銃弾は間違えない

 弾かれたように優子は右手を勢い良く高く掲げる。
「!」
 男の顔は見えない。
 だが、一瞬、そのシルエットに動揺が走った。
 刹那、ブレる銃口と視線。
 その男……ではなく、その男に向かって、コンテナの天辺より高く放った、『使い捨てカイロに向かって』ZKR-551の引き金を引いた。
 コンテナの間に響く38口径の銃声。
 いつもの彼女の38口径。
 軽い余韻を響かせて銃声が遠くへ伝わる。
 38口径の弾頭は使い捨てカイロを貫通し、内容物を派手に散らかした。優子は咄嗟にトレンチコートの裾で顔を覆う。
 その顔が完全に覆い隠されるまでにZKR-551は再び火を噴いた。
 今度はコルト・ダイヤモンドバックの男の胸の真ん中に命中する。
 使い捨てカイロの内容物を派手に顔面の前で炸裂されたのだ。鉄やカルシウムの粉末で目を一瞬で使い物にされなくなり、標的を視界から閉ざしてしまった。
 『標的』の方は生憎と、自らの視界をトレンチコートで覆い隠す前に反撃に出た。
 その反撃は確実に男の胸を捉え、彼を大の字でコンテナの天辺に倒れさせた。
 絶命には遠い。
 命は助かっても失明の危険と戦いながら仲間を呼ぶのが関の山だろう。
 仲間を呼んだところでそんな……コンテナの上まで助けに来る殊勝な心掛けの人間が、あのならず者の中に居るだろうか?
 救急隊を呼んでも、どこのどの場所で自分が被弾して助けを求めているのか正確に説明できるだろか。
 尤も、そのような事を考えて、実行に移す前に残党狩りの仲間が死に切れないで居る敵味方をまとめて始末し、死人に口無しと、始末してしまうだろう。
 心配しなくとも、彼には止めを刺してくれる優しい仲間に溢れている。
 優子は足元に孔が開いた使い捨てカイロの袋が落ちるのを確認する。頭をまだトレンチコートで覆ったまま、走り出す。
 先ほどの銃声以来、追い立てる銃声がぱたりと止むと訝しんだ仲間が追撃を更に強めるだろう。
 コンテナの隙間から遮蔽の無い開けた場所に出る。
 頭を覆っていたトレンチコートを目を瞑って派手に叩く。使い捨てカイロの中身は輪胴式の男を仕留める目潰しとして大いに役立ったが、その残滓がコートに付着している。その一粒でも命取りになりかねない。 運河。
 港湾部に注ぎ込む幅40mほどの運河が有る。
 ランチや砂利運搬船が往来する目的で造られたものだ。
 深さは5mもないだろう。
 護岸周辺には手漕ぎボートが係留されている。良く見れば発動機付きも有る。
 振り向くと足音が聞こえる。2人分ではない。
 それ以上だ。
 護岸沿いの道路の向こうからもひそひそと話す声が聞こえる。舌打ちすると、ZKR-551をズボンのベルトに挟んでフェンスを攀じ登り、護岸を越えてボートが係留されている運河の縁を走る。
 海の方ではなく、国道が有る山側へ向かって。
 トレンチコートも脱ぎ捨てて走りたい気分だ。
 風の抵抗が大きくてトレンチコートとガンベルトをまとったまま全速力で、いつ終わるか解らない距離を走り続けるのは非常に疲れる。
 呼吸も整わない。足元は暗い。加えて排水が流れ込む足元ゆえに滑り易くなっている。
 優子の背後から銃声が追いかけてくる。
 直線の護岸。
 連中に少々は知恵の廻る奴が居れば静止した後の一斉射撃であっという間にカタが付く。
 それを行わないのは……恐らく、この先に……先回りしている連中が居るからだろう。
 後方と真正面から。
 曲がり道も遮蔽も無い、狭い足場で挟撃されるのは時間の問題だ。
「…………」
 ちらりと右手側の黒い墨を溶かしたような水面を見る。
 水深5mも無い。
 夜の水面は不気味だ。
 外灯に照らし出されていない箇所は余計に不気味さが引き立つ。
 まさに得体の知れない深淵。
 夜風が冷たくなる。
 黒い水面から何かが這い出てきそうだ。
 正面と後方には挟撃の恐れがある物理的で具体的な恐怖。
 ZKR-551で何とかなる局面ではない。
 そんな彼女の背中にとうとう銃弾が掠り始める。
 真正面50mの辺りでは梯子を伝って護岸を降りてくる複数の影が見える。
 係留されているボートは遮蔽の助けにはなるだろうが、これを用いて対岸に移るには時間が無い。ボートに潜んでも意味が無い。直ぐに索敵される。
「……」
――――あー! もー!
 何度も水面をちらちらと見ながら、心の中で数え切れないくらいに舌打ちをする。
 銃弾が足元に着弾。
 やがて側面の護岸の壁にも擦過する。
 トレンチコートの裾やベルトを弾頭で弾かれる。距離はどんどん詰まっている。
 スキットルの中身に願をかける。……生きて帰れたら必ず浴びるほど酒を呑んでやると。
 その瞬間。
 彼女は黒い水面に飛び込んだ。
 迷いは見せられなかった。見せている暇も無かった。
 彼女が姿を消した辺りに銃弾が叩き込まれて木製の係留柱が弾き飛ばされた。
 大きな水の音。彼女が飛び込んだ水面は大きく波が立つ。
 トレンチコートが明らかに大きな波を発生さていた。
 優子は頭を出さずに目や鼻が染みる排水が混じった水の中を出来るだけ静かに掻いてどんどん進んだ。
 暗い水中。
 視界0m。
 手探りに等しい水泳。
 こんなに過酷な水泳は初めてだ。
 冬の運河の水は体を容赦なく冷やして体力を奪い、心臓すら止めようとする悪意を感じる。
 暗闇の中を空気の3300倍以上の抵抗を感じながら、潜水したまま泳ぐ。
 呼吸が止められる限り、水を掻いた。
 どれくらい掻いたのか自分でも解らない。
 何m進んだのかも判然としない。
 この暗い水中が自分の墓場と感じられる絶望が襲い掛かる。
 只管、黒い水の中を掻い潜る。
 目を開けているだけ無駄だと悟り、途中で目を瞑る。目に入った排水交じりの水が染みて涙が浮かぶ。目を洗浄する役目を果たす涙が水に溶けて焼け石に水の体をみせる。
 このまま沈んでしまいたい……そんな負の感情に囚われた時に指先が対岸の何かを掴んだ。

   ※ ※ ※

 高熱。
 40度を超える。
 あの暗い夜の黒い水の中から濡れ鼠の姿で生還し、トレンチコートを玄関で脱ぎ捨て、頭から異臭を放つ汚水を全てバスルームで洗い流した。
 湯船に湯を張りながら満遍なく体を熱湯で洗う。
 何度体をボディソープで洗ったか、何度、髪を洗髪したか覚えていない。
 湯船に飛び込み、体を出来るだけ暖めた。
 体の芯から冷えている。
 自宅にどのようなルートを辿って帰宅したのかはっきりと覚えていない。
 早く体を洗いたかった。早く体を温めたかった。
 目から涙が止まらない。
 眼球の表面を汚水で浸された為に炎症を起こしているに違いない。目薬を差したい。抗生物質を飲みたい。全身に使い捨てカイロを貼り付けたい。
 洗濯物を洗濯機の放り込み、ZKR-551を床に落とし、ガンベルトも玄関に放り出したまま。
 バスルームから出ると、せかせかと髪を乾かして体を拭き、室内を直ぐにエアコンで暖める。
 電気あんかや電気カーペットを出していなかった自分を恨む。古典的な石油ストーブが欲しい。
 抗生物質を飲む。目薬を何度も差す。空腹を訴える胃袋を無視して、部屋着を着たままベッドに飛び込む。
 今の時間帯の感覚が無い。
 背筋に酷い寒気を覚え、体の中心から寒さが溢れ出る。
 自分の意識や時間の感覚やあらゆるものが撹拌される。
 やがて全身が大きく震える寒気に襲われる。……そのまま眠る事も出来ず、寒気と、その奥底からやってくる不安感と焦燥感に炙られながら高熱に茹でられる。
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