風速で去る明日
彼女の腕時計は午前0時を経過した事を報らせていた。
午前9時起床。
チェックアウトは午前10時半。
流石に他の客に銃火器の所持を悟られるわけにいかないので、ホルスターの類はトイレの個室で装着する。
新しい衣類にガンオイルが移らないように気を付ける。
ガンオイルは衣服に沁み込むと跡が残るので面倒だ。
ガンオイルの臭いだけなら何とでも誤魔化せるが、衣類に付着すると意外に目立つ。
映画やドラマでは財布でも取り出すかのように気軽に扱われる銃火器だが、ガンオイルの沁みや臭いは慣れ親しんでいない人間の鼻からすれば異質に感じられるので、直ぐに感知される。
……勿論、硝煙の臭いも同等に気をつけなければならない。
マズルフラッシュと共に飛び散る高熱の火薬滓も意外と特徴的なパターンで衣服の表面に付着する。
衣服がナイロンやビニール繊維だと大粒の孔が開く事もあるので町乃が所持する衣服は基本的に綿を中心にした素材だ。
ホテルの食堂でバイキングスタイルの朝食を食べている時に視線を感じた。
直ぐに辺りを確認する挙動は見せずに黙々と食事を続けた。
視線からは様々な感触が感じられるが、敵意や殺意や悪意と言った禍々しい物は感じられなかった。
探りを入れるような、距離を保つ気配を感じる。
風来坊という身分である町乃からすれば食事時と排泄時が一番、警戒を高める状況だ。
誰もが油断するであろう状況。
故に襲撃を受け易い。
だからこその感度の高さで視線を感知した。
距離も人数も不明。
余所者だと悟られて街を出るまで視線にまとわりつかれた事も一度や二度ではない。
神経をすり減らす毎日だったが、どこの誰にも与しないモーションを見せると命の危険は低くなった。
今回もそうだと思いたい……尤も、ジムニーの修理と車検で有り金を叩いたので草鞋銭が無い。だからどこかで誰かのトラブルを期待する自分が居る。
カプセルホテルをチェックアウトし、次のねぐらを探すべく観光案内のパンフレットを何枚か貰ってきた。
それを見ながら午前中を潰す。
感じる視線は相変わらずだ。まるで野良猫に奇異な物でも見られているかのような気分になる。
遊具が無い、広くて植樹が多いだけの公園に入り、ベンチに腰掛けて両肩に吊ったボストンバッグを左脇に置く。
不意に町乃は口を開く。
「何かご用?」
全くの不意に虚を衝かれた、背後に立っていた人物は思わずたじろぐ。
自分のストーキングは完璧だと疑っている人間の仕草だ。
足音で解る。
背後の気配。距離にして1m。
明らかに町乃と接触を試みようとする者の距離だ。それも町乃の実力を試すつもりの。
背後に居る人物は明らかに動揺している。
途端に呼吸が乱れている。
町乃が突如、アーミーナイフを手品のように掌に出現させた時は心臓の音が聞こえてきそうだった。
町乃は悠々とそのアーミーナイフでシガーケースから取り出したベガフィナ・コロナの吸い口を切った。
ベガフィナ・コロナを口に銜えた時に、背後の人物は思ったより小さな歩幅で町乃の前に廻ってきた。
「…………?!」
今度は町乃が驚く番だった。
目前には少女。
年の頃、17歳。
どう見ても二十歳以下。
明るいブラウンのボーイッシュなショートカットがふわりと揺れる。 若く瑞々しい覇気。
この世の何も知らぬ事から来る、恐怖を知らぬ顔。
驚かされた表情の町乃に、同じく驚かされた表情の少女。
野良猫のように愛くるしい笑顔……を作ろうと努力しているのが見える。
確かに活発で明朗な顔付きだ。……そんな印象を強く受ける。きっと元気溌剌な性分なのだろう。
夏でも冬でも活躍できるバイタリティを秘めているに違いない。
自分にもこんな時分が有ったのかもしれないと銜え葉巻のまま町乃は少女の顔を見た。
穴あきジーンズに白いTシャツ。リネンの水色のベスト。赤いスニーカーが眩しい。見たところ軽装。この辺りを根城にしている不良少女か。
「無駄は嫌いなの。早く用件を言って」
町乃はわざとドスを効かせた声で目の前の少女に問う。
「……あ、あの!」
少女は時々、詰まりながらも自己紹介を始めた。
「わ、私は鏑未来(かぶら みき)と言います! お姉さんが『強そうだから』声を掛けようとしました!」
「……要点を得ないわね。未来ちゃん。もう少し喋ってくれる?」
町乃の嗅覚が金の臭いを嗅いだ。
町乃の瞳に僅かに光が灯る。
目の前の少女・鏑未来なる少女は何かトラブルを持ってきてくれたようだ。
小遣い程度の稼ぎは出るかもしれない。この少女は唯の使いっ走りで背後に『大きな関係』が控えているかもしれない。
「お姉さんの『両脇のモノが久し振りにアブナイ匂いだったので』、ちょっと力になって欲しいなぁって」
「あら。両脇が匂うなんて失礼ね」
町乃は目を細めながらべガフィナ・コロナの先端をジッポーで炙りだした。
「私……その……『自営業』で手配師をやっているんですが……その、お父さん……先代が病気で死んでから跡を継いだんですけど……伝の皆さんに一人前に見られていなかったらしくて……その……手配する『タマ』の伝が無くなってしまったんです!」
そこまで鏑未来は喉から搾り出すように喋った。
彼女が言いたい事は大体把握した。
未来は町乃に恥を忍んで内情を話し、自分専属の『現場作業員……派遣する鉄砲玉』になって欲しいと頼んでいるのだ。
見かけはまだまだあどけなさが残る少女だった。
その口から零れる文言は剣呑に尽きた。
なるほど、こんな小娘だと信用商売で飯を喰う殺し屋は縁を切るか距離を置きたくなる。
まだ彼女が手配師としての見事な仕事を発揮していないのも雰囲気で知る。
手配師は手配だけが仕事だ。注文が入ったり案件を持ってきたりしてそれに見合う実力を有した『現場作業員』を派遣する事が出来なければ手配師ではない。
恐らく未来は手配師として認められたいのだろう。
そこに到るまでの大きな疑問が有る。
それを未来にぶつけてみた。
「先代が死んだのなら手配師なんて辞めればいいじゃない。どうやら貴女が貴女の家系で手配師として最後の望みらしいけど……どうしても手配師を続けなければならない理由が有るの? ……鼻が少しは利くようだけど、スカウト専門の求人屋じゃ駄目なの?」
その質問の答えが出る前に目前に立つ未来に隣に座るように勧めた。 自分が飲むつもりで買ったミネラルウォーターのペットボトルをボストンバッグのサイドポケットから取り出して未来に押すように持たせて勧める。
未来は砂漠で水にありついた様な顔つきで喉を鳴らして水のペットボトルを呷った。
そして息を整えて話の続きと町乃の質問の答えを同時にする。
「……憧れ……です。世の中に必要の無い仕事なんて無い事を教えてくれた人に憧れているんです。その人は先代の父と凄く仲の良い人で、お互い、信頼していました……あ、見ていて、そうだと解ったんです。本当にツーカーで繋がっているんだなぁって……その人が『現場』で亡くなったのがショックで先代の手配の采配が鈍くなって途端に家計は傾いて……警察のお世話になることは無かったんですけど……とうとう、仲良くしてくださっていた伝の方々からも遠ざけられて……後は酒に溺れて呆気なく亡くなっちゃいました……」
午前9時起床。
チェックアウトは午前10時半。
流石に他の客に銃火器の所持を悟られるわけにいかないので、ホルスターの類はトイレの個室で装着する。
新しい衣類にガンオイルが移らないように気を付ける。
ガンオイルは衣服に沁み込むと跡が残るので面倒だ。
ガンオイルの臭いだけなら何とでも誤魔化せるが、衣類に付着すると意外に目立つ。
映画やドラマでは財布でも取り出すかのように気軽に扱われる銃火器だが、ガンオイルの沁みや臭いは慣れ親しんでいない人間の鼻からすれば異質に感じられるので、直ぐに感知される。
……勿論、硝煙の臭いも同等に気をつけなければならない。
マズルフラッシュと共に飛び散る高熱の火薬滓も意外と特徴的なパターンで衣服の表面に付着する。
衣服がナイロンやビニール繊維だと大粒の孔が開く事もあるので町乃が所持する衣服は基本的に綿を中心にした素材だ。
ホテルの食堂でバイキングスタイルの朝食を食べている時に視線を感じた。
直ぐに辺りを確認する挙動は見せずに黙々と食事を続けた。
視線からは様々な感触が感じられるが、敵意や殺意や悪意と言った禍々しい物は感じられなかった。
探りを入れるような、距離を保つ気配を感じる。
風来坊という身分である町乃からすれば食事時と排泄時が一番、警戒を高める状況だ。
誰もが油断するであろう状況。
故に襲撃を受け易い。
だからこその感度の高さで視線を感知した。
距離も人数も不明。
余所者だと悟られて街を出るまで視線にまとわりつかれた事も一度や二度ではない。
神経をすり減らす毎日だったが、どこの誰にも与しないモーションを見せると命の危険は低くなった。
今回もそうだと思いたい……尤も、ジムニーの修理と車検で有り金を叩いたので草鞋銭が無い。だからどこかで誰かのトラブルを期待する自分が居る。
カプセルホテルをチェックアウトし、次のねぐらを探すべく観光案内のパンフレットを何枚か貰ってきた。
それを見ながら午前中を潰す。
感じる視線は相変わらずだ。まるで野良猫に奇異な物でも見られているかのような気分になる。
遊具が無い、広くて植樹が多いだけの公園に入り、ベンチに腰掛けて両肩に吊ったボストンバッグを左脇に置く。
不意に町乃は口を開く。
「何かご用?」
全くの不意に虚を衝かれた、背後に立っていた人物は思わずたじろぐ。
自分のストーキングは完璧だと疑っている人間の仕草だ。
足音で解る。
背後の気配。距離にして1m。
明らかに町乃と接触を試みようとする者の距離だ。それも町乃の実力を試すつもりの。
背後に居る人物は明らかに動揺している。
途端に呼吸が乱れている。
町乃が突如、アーミーナイフを手品のように掌に出現させた時は心臓の音が聞こえてきそうだった。
町乃は悠々とそのアーミーナイフでシガーケースから取り出したベガフィナ・コロナの吸い口を切った。
ベガフィナ・コロナを口に銜えた時に、背後の人物は思ったより小さな歩幅で町乃の前に廻ってきた。
「…………?!」
今度は町乃が驚く番だった。
目前には少女。
年の頃、17歳。
どう見ても二十歳以下。
明るいブラウンのボーイッシュなショートカットがふわりと揺れる。 若く瑞々しい覇気。
この世の何も知らぬ事から来る、恐怖を知らぬ顔。
驚かされた表情の町乃に、同じく驚かされた表情の少女。
野良猫のように愛くるしい笑顔……を作ろうと努力しているのが見える。
確かに活発で明朗な顔付きだ。……そんな印象を強く受ける。きっと元気溌剌な性分なのだろう。
夏でも冬でも活躍できるバイタリティを秘めているに違いない。
自分にもこんな時分が有ったのかもしれないと銜え葉巻のまま町乃は少女の顔を見た。
穴あきジーンズに白いTシャツ。リネンの水色のベスト。赤いスニーカーが眩しい。見たところ軽装。この辺りを根城にしている不良少女か。
「無駄は嫌いなの。早く用件を言って」
町乃はわざとドスを効かせた声で目の前の少女に問う。
「……あ、あの!」
少女は時々、詰まりながらも自己紹介を始めた。
「わ、私は鏑未来(かぶら みき)と言います! お姉さんが『強そうだから』声を掛けようとしました!」
「……要点を得ないわね。未来ちゃん。もう少し喋ってくれる?」
町乃の嗅覚が金の臭いを嗅いだ。
町乃の瞳に僅かに光が灯る。
目の前の少女・鏑未来なる少女は何かトラブルを持ってきてくれたようだ。
小遣い程度の稼ぎは出るかもしれない。この少女は唯の使いっ走りで背後に『大きな関係』が控えているかもしれない。
「お姉さんの『両脇のモノが久し振りにアブナイ匂いだったので』、ちょっと力になって欲しいなぁって」
「あら。両脇が匂うなんて失礼ね」
町乃は目を細めながらべガフィナ・コロナの先端をジッポーで炙りだした。
「私……その……『自営業』で手配師をやっているんですが……その、お父さん……先代が病気で死んでから跡を継いだんですけど……伝の皆さんに一人前に見られていなかったらしくて……その……手配する『タマ』の伝が無くなってしまったんです!」
そこまで鏑未来は喉から搾り出すように喋った。
彼女が言いたい事は大体把握した。
未来は町乃に恥を忍んで内情を話し、自分専属の『現場作業員……派遣する鉄砲玉』になって欲しいと頼んでいるのだ。
見かけはまだまだあどけなさが残る少女だった。
その口から零れる文言は剣呑に尽きた。
なるほど、こんな小娘だと信用商売で飯を喰う殺し屋は縁を切るか距離を置きたくなる。
まだ彼女が手配師としての見事な仕事を発揮していないのも雰囲気で知る。
手配師は手配だけが仕事だ。注文が入ったり案件を持ってきたりしてそれに見合う実力を有した『現場作業員』を派遣する事が出来なければ手配師ではない。
恐らく未来は手配師として認められたいのだろう。
そこに到るまでの大きな疑問が有る。
それを未来にぶつけてみた。
「先代が死んだのなら手配師なんて辞めればいいじゃない。どうやら貴女が貴女の家系で手配師として最後の望みらしいけど……どうしても手配師を続けなければならない理由が有るの? ……鼻が少しは利くようだけど、スカウト専門の求人屋じゃ駄目なの?」
その質問の答えが出る前に目前に立つ未来に隣に座るように勧めた。 自分が飲むつもりで買ったミネラルウォーターのペットボトルをボストンバッグのサイドポケットから取り出して未来に押すように持たせて勧める。
未来は砂漠で水にありついた様な顔つきで喉を鳴らして水のペットボトルを呷った。
そして息を整えて話の続きと町乃の質問の答えを同時にする。
「……憧れ……です。世の中に必要の無い仕事なんて無い事を教えてくれた人に憧れているんです。その人は先代の父と凄く仲の良い人で、お互い、信頼していました……あ、見ていて、そうだと解ったんです。本当にツーカーで繋がっているんだなぁって……その人が『現場』で亡くなったのがショックで先代の手配の采配が鈍くなって途端に家計は傾いて……警察のお世話になることは無かったんですけど……とうとう、仲良くしてくださっていた伝の方々からも遠ざけられて……後は酒に溺れて呆気なく亡くなっちゃいました……」