躊躇う脅迫者
一般的に煙草が人体に有害だとされている成分の最有力候補は、煙草の巻紙に含まれる燃焼促進剤なのだ。そして煙草葉にも含まれるケミカル物質。
これらが含まれない無添加を謳う紙巻煙草は燃焼が遅く、銘柄によっては途中で火が消えてしまう。
コストで考えると、貧乏で貧乏性の雪子がジタンカポラルを愛飲するのはコストパフォーマンスの面では最悪と言えた。
普通にナチュラルリーフのシガリロを吸っていた方が長く楽しめるはずなのだが……雪子の性分として、何か一つくらい金に糸目を付けない嗜好品が無ければ自分のメンタルが押し潰される気がしてならないのだ。 1回の喫煙で2本、吸う。
低価格帯のシガリロは400円から500円で10本入り。
現在の価格で20本入り460円のジタンカポラルを2本ずつ消費すれば10本入り460円のシガリロを吸っているのと同じ計算になるのだが、彼女はそこまで深く考えていない。……厳密に考える気が起きないのだ。
嗜好品ぐらい自由気侭にさせてくれ。と彼女は考えている。
残念ながら、酒は好きでも自由にさせてくれないので仕方が無い。
流石の【サラトガ】の店主も酒だけはツケてやる気がしないらしい。それを空気で察してのノンアルコールだ。
いつもは炭酸水だが、少々の金が入ると炭酸水にシロップ、ミント、ライム、クラッシュアイスをロンググラスに入れたノンアルコールのモヒートを作ってもらう程度で辛うじて幸せになれる。
何より、無職と変わらないとは言え、年中無休の――厳密には24時間開店休業――調査業なのだ。
いつ依頼が飛び込んで、直ぐ様ハンドルを握らなければならない事態になるか解らない。
彼女なりのプロの流儀を通しているのだ。
外国産ハードボイルド小説の主人公では無いので、優しくもないしタフでもない。常に万が一に備える……万が一を期待しなければならぬほどに不安定な職業なのだ。
時刻は午前11時。
普通のバーならメンテナンスの時間帯だが、日中は軽食喫茶としても店を開いている【サラトガ】なので彼女が居座っていても不思議ではない。
梅雨を前に控えた気候が今一つ安定しない時期。
そして今一つ残念な風体の男装の麗人がカウンターの隅で炭酸水を舐めている。
その彼女の携帯電話に着信を報せる、プリインストールされた簡素な着信メロディが流れる。
この携帯電話の番号には仕事の依頼と情報屋からのタレコミしか掛かってこないはずだ。
即座に左手をジャケットのポケットに突っ込んでプリペイド式のスマートフォンを取り出す。
通話、開始。
ジタンカポラルは唇の端に横銜えにする。声を潜める。
直感の方が五月蝿い。
依頼人は別の場所での合流をお望みだ、と。
レシーバーの向こうの人物は男性。喋り方や声の雰囲気からして担当窓口で聞くような、抑揚の無い事務的な仕事に就く人物だと解る。
そして直ぐにその人物は直感の通りに、電話で全ての用件を済ませようとするタイプではなく、探偵の雪子と顔を合わせて依頼を伝えたいと言い出した。
電話でその旨を伝える人物は恐らく、ただのメッセンジャーボーイでしかない。
必要以上の情報は何も与えられていないと相場は決まっているので、電話の主の言う通りに合流する場所と時間をメモに書き留めた。
この一連の会話を全て誰かに盗み聞きされていたとしても、何の実害も無いだろう。
誰も何も重要なワードは口にしていない。
経験上、依頼人が雪子との交渉にワンクッションもツークッションも挟んでくる場合は面倒事に発展する可能性が多い。
直ぐに銜えていたジタンカポラルを瀬戸物の丸い小さなブラウンの灰皿で揉み消す。【サラトガ】で会計を済ましてドアを開ける。
……ドアに釘で打ち付けられたカウベルがカランと鳴る。
時計を見ると正午前で、できれば【サラトガ】で何か軽食を腹に詰めてから出発したかったが、電話を掛けてきた人物は急を要するとの事で、市内の一等地にある高層高級ホテルで落ち合いたいとの事だった。 急を要するとは、この業界では枕詞のように使われる言葉で、探偵に金の臭いをちらつかせるのに効果的だから何かと乱用される。
急な用件なら報酬も跳ね上がるので、普通の調査業を生業にしている業界の人間なら飛びつくだろうが、雪子は生憎、明るい世界の人間ではない。
……その枕詞も時候の挨拶程度の認識だ。
繁華街に程近い駐車場に停めてあった愛車のマツダデミオ――黒の中古車。最近は少し足回りの調子が悪い――のシートに体を滑り込ませるとシートベルトを締めてキーを捻った。
合流場所のホテル。
時間も場所もピッタリより10分前に到着。
雪子はホテルのロビーで備え付けの新聞を読んでいた。
灰色のハンチング帽をややあみだ被りにして、ツバの先と新聞の上辺のフチに僅かな隙間を作ってそこから辺りを窺う。
壁に掛かっていた時計を見ると合流予定の3分前だった。
【サラトガ】で少しでもニコチンを摂取していたのは幸いだった。
紙巻煙草は口腔喫煙でも口内の粘膜からゆっくりとニコチンを摂取するので、ニコチン欠乏による苛立ちが今は抑えられている。
このロビーは禁煙で清潔すぎる空気に少しばかり息苦しい。
どこのホテルでも正面玄関から臨めるロビーやフロントに到るまでの広い通路は自社の顔なわけだから、清潔で高級感が溢れて雑踏の喧騒をシャットアウトする造りになっていても不思議ではない。
……自分がこの場に不似合いだと実感しているので、息苦しいと感じるのだ。
ブランド物のスーツに身を包んだ人間が往来する空間でワゴンセールの草臥れたジャケット姿の自分は些か場違いとも言えた。それ以上深く気にしない。場の空気に呑まれるのは良い結果をもたらさない。
再び着信。
ショートメールで1508号室に来て欲しいとの内容だった。
――――……私の面が割れてるな。
ロビーで待機する彼女に部屋の番号を教えるのだ。
どこかで私の顔を知る人間が、監視していてクライアント本人と連絡をしていたのだろう。
時間通りにこのロビーに雪子が現れなかったら、そこで破談していた可能性が有っただけに少し冷たい汗を感じた。
1508号室。ドアの前。
カードキーで施錠するタイプではない。
しかし、ドアをノックすると直ぐに内側の施錠が外されてドアが開く。
内側からドアを開けた人物と目が合う。
思わず、立ち尽くしたまま、おおう、と声が出そうになる。
明るいブラウンのマッシュウルフが印象的な大きな瞳の女性が立っている。
若い女性。
美しく妖艶という言葉が塵芥のように消えていくような錯覚。
素直に、単純に、シンプルに、ストレートに可愛らしくも綺麗と表現した方がしっくり来る、女性だった。
質素なデザインのクリーム色のワンピースを纏った彼女はどうぞ、と雪子を室内にいざなう。
この部屋の中に、自分のボロアパートが何部屋入るだろうと考える自分と、彼女の後姿を見て、美しい尻の、甘くも婀娜っぽいラインに見とれる自分が思考タスクの奪い合いをしている間にスイートルームに連れてこられた。
応接セットの一脚に席を勧められる。
卓上シガレットケースとライターのセットが有るので喫煙は可能なのだろう。
先ほどの女性は……と視線を走らせる。
すると、その彼女は応接セットの対面の席に座り、唐突に名乗った。
「進藤香織(しんどう かおり)と申します」
これらが含まれない無添加を謳う紙巻煙草は燃焼が遅く、銘柄によっては途中で火が消えてしまう。
コストで考えると、貧乏で貧乏性の雪子がジタンカポラルを愛飲するのはコストパフォーマンスの面では最悪と言えた。
普通にナチュラルリーフのシガリロを吸っていた方が長く楽しめるはずなのだが……雪子の性分として、何か一つくらい金に糸目を付けない嗜好品が無ければ自分のメンタルが押し潰される気がしてならないのだ。 1回の喫煙で2本、吸う。
低価格帯のシガリロは400円から500円で10本入り。
現在の価格で20本入り460円のジタンカポラルを2本ずつ消費すれば10本入り460円のシガリロを吸っているのと同じ計算になるのだが、彼女はそこまで深く考えていない。……厳密に考える気が起きないのだ。
嗜好品ぐらい自由気侭にさせてくれ。と彼女は考えている。
残念ながら、酒は好きでも自由にさせてくれないので仕方が無い。
流石の【サラトガ】の店主も酒だけはツケてやる気がしないらしい。それを空気で察してのノンアルコールだ。
いつもは炭酸水だが、少々の金が入ると炭酸水にシロップ、ミント、ライム、クラッシュアイスをロンググラスに入れたノンアルコールのモヒートを作ってもらう程度で辛うじて幸せになれる。
何より、無職と変わらないとは言え、年中無休の――厳密には24時間開店休業――調査業なのだ。
いつ依頼が飛び込んで、直ぐ様ハンドルを握らなければならない事態になるか解らない。
彼女なりのプロの流儀を通しているのだ。
外国産ハードボイルド小説の主人公では無いので、優しくもないしタフでもない。常に万が一に備える……万が一を期待しなければならぬほどに不安定な職業なのだ。
時刻は午前11時。
普通のバーならメンテナンスの時間帯だが、日中は軽食喫茶としても店を開いている【サラトガ】なので彼女が居座っていても不思議ではない。
梅雨を前に控えた気候が今一つ安定しない時期。
そして今一つ残念な風体の男装の麗人がカウンターの隅で炭酸水を舐めている。
その彼女の携帯電話に着信を報せる、プリインストールされた簡素な着信メロディが流れる。
この携帯電話の番号には仕事の依頼と情報屋からのタレコミしか掛かってこないはずだ。
即座に左手をジャケットのポケットに突っ込んでプリペイド式のスマートフォンを取り出す。
通話、開始。
ジタンカポラルは唇の端に横銜えにする。声を潜める。
直感の方が五月蝿い。
依頼人は別の場所での合流をお望みだ、と。
レシーバーの向こうの人物は男性。喋り方や声の雰囲気からして担当窓口で聞くような、抑揚の無い事務的な仕事に就く人物だと解る。
そして直ぐにその人物は直感の通りに、電話で全ての用件を済ませようとするタイプではなく、探偵の雪子と顔を合わせて依頼を伝えたいと言い出した。
電話でその旨を伝える人物は恐らく、ただのメッセンジャーボーイでしかない。
必要以上の情報は何も与えられていないと相場は決まっているので、電話の主の言う通りに合流する場所と時間をメモに書き留めた。
この一連の会話を全て誰かに盗み聞きされていたとしても、何の実害も無いだろう。
誰も何も重要なワードは口にしていない。
経験上、依頼人が雪子との交渉にワンクッションもツークッションも挟んでくる場合は面倒事に発展する可能性が多い。
直ぐに銜えていたジタンカポラルを瀬戸物の丸い小さなブラウンの灰皿で揉み消す。【サラトガ】で会計を済ましてドアを開ける。
……ドアに釘で打ち付けられたカウベルがカランと鳴る。
時計を見ると正午前で、できれば【サラトガ】で何か軽食を腹に詰めてから出発したかったが、電話を掛けてきた人物は急を要するとの事で、市内の一等地にある高層高級ホテルで落ち合いたいとの事だった。 急を要するとは、この業界では枕詞のように使われる言葉で、探偵に金の臭いをちらつかせるのに効果的だから何かと乱用される。
急な用件なら報酬も跳ね上がるので、普通の調査業を生業にしている業界の人間なら飛びつくだろうが、雪子は生憎、明るい世界の人間ではない。
……その枕詞も時候の挨拶程度の認識だ。
繁華街に程近い駐車場に停めてあった愛車のマツダデミオ――黒の中古車。最近は少し足回りの調子が悪い――のシートに体を滑り込ませるとシートベルトを締めてキーを捻った。
合流場所のホテル。
時間も場所もピッタリより10分前に到着。
雪子はホテルのロビーで備え付けの新聞を読んでいた。
灰色のハンチング帽をややあみだ被りにして、ツバの先と新聞の上辺のフチに僅かな隙間を作ってそこから辺りを窺う。
壁に掛かっていた時計を見ると合流予定の3分前だった。
【サラトガ】で少しでもニコチンを摂取していたのは幸いだった。
紙巻煙草は口腔喫煙でも口内の粘膜からゆっくりとニコチンを摂取するので、ニコチン欠乏による苛立ちが今は抑えられている。
このロビーは禁煙で清潔すぎる空気に少しばかり息苦しい。
どこのホテルでも正面玄関から臨めるロビーやフロントに到るまでの広い通路は自社の顔なわけだから、清潔で高級感が溢れて雑踏の喧騒をシャットアウトする造りになっていても不思議ではない。
……自分がこの場に不似合いだと実感しているので、息苦しいと感じるのだ。
ブランド物のスーツに身を包んだ人間が往来する空間でワゴンセールの草臥れたジャケット姿の自分は些か場違いとも言えた。それ以上深く気にしない。場の空気に呑まれるのは良い結果をもたらさない。
再び着信。
ショートメールで1508号室に来て欲しいとの内容だった。
――――……私の面が割れてるな。
ロビーで待機する彼女に部屋の番号を教えるのだ。
どこかで私の顔を知る人間が、監視していてクライアント本人と連絡をしていたのだろう。
時間通りにこのロビーに雪子が現れなかったら、そこで破談していた可能性が有っただけに少し冷たい汗を感じた。
1508号室。ドアの前。
カードキーで施錠するタイプではない。
しかし、ドアをノックすると直ぐに内側の施錠が外されてドアが開く。
内側からドアを開けた人物と目が合う。
思わず、立ち尽くしたまま、おおう、と声が出そうになる。
明るいブラウンのマッシュウルフが印象的な大きな瞳の女性が立っている。
若い女性。
美しく妖艶という言葉が塵芥のように消えていくような錯覚。
素直に、単純に、シンプルに、ストレートに可愛らしくも綺麗と表現した方がしっくり来る、女性だった。
質素なデザインのクリーム色のワンピースを纏った彼女はどうぞ、と雪子を室内にいざなう。
この部屋の中に、自分のボロアパートが何部屋入るだろうと考える自分と、彼女の後姿を見て、美しい尻の、甘くも婀娜っぽいラインに見とれる自分が思考タスクの奪い合いをしている間にスイートルームに連れてこられた。
応接セットの一脚に席を勧められる。
卓上シガレットケースとライターのセットが有るので喫煙は可能なのだろう。
先ほどの女性は……と視線を走らせる。
すると、その彼女は応接セットの対面の席に座り、唐突に名乗った。
「進藤香織(しんどう かおり)と申します」