそのカップが生み出されたかのように思われる。
 おかか梅干の握り飯と葱味噌汁を交互に口に運び、おかか梅干を自分でもこんなに飢えていたのかと思うほどの早さで胃袋へと嚥下する。
 空いた手。カップを左手に持ち直し、右手に箸を持つとカップの底に溜まった葱と僅かばかりの豆腐のキューブと切り屑のようなわかめを浚って食べる。
 これは屋外で食べる簡素な食事だから美味いと感じる食べ方だ。
 家の中で、淀んだ空気の中で、1人で無言で咀嚼して嚥下しているだけではエサに過ぎない。
 それは、食餌ではない。
 屋外の空気に当たり、気候の風を感じて一時の安息として少々下品な手つきで子供のように食べるからこそ美味いと感じるのだ。
 理江が食事をしていた時間は精々10分。
 10分の快楽だった。
 その快楽は嗜好品とは違う生命の根源を癒してくれる快楽を伴っていた。
 食べた後のゴミ一式を公園内のゴミ箱に捨てて、近くにあった自販機でブラックの缶コーヒーを買う。
 勿論、ホットだ。
 味のレベルではコンビニでカップ売りされているコーヒーの方が美味いが、それだけの為に顔を覚えられるリスクを犯して、またも同じコンビニに舞い戻るのは馬鹿げている。
 かと言って、昼食と同じくカップ売りのコーヒーも買ったのでは食べ終える頃には完全に冷めていて美味しくない。
 ここからでは喫茶店も遠い。何より……。
「……」
 大きく一服。
 缶コーヒーを一口煽った後に銜えたホンジュラスの安葉巻を喫茶店では好きなだけ燻らせる事ができない。
 食後にコーヒーと安葉巻で締めるのが彼女の流儀だ。
 一息吐いたところで、ベンチに戻り、携帯電話を取り出す。
 先日の夜に……ランチの男達を出迎える一行から奪った携帯電話だ。
 寒空の下、銜え葉巻のまま、ディスプレーを見つめる。
 携帯電話は情報の宝庫だ。アドレスだけが重要な情報ではない。
 そこに収まる動画や画像、音声ファイルなども重要だ。
 いつでも捨てられる携帯電話を支給されている組織者は意外と少ない。
 携帯電話は自分の名義で契約して使用する。
 それだけにSDカードを差し込んで使っている者や『そうでない者』も居る。
 SDカードを差し込んでいる端末からは、遠慮なくそのカードを抜き取る。
 それらは片っ端から顔役の息が掛かった情報屋に送りつけて解析させている。
 別料金が大量に発生するが、ことごとく殺した【野川一誠会】の組織者から奪った金で決済している。
「…………!」
――――ほう。これは……。
――――玉置一の……。
 奪った携帯電話のスケジュールのアプリを開いて整理していると、会長の玉置一に関する項目を発見する。
 玉置一の来月末までにかけての予定表だった。
 この携帯端末の持ち主が重要な役職に就いていたのではなく、玉置一の予定の先々で警護を担当する為に出向する旨が記されていた。
 玉置一の予定の殆どは合法な会議や顔見世ばかりだ。
 地方議員の息子と言うだけあって、水面下での政治活動にも手抜かりが無い。
 その為に『それらしくない風貌のヤクザ』を警護要員として配置せよとの命令をこの携帯電話の持ち主は仰せつかっていた。
 一番近い玉置一のイベントは明日の午前10時。
 そのイベント……会議は自治体幹部との懇談から始まる昼食会で見た目には怪しいところは無い。
 玉置一と言う人物を知る自治体幹部は『万が一』に備えて玉置一と懇意にしておこうとする勢力だ。
 ある意味、グレーゾーンの人間ばかりだった。
 馬鹿正直に人の眼が有る、明るい時間に襲撃を敢行する計画は立てない。
 何事も起きなかった一日を仕立て上げる為に『何もしない』事を主眼に作戦を練る。
 連続した緊張を強いる為だ。
 自分、あるいは自分に関連の有る存在が危険に晒されると、人間は必ず防衛本能が働き、引き篭もりに似た心理に陥る。
 多数の警護要員を引き連れて外出していても心は穏やかではない。
 心理的圧力で疲弊させるには程よい以上の危機感が必要だ。
 恐らく、この携帯電話で仕入れた情報も次の襲撃で役に立たなくなるだろう。
 飾り物のような男でも、自分の命は飾り物ではない事を知っている。 次の襲撃で少々派手に暴れて、脅威の存在を身近に感じさせる。そうすれば何事にも風声鶴唳と行動に出る。
 暫くは人前に出る事も控える可能性が高くなる……そして、なにもしない。
 理江は何もしない。
 体面を繕うために玉置一は様々なイベントに顔を出すだろうが、顔色は優れないだろう。
 だが、何もしない。
 嵐の前の静けさが続く緊張感ほど精神が疲弊する状況は無い。
 姿の見えない脅威に晒されて疲れた人間が出る行動は二つしかない。 そのまま精神的引き篭もりを続けるか、逆に打って出るか。
 打って出るのなら解り易い餌をばら撒くだろう。
 そのどちらに出るのか、理江は次の襲撃を境に暫く静観するつもりだ。
   ※ ※ ※
 安葉巻の灰が落ちる。
 ホンジュラス製のミディアムシガー。
 本来なら暫く加湿させて適度に熟成が進んだところでヒュミドールから取り出してデイリーシガーとして愉しむ、愛好家御用達の安葉巻。 
 ヒュミドールで寝かせれば、味が円くなり芳醇さが増す。
 理江はその名前が恐ろしく長い安葉巻――エセンシア・デ・カリブ・ドブロネス――を加湿させずにバンドル包装から解いてセロファンから剥き出して乾いた状態の、コンディションを調えていない状態の葉巻を吸う。
 乾燥しているので使い捨てライターで炙れば簡単に火が点く利点が有る上に、彼女の味覚からすれば、雑味が多く少々尖った辛さを含んだ焦げた杉片を思わせるテイストが好きだった。
 加湿させれば美味くなるのは解っている。ヒュミドールで寝かせているほど時間が無い。
 それに美味い葉巻を模索していればあっという間に破産してしまう。
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