風速で去る明日
※ ※ ※
もう今月も半ばを過ぎた。
暑い季節のピークも過ぎた辺りだろう。
縁側で食後のデザートにスイカを齧りながら、季節の移り変わりの早さを噛み締める。
よくよく考えれば、ホルスターも弾薬ポーチも外して大きく足を伸ばして人並みの食事を腹に収めているのは随分と久し振りに感じる。
何度も未来を説得して明るい世界の住人として生活させる機会は有ったのに、それを言い出せないのは、町乃が年長者として見本になる生き方をしていない気恥ずかしさからなのだろう。
本当の意味で暗い世界から足を洗うのは大変なことだ。
闇社会や暗黒社会やアンダーグラウンドと呼ばれる暗い世界はカタギの人間の見えない世界で行われている事ではない。
日常と地続きで繋がっている。
ヤクザやマフィアを主題にしたハードボイルド小説のように分かり易い世界ではない。
路地を曲がらなくとも、毎日の買い物のコースに潜んでいるのが暗い世界だ。暗い世界への入り口だ。
それは簡単で、甘い言葉で、魅惑的な存在として在り続ける。
罠を張っているのではない。罠と錯覚してしまうほどに普通に存在しているのだ。
そんな欺瞞と隠蔽の中に在る世界の住人として未来が存在している。もう引き返せない。町乃はそこまで彼女を育ててしまった。
成長の片鱗は見せなくとも、成長に必要な土壌を与えてしまった。
最早、自分独りの世界ではない。
未来と言う小さな雇用主の『使い捨ての駒』なのだ。
両脇に銃を吊り下げないで、伸び伸びと生きる方法も嘗ては有ったはずの人生。
今更、過去を顧みても仕方の無い事だ。
過去を見れば後悔しかない。
悔やんで惜しんで怒って……その場所で停滞しても何も解決しない。
何も解決しないからこそ突き進んだ。
……その結果が今の町乃だ。
誰にも理解して欲しくないし、誰にも同じ道を歩んで欲しくないと言う思いを抱きながらも、とうとう未来を導いてしまった。
これは死ぬまで引き摺る因果な禍根だと感じる。
まさに『未来』。
未来の有る若者の生き方を正してやる事が出来なかった。それを利用して金を稼ごうと卑しい計算すらしている。自分のドス黒い情動が彼女をここまで連れてきたようなものだ。
どんなに過去を振り返らないと決めても、この事実はいつでも胸のどこかでハーケンを打ち込んだように突き刺さっているだろう。
秋の始まりを知らせるトンボが飛んでいる。
傾く夕陽が鮮明だ。
明日も暑くなる。
※ ※ ※
まだ未来の手配先は少ない。顧客も少ない。
つまり、依頼人も少なく、依頼を頼む『現場作業員』も少ないのだ。未来の手配師としての名声が広がるまでまだまだ時間が必要だ。
彼女の名声のため、自分の稼ぎのため、今夜も依頼を受けて出発する。未来の家の門扉を出た辺りで、いつも思う疑問を先ほど未来に問うた。
「【人材派遣会社T.D】ってなんだ?」
鏑家の表札の下に白いアクリルプレートに黒い文字でそう書かれた申し訳程度の看板が有った。
未来は少し寂しそうな顔でこう言った。
「……あれは……先代が手配師で活躍していたころに掲げたんです。いつも沢山の『作業員』さんが出入りしていたので近所の人に怪しまれちゃいけないから、それらしい会社を作って経営しているっていう、ささやかな意思表示なんですよ……今ではそんな面影なんて有りませんよね……でも一番、『父親が格好好かった時代の証拠』なんです。だからいつまで経っても外せなくて……」
「ふーん……で、T.Dは何の略称なの?」
その質問に突然、未来はぱあっと明るい笑顔になって心底嬉しそうに話し出した。
「意味なんて無いんです!」
「は?」
「意味は有りません。何かの略称っぽい方が皆さん、気になっていつまでも心に留めてくれるでしょう? 宣伝の一つなんですよ! お客さんや手配先の方にも覚えられ易いんです。名前と会社の名前のイニシャルっぽいのが全く一致しなくて皆さん、悶々としてくれます! 名前が何であれ、心に『アレはなんだろう?』と言う印象を与えたほうが宣伝効果の勝利なんです!」
「お、おう……」
正直に言って……先にその由縁を聞いておいて正解だった。
町乃の生命に万が一が発生して、朦朧とした意識の中で浮かび上がった、どうしても知りたかった秘密の一つが【T.D】の由来でそれを聞き出せないままこの世を去ってしまうと、余りの疑問のモヤモヤに、成仏しきれずに化けて出てきそうな気がした。
もしかしたら、過去に実際に未来の父親が手配した手配先の『作業員』も現場で奪命した時に、そんな疑問を抱いたままこの世を去ったかもしれない……何故か寒気と失笑が同時に出る町乃だった。
奥歯に物が詰まった感触が外れた町乃は、今夜の依頼遂行のために徒歩で未来の家を出た。
途中で車を窃盗して乗り継いで、現場入りするのが常となっている。
何度か車を乗り換え、タクシーも使い、更に原付バイクも奪う。
途中でタクシーを使うことで関連性の無い車の盗難だと思わせる為だ。勿論、指紋は残さない。車中の物は何も盗まない。
いつものオーバーサイズのパーカー。
現場付近まで来る。
原付バイクを乗り捨てて歩きながら、革製の4連シガーケースからベガフィナ・コロナを取り出す。
手元を見なくとも感覚だけでアーミーナイフのブレードを展開して吸い口を切断できる。
今が午後11時の真夜中の空の下でも変わりは無い。
ただ、葉巻の先端を火で入念に炙る時は少しばかり視線を落とした。
直径16mmの葉巻ともなると、片燃えと言う現象――均一に燃焼せずに一方だけが極端に灰になる――が発生するのを防ぐ為に、先端の輪郭を満遍なく焦がして煙が立ち昇った辺りで先端を更に満遍なく炙る。
浅く焦げたところで軽く吸い込みながら遠火で炙る。
この手順を怠ると片燃えが起きやすい。
尤も、屋外で吸うのなら風向きによる変化で割りと簡単に片燃えが発生する。それ以外にも葉巻の湿度の管理がいい加減でも発生する。
細やかな作法が有るのも葉巻の醍醐味だ……そこまで守っておきながらオイルライターという葉巻の天敵を用いる町乃のセンスは少し疑うばかりだ。
使われているオイルがジッポー社純正でない、100円均一の安物で燃焼時に殆どオイルの臭いが立たず、移り難いとしても愛好家からすればオイルライターを用いて火を点けている行為自体が度し難き悪行に見えるかもしれない。
「……」
町乃はパーカーのハンドウォームに両手を突っ込んだままテナントビルを見上げた。
この街に来た時に、未来の手によって三下を嗾けられたシャッター街にそっくりだ。
ここも深刻な過疎化が進み、廃棄の計画が持ち上がっている区画だ。まだ強情な商店が幾つか営業をしているが、挽回は不可能なほどに人足が乏しい。
明らかに住宅街から隔離されている。
ここに買い物に来るよりも、反対側の駅に近い通りに有るまだ活気が有る商店街を利用した方が利便性が高い。
この街の行く末は今はどうでもいい。今は仕事の事を考える。
今回の依頼はシマ荒らしの代行だ。
いつもの鉄砲玉と大して変わらない。
本来なら手配師は不必要な情報は『作業員』には教えない。
クライアントの名前が漏洩するのを防ぐためだ。
残念ながら、手配師の家で半野良生活を営んでいる風来坊のパートタイマーには全ての情報が筒抜けだった。