44マグナム
あの女がこの街にやって来るまでは『割と』静かだった。
平穏無事とはいかなくとも、気になるほどの死体は製造されなかった。
気になるほどの行方不明者は出なかった。
もうすぐ春がやってくる季節。
まだまだ寒さが残る時期。
陽が暮れると身に染み入る寒さが足の裏から這い上がってくる。
そんな時期にあの女はやって来た。
黒い革製のハーフコート。
よれよれに草臥れた、年季の入ったデザイン。程よい掠れ具合がビンテージな雰囲気を醸し出すので、それはそのような印象を演出させる為の加工かと思わせた。
実際には、本当に永く愛用しているだけの代物で、深い愛着を感じる。
ハーフコートの前を止めずに歩く。
いつも質素なデザインのセーター。デニムのズボン。黒い運動靴。装飾に関する一切を廃した目立たない風貌。
170cmの長身をハーフコートに包んだ彼女が訪れてからこの界隈が騒がしくなったと悟った時には、この街も随分と物騒になっていた。
冷たい雨が降っていた。
その時は、雨だった。
寒い。空気が生温い。気圧の谷が近い。
彼女はコンビニで売られている透明のビニール傘を差して路地裏を歩いていた。
足元の運動靴は跳ねた水でズボンの裾を冷たく汚す。
長い髪をポニーテールに纏めて路地裏を歩く。街灯が乏しい路地裏。人気の無い路地裏。そもそも此処は廃棄されたに等しい区画の路地裏だった。
社会の落伍者がたむろしている他に気配の無い狭い空間を歩きながら、辺りに視線を走らせながら歩く。
視界に入る人影は浮浪者ばかり。
疎らな位置取り。
浮浪者同士で連携しているコミュニティの空気も感じない。
浮浪者と世捨て人の境を歩く人間がたむろしているエリアだと解釈した方が早い。
女はハーフコートのハンドウォームに右手を差し込む。
そこからセロファンで包まれた安物の葉巻を取り出す。
唇と前歯でセロファンを剥いて中身の安葉巻を露出させると、前歯でヘッドのキャップを噛んで千切る。
千切れたヘッドの葉は吐き捨てる。
横柄に葉巻を横銜えにして、使い捨てライターで葉巻の先端を炙る。歩きながら、視線を葉巻の先端に固定したままだ。
唇の端からホンジュラスの紫煙を大きく吐き散らかすと、苦い薬でも嚥下したかのような渋い顔で再び視線を辺りに配る。
全長122mm、太さ17mm程度の短く太目の葉巻を唇の端で燻らせながら、歩みを休めずに路地裏を行く。
「…………」
路地の一番奥まった場所に来ると立ち止まる。行き止まりだ。
迷路のような隘路の果て。
目前に南京錠が掛けられたフェンスのドアが有る。
そのフェンスの右手側の壁に浮浪者の段ボールハウス。
その段ボールハウスに右手を閃かせて、マネークリップで束ねた数枚の万札を放り込む。
少しも待たずに、段ボールの中から、どこにでも居る浮浪者の格好をした年齢の読み取り難い顔をした男が出てきて、背中を丸めながら目前の南京錠をそそくさと解除する。
開かれた路。フェンスのドアの向こうに歩みを進める。
ホンジュラスの土臭い紫煙を纏いながら、開錠してくれた浮浪者を見る。
その男は既に段ボールの家に見せかけた警備員室に戻り、完全に隠れていた。
あの男は確実に懐に拳銃を呑み込んでいた。体臭や垢や油の臭いを鼻が曲がりそうなほどに衣服に染み込ませていたが、それは硝煙の香りを消す為だと勘繰らせた。
フェンスの向こうにはビルの裏手。
外灯が点いた裏口が一つ見える。
そのビルの裏口から入る。
雨はいつの間にか止んでいる。
「……そこで止まれ」
裏口に入るなり、辺りが暗い中からそのような声が聞こえる。
女の声だ。
中年期以降の女性かと思わせる、渋みを湛えた声。
人生のあらゆる苦難を噛み締めた声。
辺りは暗い。
女が踏み込んだその場所が……広さや奥行きも不明なほどに暗かった。声の反響からこの空間の形状を計ろうとするが、パーテーションのような簡易的な壁をランダムに立てているのか、判然としない。
「顔役……」
葉巻を唇から離した女は、声の主に向かって話しかける。
自分が向いている方向にその声の主が居るとは限らない。
顔役と呼ばれた、姿の見えない女はホンジュラスの葉巻を指に挟んだ30代前半のポニーテールの女に対して、抑揚の無い声でこのように言った。
「貴女の欲しい物は手配した……直ぐに用件を済ませてこの街から出て行ってくれ。それが総意だ」
「顔役、すぐには無理だが必ず出て行く。それまでもう少し甘えさせてくれ」
ホンジュラスの安物の葉巻を再び銜えるハーフコートの女。
暗い空間が更に暗くなる。
背後でドアが閉まったのだ。
緊張が走る。
鎮静剤としての効果を期待して、真っ暗闇の中でハーフコートの女は安葉巻を大きく吸い込む。
「……!」
この空間の電灯が不意に点く。
辺りには予想通りに規則性が無くパーテーションが設置されていた。
目前4mの位置にあるスチールデスク。
辺りはコンクリ打ちっ放しを思わせる四角いだけの部屋。
この空間が設計された意図が全く解らない。
縦横6mほどの空間。
防災設備や窓は無い。
謂わば、ここが『顔役』と呼ばれた女との謁見の場だった。その顔役の姿はどこにも無い。誰もいない。
苦笑いをするハーフコートの女。
事務用のスチールデスクに寄り、その上に置かれていた中型のボストンバッグを開ける。
レミントンの紙箱に入った44マグナムの実包。
狩猟を目的としたハイベロシティ。弾頭はシルバーチップ。50発入り。
他の幾つかの箱も同じハイベロシティ。メーカーも同じ。弾頭に差異があるだけだ。
ジャケッテッドホローポイントにアーマーピアシング。それ以外は雑多なアイテム。スピードローダーやストラップ、クリーニングリキッドなど。
それらの紙箱の下から心の命綱ともいえる、愛飲している安葉巻のバンドルが3個出てきたのを見て、苦笑いから本当の笑みに変わる。
10本1パックのバンドル。雑な包装の安葉巻――エセンシア・デ・カリブ・ドブロネス――を手に取り、重さを量るような手つきで愛でる。
葉巻が無ければまともな思考が働かない部類に入る彼女にとっては、これ以上の気の利いた手回しは無い。
予めオーダーしていたとは言え、目の前に嗜好品が山のように積まれていて悦ばない常習者はいない。
唇に銜えていた安葉巻もこのバンドルの葉巻と同じ物だ。
ショートフィラーのローコストシガー。
一枚の煙草葉を実質の肉であるフィラーとして巻き、バインダーで包み込む葉巻ではなく、荒く刻まれた煙草葉をバインダーで葉巻の形に押し込めて形に填めて肌となる葉のラッパーで包んだ安物。
葉巻の部類ではミディアムシガーに分類されるかもしれない。
中身は機械が巻き、外側は職人が巻く。
愛好家が毎日葉巻を吸いたいが為に創られた様な代物で、大した味ではない。
……それでも嗜好品だ。好きか嫌いか、合うか合わないかは個人の味覚の問題である。突き詰めれば嗜好品は値段の問題ではない。
彼女はそのボストンバッグを肩に掛けてパーテーションがランダムに並ぶ空間から入った背後のドアより外に出る。
外に出た途端、勝手口を偽装したドアの外灯が消える。
ドアの脇に置いていたビニール傘を手に取る。大きく安葉巻を吸い込む。2cmほどに育った灰が静かに折れた。
平穏無事とはいかなくとも、気になるほどの死体は製造されなかった。
気になるほどの行方不明者は出なかった。
もうすぐ春がやってくる季節。
まだまだ寒さが残る時期。
陽が暮れると身に染み入る寒さが足の裏から這い上がってくる。
そんな時期にあの女はやって来た。
黒い革製のハーフコート。
よれよれに草臥れた、年季の入ったデザイン。程よい掠れ具合がビンテージな雰囲気を醸し出すので、それはそのような印象を演出させる為の加工かと思わせた。
実際には、本当に永く愛用しているだけの代物で、深い愛着を感じる。
ハーフコートの前を止めずに歩く。
いつも質素なデザインのセーター。デニムのズボン。黒い運動靴。装飾に関する一切を廃した目立たない風貌。
170cmの長身をハーフコートに包んだ彼女が訪れてからこの界隈が騒がしくなったと悟った時には、この街も随分と物騒になっていた。
冷たい雨が降っていた。
その時は、雨だった。
寒い。空気が生温い。気圧の谷が近い。
彼女はコンビニで売られている透明のビニール傘を差して路地裏を歩いていた。
足元の運動靴は跳ねた水でズボンの裾を冷たく汚す。
長い髪をポニーテールに纏めて路地裏を歩く。街灯が乏しい路地裏。人気の無い路地裏。そもそも此処は廃棄されたに等しい区画の路地裏だった。
社会の落伍者がたむろしている他に気配の無い狭い空間を歩きながら、辺りに視線を走らせながら歩く。
視界に入る人影は浮浪者ばかり。
疎らな位置取り。
浮浪者同士で連携しているコミュニティの空気も感じない。
浮浪者と世捨て人の境を歩く人間がたむろしているエリアだと解釈した方が早い。
女はハーフコートのハンドウォームに右手を差し込む。
そこからセロファンで包まれた安物の葉巻を取り出す。
唇と前歯でセロファンを剥いて中身の安葉巻を露出させると、前歯でヘッドのキャップを噛んで千切る。
千切れたヘッドの葉は吐き捨てる。
横柄に葉巻を横銜えにして、使い捨てライターで葉巻の先端を炙る。歩きながら、視線を葉巻の先端に固定したままだ。
唇の端からホンジュラスの紫煙を大きく吐き散らかすと、苦い薬でも嚥下したかのような渋い顔で再び視線を辺りに配る。
全長122mm、太さ17mm程度の短く太目の葉巻を唇の端で燻らせながら、歩みを休めずに路地裏を行く。
「…………」
路地の一番奥まった場所に来ると立ち止まる。行き止まりだ。
迷路のような隘路の果て。
目前に南京錠が掛けられたフェンスのドアが有る。
そのフェンスの右手側の壁に浮浪者の段ボールハウス。
その段ボールハウスに右手を閃かせて、マネークリップで束ねた数枚の万札を放り込む。
少しも待たずに、段ボールの中から、どこにでも居る浮浪者の格好をした年齢の読み取り難い顔をした男が出てきて、背中を丸めながら目前の南京錠をそそくさと解除する。
開かれた路。フェンスのドアの向こうに歩みを進める。
ホンジュラスの土臭い紫煙を纏いながら、開錠してくれた浮浪者を見る。
その男は既に段ボールの家に見せかけた警備員室に戻り、完全に隠れていた。
あの男は確実に懐に拳銃を呑み込んでいた。体臭や垢や油の臭いを鼻が曲がりそうなほどに衣服に染み込ませていたが、それは硝煙の香りを消す為だと勘繰らせた。
フェンスの向こうにはビルの裏手。
外灯が点いた裏口が一つ見える。
そのビルの裏口から入る。
雨はいつの間にか止んでいる。
「……そこで止まれ」
裏口に入るなり、辺りが暗い中からそのような声が聞こえる。
女の声だ。
中年期以降の女性かと思わせる、渋みを湛えた声。
人生のあらゆる苦難を噛み締めた声。
辺りは暗い。
女が踏み込んだその場所が……広さや奥行きも不明なほどに暗かった。声の反響からこの空間の形状を計ろうとするが、パーテーションのような簡易的な壁をランダムに立てているのか、判然としない。
「顔役……」
葉巻を唇から離した女は、声の主に向かって話しかける。
自分が向いている方向にその声の主が居るとは限らない。
顔役と呼ばれた、姿の見えない女はホンジュラスの葉巻を指に挟んだ30代前半のポニーテールの女に対して、抑揚の無い声でこのように言った。
「貴女の欲しい物は手配した……直ぐに用件を済ませてこの街から出て行ってくれ。それが総意だ」
「顔役、すぐには無理だが必ず出て行く。それまでもう少し甘えさせてくれ」
ホンジュラスの安物の葉巻を再び銜えるハーフコートの女。
暗い空間が更に暗くなる。
背後でドアが閉まったのだ。
緊張が走る。
鎮静剤としての効果を期待して、真っ暗闇の中でハーフコートの女は安葉巻を大きく吸い込む。
「……!」
この空間の電灯が不意に点く。
辺りには予想通りに規則性が無くパーテーションが設置されていた。
目前4mの位置にあるスチールデスク。
辺りはコンクリ打ちっ放しを思わせる四角いだけの部屋。
この空間が設計された意図が全く解らない。
縦横6mほどの空間。
防災設備や窓は無い。
謂わば、ここが『顔役』と呼ばれた女との謁見の場だった。その顔役の姿はどこにも無い。誰もいない。
苦笑いをするハーフコートの女。
事務用のスチールデスクに寄り、その上に置かれていた中型のボストンバッグを開ける。
レミントンの紙箱に入った44マグナムの実包。
狩猟を目的としたハイベロシティ。弾頭はシルバーチップ。50発入り。
他の幾つかの箱も同じハイベロシティ。メーカーも同じ。弾頭に差異があるだけだ。
ジャケッテッドホローポイントにアーマーピアシング。それ以外は雑多なアイテム。スピードローダーやストラップ、クリーニングリキッドなど。
それらの紙箱の下から心の命綱ともいえる、愛飲している安葉巻のバンドルが3個出てきたのを見て、苦笑いから本当の笑みに変わる。
10本1パックのバンドル。雑な包装の安葉巻――エセンシア・デ・カリブ・ドブロネス――を手に取り、重さを量るような手つきで愛でる。
葉巻が無ければまともな思考が働かない部類に入る彼女にとっては、これ以上の気の利いた手回しは無い。
予めオーダーしていたとは言え、目の前に嗜好品が山のように積まれていて悦ばない常習者はいない。
唇に銜えていた安葉巻もこのバンドルの葉巻と同じ物だ。
ショートフィラーのローコストシガー。
一枚の煙草葉を実質の肉であるフィラーとして巻き、バインダーで包み込む葉巻ではなく、荒く刻まれた煙草葉をバインダーで葉巻の形に押し込めて形に填めて肌となる葉のラッパーで包んだ安物。
葉巻の部類ではミディアムシガーに分類されるかもしれない。
中身は機械が巻き、外側は職人が巻く。
愛好家が毎日葉巻を吸いたいが為に創られた様な代物で、大した味ではない。
……それでも嗜好品だ。好きか嫌いか、合うか合わないかは個人の味覚の問題である。突き詰めれば嗜好品は値段の問題ではない。
彼女はそのボストンバッグを肩に掛けてパーテーションがランダムに並ぶ空間から入った背後のドアより外に出る。
外に出た途端、勝手口を偽装したドアの外灯が消える。
ドアの脇に置いていたビニール傘を手に取る。大きく安葉巻を吸い込む。2cmほどに育った灰が静かに折れた。
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