躊躇う脅迫者
「……」
進藤香織と名乗る先ほどの女性。
歳は二十代半ばだろうか。背丈は雪子より一回り以上小さく、庇護欲や母性を感じてしまう可愛らしさは、雪子が真似できないメイクの技術だけのものではないと思う。
香織は手にしていたハンドバッグから名刺ケースを取り出し、名刺を差し出す。
名刺を受け取ると、直ぐに形式ばった謝罪の言葉を口にする雪子。
「申し訳ありません。只今、名刺を切らしておりまして。今現在、印刷を注文している最中です」
と。香織は委細承知……以上に詳しく知っているようだった。
「存じております。『村瀬様は名刺は作らない方針を取られているそうで』」
――――!
香織の何気ない言葉に背中を氷で撫でられる感触を覚える。
――――いかん! 呑みこまれるな!
「では、単刀直入に依頼の件、承りましょう」
雪子も背筋を伸ばし、香織の瞳を覗き返す。
名刺に書かれた文字列を読み取る。
解析。分析。検索。
進藤香織という名前と彼女の属する社名の【ナノハイテック】と広報担当の文字から頭をフル回転。
彼女が次に口走る前に全ての作業を終了させまければ……勿論、無常にも彼女は即座に口を開く。
「名刺交換は一応の社交辞令という事で。単刀直入に依頼しましょう」
一息入れる香織。
少し頬が上気したかのように見えたが、窓からの日差しで体温が上昇したか? 雪子が見詰め返したままの黒い大きな瞳は僅かな潤みを見せる。
「人探しをお願いします」
――――鉄板の依頼案件だな。
ここまで引っ張っておきながら、ただの人探しとは笑えてくる。
笑える話なのだが、素直に笑えない。
暗黒社会の人間を雇ってまで探して欲しい人間ともなると生存している可能性が低いので、良い報告を届けられそうにない。
それともう一つ。
この進藤香織という人物は『どこの何者だ?』。
たったそれだけの依頼を述べるだけで、複数の人員を配置して念入りにツークッションも挟んで直接交渉に辿り着かせた。
そんな香織の方が謎だらけだった。
何よりも『他人に自分の実情を予め知られている』という事実は不気味だった。
「探して欲しい人は……」
手元のハンドバッグから数枚の写真と折り畳んだ数枚のA4用紙を取り出す。
「探して欲しい人はその紙に書かれた人達です」
雪子が見積もりの話や探偵業としてのコンプライアンスを述べる間も無く、香織がことごとく雪子の会話の出鼻を挫く。
雪子は下手に目の前に出した資料には手を触れない。
一応、個人情報を守秘する義務を守っているのだ。
それに下手に脳内に焼き付けてこの依頼が破談した場合、余計な事を知ってしまったばかりに『消される』可能性もある。
暗黒社会の人間専門の探偵を雇うのだ。どこかの大層な御仁の癪や逆鱗に触れてしまう案件かもしれない。
雪子は香織のやや早口で捲くし立てる依頼内容を聞かぬ振りをして、ジタンカポラルを1本銜える。
【サラトガ】のブックマッチを擦って少しばかり弱く、丸く温かみのある火種でジタンカポラルの先端を炙りながら吸い込む。……その最中に香織の依頼内容の説明は一方的に終わった。
耳に要点となるワードは入っているが、何も聞いていない素振りで紫煙を細く長く吐く。
「……で、進藤さん。申し訳有りませんが……『私に依頼するとなると貴女も普通の業界の人間ではない』と解釈してよろしいのですね?」
雪子が目を細めたのは、猜疑の心か紫煙が目に沁みたのか。
三拍ほどの沈黙。
雪子は進藤香織という人物に大きな鎌を掛けたのだ。
「……それはお答えしかねます……」
早々に煙に巻く香織。
「私の名刺は本物です。ですが、表向きを偽装する為に自分の会社を利用させてもらいました」
――――矢張り……ね。
【ナノハイテック】。確かに実在する社名だ。
一部上場にほど近い位置に有る大企業。
後ろ暗い人間が自分の素性を徹底的に隠すのなら、もっとマイナーな業界のマイナーな社名を挙げるだろう。【ナノハイテック】のように業界新聞を読んでいれば必ず眼に止まる大企業の名前は使わない。
彼女の依頼と彼女が勤務しているであろう【ナノハイテック】は別物だと解った。
自分の素性を晒してでも解決したい依頼が有る。
雪子はまたも鎌を掛ける。
「しかし……ですね。貴女の部下も優秀だ。私のような末端のチンピラを始終尾行させても何もボロを出さなかった。『護身の為に尾行専門の情報屋を雇っていて正解だったと思っています。場合によっては痛い思いをしてもらわなくてはならないのですから』」
香織の視線が下に落ち、続けてこうべを垂れる。
「申し訳有りません。どうしても村瀬さんの素性と経歴を知りたくて……依頼をお願いするからには信用と技術の有る探偵を雇いたかったので。それに私は、自分の限られた協力者だけではどうしても『深い世界』に明るくなる事ができなかったので」
申し訳無さそうに心情を吐露する香織。
嘘は吐いていない、と思いたい。
それに彼女に付き従う協力者の存在が判明した。
協力者というからには、金で雇われたゴロツキとは少し違うようだ。身内かシンパか。
1本目のジタンカポラルが直ぐに灰になり2本目を早速銜える。
横銜えにしたまま火は点けない。
――――素直過ぎて危なっかしいなぁ、もう!
幼稚な、解り易い鎌掛けに悉く引っ掛かって、内情を暴露する目の前の可愛い女性を表情を変えずに愛でてしまう。
もしかしたら協力者かシンパか解らない存在は、彼女をサポートして支えるだけの存在なのかもしれない。
だとすれば協力者某は彼女と同じく明るい世界の人間で、暗黒社会のごく表層に浮かび上がりやすい探偵の雪子しか見つけられなかったとしても不思議ではない。
探偵業を営む雪子の顔が割れれば、そこから公開している各種情報を拾い集めるのは明るい世界の人間でも辛うじて可能だ。
「要点は先ほど聞きました。喜んで調査さて頂きます。では報酬の話に入る前に履行についての各種説明を……」
雪子には断る理由が無い。
金欠という大きな名分も有ったが、客を選り好みしていてはこの業界全ての同業者に悪い印象を与えてしまう。何事も信用だ。
依頼人、進藤香織。26歳。
大手企業勤務。報酬と契約の面での摩擦は無し。
依頼内容は3人の人物の居所を突き止める事……実はこれが厄介だった。
依頼は普通だが、その内容の詳細がただの人探しに終わる気配が無い。
『生死不問で』兎に角、居場所を突き止めて欲しいとの事だ。『完全に地下に潜っているのなら』居場所どころか生死確認すら困難だ。だからこそ表の世界の探偵を雇わなかったのだろう。……少しでも対象に『近い位置に居る』雪子を雇ったに違いない。
木戸棗(きど なつめ)。40歳。
田市要次(たいち ようじ)。42歳。
佐渡一(さど はじめ)。39歳。
この3人。
香織が提出した資料は半分程度の精度だと思った方がいいだろう。
これだけ詳しい資料を集めているのなら表の世界の、明るい世界の探偵なら直ぐに見当が付けられるのに、それでもヒットしなかったのでアングラな世界に潜んだのだろうと勘繰ったのか?
海外逃亡の形跡も洗う必要が有る。
経費に関しての交渉は済んでいるので問題は無い。
これらの人物が彼女の人生にどのように関わっているのかは知った事ではない。
進藤香織と名乗る先ほどの女性。
歳は二十代半ばだろうか。背丈は雪子より一回り以上小さく、庇護欲や母性を感じてしまう可愛らしさは、雪子が真似できないメイクの技術だけのものではないと思う。
香織は手にしていたハンドバッグから名刺ケースを取り出し、名刺を差し出す。
名刺を受け取ると、直ぐに形式ばった謝罪の言葉を口にする雪子。
「申し訳ありません。只今、名刺を切らしておりまして。今現在、印刷を注文している最中です」
と。香織は委細承知……以上に詳しく知っているようだった。
「存じております。『村瀬様は名刺は作らない方針を取られているそうで』」
――――!
香織の何気ない言葉に背中を氷で撫でられる感触を覚える。
――――いかん! 呑みこまれるな!
「では、単刀直入に依頼の件、承りましょう」
雪子も背筋を伸ばし、香織の瞳を覗き返す。
名刺に書かれた文字列を読み取る。
解析。分析。検索。
進藤香織という名前と彼女の属する社名の【ナノハイテック】と広報担当の文字から頭をフル回転。
彼女が次に口走る前に全ての作業を終了させまければ……勿論、無常にも彼女は即座に口を開く。
「名刺交換は一応の社交辞令という事で。単刀直入に依頼しましょう」
一息入れる香織。
少し頬が上気したかのように見えたが、窓からの日差しで体温が上昇したか? 雪子が見詰め返したままの黒い大きな瞳は僅かな潤みを見せる。
「人探しをお願いします」
――――鉄板の依頼案件だな。
ここまで引っ張っておきながら、ただの人探しとは笑えてくる。
笑える話なのだが、素直に笑えない。
暗黒社会の人間を雇ってまで探して欲しい人間ともなると生存している可能性が低いので、良い報告を届けられそうにない。
それともう一つ。
この進藤香織という人物は『どこの何者だ?』。
たったそれだけの依頼を述べるだけで、複数の人員を配置して念入りにツークッションも挟んで直接交渉に辿り着かせた。
そんな香織の方が謎だらけだった。
何よりも『他人に自分の実情を予め知られている』という事実は不気味だった。
「探して欲しい人は……」
手元のハンドバッグから数枚の写真と折り畳んだ数枚のA4用紙を取り出す。
「探して欲しい人はその紙に書かれた人達です」
雪子が見積もりの話や探偵業としてのコンプライアンスを述べる間も無く、香織がことごとく雪子の会話の出鼻を挫く。
雪子は下手に目の前に出した資料には手を触れない。
一応、個人情報を守秘する義務を守っているのだ。
それに下手に脳内に焼き付けてこの依頼が破談した場合、余計な事を知ってしまったばかりに『消される』可能性もある。
暗黒社会の人間専門の探偵を雇うのだ。どこかの大層な御仁の癪や逆鱗に触れてしまう案件かもしれない。
雪子は香織のやや早口で捲くし立てる依頼内容を聞かぬ振りをして、ジタンカポラルを1本銜える。
【サラトガ】のブックマッチを擦って少しばかり弱く、丸く温かみのある火種でジタンカポラルの先端を炙りながら吸い込む。……その最中に香織の依頼内容の説明は一方的に終わった。
耳に要点となるワードは入っているが、何も聞いていない素振りで紫煙を細く長く吐く。
「……で、進藤さん。申し訳有りませんが……『私に依頼するとなると貴女も普通の業界の人間ではない』と解釈してよろしいのですね?」
雪子が目を細めたのは、猜疑の心か紫煙が目に沁みたのか。
三拍ほどの沈黙。
雪子は進藤香織という人物に大きな鎌を掛けたのだ。
「……それはお答えしかねます……」
早々に煙に巻く香織。
「私の名刺は本物です。ですが、表向きを偽装する為に自分の会社を利用させてもらいました」
――――矢張り……ね。
【ナノハイテック】。確かに実在する社名だ。
一部上場にほど近い位置に有る大企業。
後ろ暗い人間が自分の素性を徹底的に隠すのなら、もっとマイナーな業界のマイナーな社名を挙げるだろう。【ナノハイテック】のように業界新聞を読んでいれば必ず眼に止まる大企業の名前は使わない。
彼女の依頼と彼女が勤務しているであろう【ナノハイテック】は別物だと解った。
自分の素性を晒してでも解決したい依頼が有る。
雪子はまたも鎌を掛ける。
「しかし……ですね。貴女の部下も優秀だ。私のような末端のチンピラを始終尾行させても何もボロを出さなかった。『護身の為に尾行専門の情報屋を雇っていて正解だったと思っています。場合によっては痛い思いをしてもらわなくてはならないのですから』」
香織の視線が下に落ち、続けてこうべを垂れる。
「申し訳有りません。どうしても村瀬さんの素性と経歴を知りたくて……依頼をお願いするからには信用と技術の有る探偵を雇いたかったので。それに私は、自分の限られた協力者だけではどうしても『深い世界』に明るくなる事ができなかったので」
申し訳無さそうに心情を吐露する香織。
嘘は吐いていない、と思いたい。
それに彼女に付き従う協力者の存在が判明した。
協力者というからには、金で雇われたゴロツキとは少し違うようだ。身内かシンパか。
1本目のジタンカポラルが直ぐに灰になり2本目を早速銜える。
横銜えにしたまま火は点けない。
――――素直過ぎて危なっかしいなぁ、もう!
幼稚な、解り易い鎌掛けに悉く引っ掛かって、内情を暴露する目の前の可愛い女性を表情を変えずに愛でてしまう。
もしかしたら協力者かシンパか解らない存在は、彼女をサポートして支えるだけの存在なのかもしれない。
だとすれば協力者某は彼女と同じく明るい世界の人間で、暗黒社会のごく表層に浮かび上がりやすい探偵の雪子しか見つけられなかったとしても不思議ではない。
探偵業を営む雪子の顔が割れれば、そこから公開している各種情報を拾い集めるのは明るい世界の人間でも辛うじて可能だ。
「要点は先ほど聞きました。喜んで調査さて頂きます。では報酬の話に入る前に履行についての各種説明を……」
雪子には断る理由が無い。
金欠という大きな名分も有ったが、客を選り好みしていてはこの業界全ての同業者に悪い印象を与えてしまう。何事も信用だ。
依頼人、進藤香織。26歳。
大手企業勤務。報酬と契約の面での摩擦は無し。
依頼内容は3人の人物の居所を突き止める事……実はこれが厄介だった。
依頼は普通だが、その内容の詳細がただの人探しに終わる気配が無い。
『生死不問で』兎に角、居場所を突き止めて欲しいとの事だ。『完全に地下に潜っているのなら』居場所どころか生死確認すら困難だ。だからこそ表の世界の探偵を雇わなかったのだろう。……少しでも対象に『近い位置に居る』雪子を雇ったに違いない。
木戸棗(きど なつめ)。40歳。
田市要次(たいち ようじ)。42歳。
佐渡一(さど はじめ)。39歳。
この3人。
香織が提出した資料は半分程度の精度だと思った方がいいだろう。
これだけ詳しい資料を集めているのなら表の世界の、明るい世界の探偵なら直ぐに見当が付けられるのに、それでもヒットしなかったのでアングラな世界に潜んだのだろうと勘繰ったのか?
海外逃亡の形跡も洗う必要が有る。
経費に関しての交渉は済んでいるので問題は無い。
これらの人物が彼女の人生にどのように関わっているのかは知った事ではない。