風速で去る明日

 ベガフィナ・コロナのスパイシーで杉を焦がしたような芳香が立つ煙をぷかりと吐きながら、相応しい台詞を模索していた。
 今、ヤードから連絡が入れば直ぐにでも街から出る。
 だが、それでは右と左の違いを知ったばかりの素人手配師を放って逃げるに等しい行為だ。
 もし、そうであっても約束は違えていない。
 街を離れる条件が揃ったから街を離れる。
 それだけだ。
 早い話が、町乃は町乃なりに未来に情が移ったのだ。
 そうとしか説明がつかない。
 町乃も混乱気味だ。
 人間として未来を放っておく事を許さないのか、一宿一飯以上の寝床を提供してもらっている恩義に報いるためなのか、単純に『危なっかしくて見ていられない』からなのか。
 それ全部なのかもしれない。
 それ以外に大きな理由が有るかもしれない。言葉で表現できないだけなのかもしれない。
 大人の対応としては、ヤードから連絡が来たら問答無用で街から出る、と答えるのが普通だろう。
 幾らかの旅銭も稼がせてもらった。文句は無い。
 子供っぽい対応としては、未来をもう少し見守りたいからここで寝泊りさせて欲しいと乞う。
 今では珍しい円形の卓袱台に、食器や今晩の夕餉を並べ終えた未来は、手元に置いた炊飯器からご飯をよそう。
 今晩は豚の生姜焼きにレタスメインの野菜サラダとシジミの味噌汁だ。
 小鉢にほうれん草の味噌和え。添えられたタクアン。
 未来は歳の割にはカロリーよりも栄養バランスを中心に考えた献立が多かった。
 このような倹しい食卓に似合う、どこか儚げな表情を見せることが多いのも夕食の時だ。
 物憂げな表情に深く詮索はしないが、彼女には彼女の歴史があるのだ。彼女にも陰りが差す部分があるのだ。そのキーワードがたまたま、夕食だったのかもしれない。
「……ヤードから連絡が入ったら直ぐに街から消えるよ。そう言う約束だもんね。根無し草が性に合っているの……留まったら死んじゃうのよ」
 言葉の端々は冗談めかしていたが『出来るだけ、本気に聞こえるように』未来に語りかけた。
 微温湯に浸かり過ぎて人間臭くなった自分を嗤う。
 心がズキズキと痛む。
 優しさや温かさや柔らかさを表現する度に、心にガラス片を刺されているような気分になる。
 未来にだけは嘘を言ってはいけないという戒めが自動的に働いているのかもしれない。
 何故そのような不要な感情が働くのかも解らない。
 夏の終わりを告げる蝉が鳴く。
 風の向きも変わってきた。初秋に見られるトンボが空を突付く。
 町乃は長居しすぎたのだ。
 いつも通りの食事をいつも通りに終える。
 このいつも通りの風景が、町乃にとってはいつも通りではなかったのだ。
 町乃は長居しすぎたのだ。
 町乃の煮え切らない言葉に未来は反論も応答も見せなかった。
 いつ壊れるかもしれない日常に怯えているのが顔色にも見えた。町乃と出会う前からこのような表情をする少女だったのか? 町乃と出会ってから新しく加わった表情なのか?
 ……今は、問い質すと藪蛇になると恐れてしまう町乃の方が余程、子供だった。
   ※ ※ ※
 町乃は鏑家の玄関から転がり出るように飛び出ると、ひっ捕まえたパーカーに袖を通して、夜更けの道を駆けながら、息を上げた。
 全力疾走。心臓が破れそうだ。
 途中、路肩に放置された盗難自転車を拝借してペダルを必死で漕いだ。
 今から15分前。
 町乃の携帯電話に連絡が入った。
 生憎、ヤードからではなく未来からだった。
 夜更けに町乃の警護も無しで手配師の会合に参加させたのが拙かったか。手配師が特定の『現場作業員』とつるんでいるのは受けが悪いと思い、未来は町乃の警護の申し出を断った。
 今までにも何度も同じ遣り取りが有ったが、いつも無事に未来は一人で会合に参加し、会合から無事に帰ってきた。
 手配師だけの密会の場所。
 どんな会合なのか、どんな議題なのかは町乃も知らない。
 海のものとも山のものとも解らない連中が、眉唾に眉唾を重ねて喧々囂々と話し合う場所だという事は解っているが、それ以上の深い部分については、風来坊で使いっ走りの身分である町乃が顔を並べてもいい場所ではない。
 部外者を極端に嫌う世界も有るのだ。
 その場所では寸鉄を帯びているだけで爪弾きにされかねないほどシビアだ。
 ……つまり、非常事態が発生すると自分で自分を守ることが出来ない状況に陥りやすい。
 その未来から電話が有った。
「今から帰るから布団を敷いておいてね。枕の下に9mmを忘れないでね」
 その一言だけで理解した。
 彼女は、未来は今、窮地に居る。
 万が一が発生した場合の合言葉を幾つか決めていた。
 そのうちの一つだ。
 大声で助けを呼べない状況で用いる、二人だけで通じる合言葉。
 『枕の下に9mm』と未来は言った。
 未来も町乃も9mm口径の拳銃は持っていない。
 手配師の会合の大雑把な場所は知っている。
 詳細は有料の情報屋を頼るしかない。それだけ隠匿性が高い。
 家を転がり出るのに時間が掛かった理由も、情報屋を当たるのに時間が掛かったからだ。
 必要なワードから情報を的確に浚い上げるのが情報屋だ。性急な結果を求めた結果、今まで稼いだ報酬の半分が吹っ飛んだが、そんな問題は後回しだ。
 情報屋からの折り返しのメールを読む。段々精度が高くなっていく情報を頭に叩き込む。
 割高な情報屋だけあって、手配師の会合場所とその議題、参加した手配師やその背後関係まで長々とメールに認められている。
 画面をスクロールさせてもっと有用な情報は無いかと自転車を漕ぎながら目を走らせる。
 手配師の会合は何事も無く閉会したのは判明した。
 定例会同然なので、その辺りは簡単に割り出せた。その直後に地元で小康状態を維持している反社会的組織――ヤクザ、マフィア、ギャング、カラーギャング、シンジケートの橋頭堡等――のうちの一つ、【誠雲会】の三下が三々五々と散る手配師の後をつけていたのが確認され、それを強請りや情報の糸口にして高く売りつけようとしていたウオッチャー紛いの小物の情報屋が確認していた。
 【誠雲会】……町乃を篭絡するために未来が嗾けた三下連中が居た。
 その三下連中が所属する直接の組織だ。
 その上層組織は【誠雲会】の動向を把握しているが、上層組織の意向ではないと表明している。
 町乃と未来が手打ちをして落とし前をつけたのは【誠雲会】の上層組織と、だ。
 小物と話をしても仕方が無いと、責任者に直接詫びを入れて賠償金の半額を支払った。
 それで一件落着だ。
 賠償金の半分は手配師の未来の将来性を担保にして、未来を都合よく使える殺し屋の斡旋窓口として使わせる事で話はオチた。
 上層組織とは話がついた。一応の解決は見た。
 だが、何も知らないままに、タレ込み電話で良いように扱われて怪我人を続出させた【誠雲会】単体のメンツとしては、全く落とし前がついていないと思われたのだろう。
 逸る悋気を押さえる為にも、上層組織と話し合いをして落とし所を見つけたのに、下位組織の【誠雲会】は上層組織の顔に泥を塗ってまで未来を襲ったのだ。
 場末だけを仕切らされているヤクザにも少しはプライドが有ったのだと感心する場面だが、心は穏やかではない。
 情報屋の送信してくるメールアドレスに張られているリンクにアクセスしてどんどん情報を課金して買う。
14/18ページ
スキ