躊躇う脅迫者

 後続の連中が盲撃ちに左手側のブリキの壁に向かって乱射を繰り返す。雪子は既に足を速めて先に進み、倉庫の内部から裏手口経由で細い裏路に出ていた。
 背後から銃声が聞こえる。
 風声鶴唳といった雰囲気で動く気配の有るものに銃弾を無為に浴びせている乱射にしか聞こえない。
 イニシアティブはまだ雪子の手の中に有る。
 彼女の心は、反して余裕は無い。
 心臓が跳ね上がるように暴れ回り、喉が渇いて冷たい水を渇望する。たった1本の煙草とたった一口の氷水で全てが楽になれるという錯覚を感じてしまうほどに興奮しているのだ。
 冷静になれと言う自分と、もっと攻めろと騒ぎ立てる自分が同居する脳内。
 前者の穏健派がやや劣勢だった。
――――5人!
 走りながら残存戦力を数え直す。
 弾倉を引き抜き、先日の尾行者から奪ったバラ弾の9mmショートを補弾する。
 ブリスターパックを開けて中身を必要なだけ取り出している暇が無い時はポケットに落とし込んだバラ弾が便利だ。
 予備弾倉も無料ではない。
 SIG P230は割りとメジャーな護身用拳銃だが、国内では民間人とは縁が無く、司法関係者でも然るべき部署以外ではまともに触られる者も居ない。
 32口径モデルなら警官が触られる可能性があるが、38口径ーー9mm口径ーーともなると皆無だろう。
 連中の発砲音を聞き分ける。
 45口径が1挺と9mmが4挺。流石に9mmショートと9mmマカロフを聞き分けられる聴覚は持っていなかった。
 先日の尾行者は別物と考えた方が良いのかもしれない。
 今回の尾行者は連携がバラバラなれど、最後の一兵まで雪子を追い掛け回す事を任務としているらしい。
 任務の勝利条件が雪子の殺害なのか、生け捕りなのかは判然としない。
 連中の拳銃の命中精度の低さから、狙う気が有るのか無いのか判断に困るからだ。
 それを鑑みるに練度が低くて士気だけが高い若手の三下なのだろう。 今回の任務を足掛かりにして組織内部での地位を上げようと目論んでいるのだと思うと少し哀れになる。
 上司との口約束だけで抗争に巻き込まれる使い捨ての『鉄砲玉』と変わらない扱いだ。……それで雪子の同情は引けない。
 何の謎にも近づけていないのに、犬のように撃ち殺される可能性があるだけで連中の狙い通りには陥りたくなかった。
 雪子の現在の大きな武器であり防具は9mmショートで簡単に貫通してしまうブリキや木製の倉庫の壁だった。
 立ったまま自分の姿を丸々潜ませる事ができる壁は大きな遮蔽物だった。
 防弾効果は期待出来ないが、障子紙のように易々と貫通する壁は連中には大きなストレスを与えられる。
 自分達のすぐ傍に尾行対象が潜んでいるのに、気配を察する事もできずに一方的に発砲される恐怖を先ほど充分に印象付けた。
 その証拠にトリガーハッピーに陥ったように動く物や音がする方向に乱射を続ける。雪子が挑発すれば早い弾切れも期待出来る。
 彼女の本業は探偵だ。
 鉄火場は好きでは無いし、本業とは大きく異なる。……何より、海の向こうでは1発20円もしない9mmショート弾が国内では足元を見られて3倍近くの値段で流通している。
 出費は少ない方が良い。
 それを考慮すれば矢張り、連中は3つの勢力から銃と弾薬を与えられて雪子を狙っていると考えた方が良い。嫌がらせで脅していると考えるのは楽観が過ぎる。
「…………!」
 角を曲がりながら背後の角の向こうをコンパクトで確認する。雪子の顔色がサッと青くなる。
 最後尾を追うはずの2人が背中を小さく丸めて手首の掌側に鼻を押し当てている。
――――こんな時にあんなモノを!
 覚醒剤だ。違法な粉末を鼻腔から吸い込んでいる。
 覚醒剤の種類にもよるだろうが、この状況で使用するのなら恐怖に負けそうな気分を鼓舞するのが主な目的だが、覚醒剤が程好く体内に浸透している人間は判断力と痛覚が鈍くなる。……停止力が弱い9mmショートでは自分が被弾したことにさえ気が付かずに突進してくる。
 死ぬ事を忘れた人間に銃弾を叩き込み続けるのはゾンビ映画のような恐怖だ。
 以前も同じ麻薬中毒患者を仕留めた事が有るが、頭部に9mmショートのフルメタルジャケットを叩き込むのに苦労したのを思い出した。
 健常者だと思い込みてっきり胸部にダブルタップで沈黙するかと思ったのに脱力や衝撃を感じていない顔で、完全に自我を失った顔で銃を乱射してくるのだ。
 その時は彼我の距離2mでカタが付いた。
 麻薬に冒された標的が弾切れを起こした拳銃を携えたまま突進してくるのに対して、少しばかりパニックに陥っていた雪子は残弾1発でその人物の頭部を撃ち抜いた。
 盲管になった額の孔から脳漿をドロリと噴出しながらも2歩、歩いて地面に突っ伏し、それでも尚、脊髄反射でカエルのように動いている様は軽いトラウマを植えつけられた。
 従って、違法薬物を常習する人間に対して好い印象は持っていない。 暗い世界の人間にも派閥は有るのだ。
 暗い世界の人間全てが薬物に手を染めていれば、その世界は完成された世界として循環しない。
 先頭を走る、携帯電話のライトをかざした男と思しきシルエットに向かって発砲。恐らく命中したのだろう。
 携帯電話が地面に落ちて、皮袋のように重たい何かが地面に落ちる音が聞こえた。
 後続する2人も携帯電話のライトをかざしながら乱射する。直ぐに弾切れになり、携帯電話を口に横銜えにして弾倉交換する。
 倉庫の裏路は細く長い。
 遮蔽は角に逃げ込まない限り皆無。
 自分達が追撃する対象に反撃されまいと必死で弾倉交換するのだが、携帯電話が発する光源は別の方向を向いているので再装填に手間が掛かっている。雪子は勿論、それを見逃さない。
 発砲。2発。
 ダブルタップではない。
 光源を目がけた楽な射的。
 その距離は8mあまりだが、左右に逃げ場の無い小路では殆ど直線上の標的で、シューティングレンジでの射撃と変わらない。
 二つの光源が地面に落ちる。
 続いて二人分の重々しい呻き声。
 腹部か胸部か、バイタルゾーンに命中すると、ひ弱な9mmショートでも充分に無力化出来る。
 雪子の視界には、その2人は障害物でしかない。
 その奥に控える、麻薬を吸い込んだ2人が遂げるべき本懐と言えた。正常な判断力が無いのだからそのまま巻いてしまうのも手段では有るが、正常でないからこそ後々の尋問を妨害される恐れがあった。
 麻薬が脳味噌を程好く麻痺させている間は、連中の拠点と連絡を取るという気の利いた事もしないだろう。
 覚醒剤の作用からか、既に乱射が始まっている。アッパーだろうがハイだろうが、頭を撃ち抜かないと面倒臭い事に変わりは無い。
 狙撃に向かないSIG P230。
 雪子は地面に伏せて無理なプローンの体勢を維持してバラ弾を補弾する。
 じっくり狙う。1人目。発砲。空薬莢がピーンと弾き出される。立った目線と違う位置からの発砲に違和感。地面の黴臭さが鼻を衝く。
 標的の頭部に命中ならず。右耳を掠った程度だ。慌てずに再び狙う。 先ほど撃ち倒した標的につまずいてそのシルエットはつんのめって倒れる。
 その瞬間に雪子は思わず引き金を引き絞ってしまった。
 つんのめった男と思しき影には命中せずに、その向こうに居た、もう1人の覚醒剤を吸い込んだ男の喉仏に命中し、鶏を絞め殺したような声を挙げ、首を不自然な方向に折って仰向けに倒れた。
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