躊躇う脅迫者

 集客にも内装にも力を入れていないこのバーの名前は【サラトガ】。 初老の店主が好きだったシガリロの名前を付けたらしいが、今ではそのシガリロは廃盤になって久しい。
 誰もそんなマイナーなシガリロの名前を思い出しやしないだろう。
 場末のバーという雰囲気を包み隠ししない度胸のある拵えの店内は、カウンター席が6つにボックスが2つ。
 こじんまりとした造りの店としてはどこにでもある平凡なレイアウトだ。
 【サラトガ】が開店する前に閉店したラウンジバーを居抜きのまま利用したので内装にも凝っていない心情が解る。
 つまり、安く経費を抑えて開店したかったのだ。
 開店した当時はまだ県条例が五月蝿くなかったので、喫煙者も非喫煙者も同じ空間で長居できる様にと、強力なオゾン脱臭装置を天井に埋め込んだが、それ以外に大して金は掛けていない。
 棚に並べるべき、アルコールにも供する軽食にもだ。
 自由に紫煙を吹かしながら見慣れた酒を呑める、シガーバーのように敷居が高くないバーとしてこの繁華街の一角で今日もオープンの札が掛かっている。
 首都圏と比較すると、規模は小さい繁華街。そのとある路地裏への入り口付近で【サラトガ】への入り口はある。
 探偵を始める前から、10年以上前から雪子はここの常連だ。
 偶にしか酒を注文しない変わった客。
 当時、店主は競合店が放った新手の嫌がらせかと勘繰ったが、耳を澄ませばいつでも空腹を訴える彼女の腹の虫に同情して新しい軽食メニュー――新しく仕入れたレトルト食品――を試食してくれと遠回しに恵んでやったら、そのまま半野良の猫のように居座ってしまったのだ。
 同情しておいて困惑したが、とあるトラブルを【サラトガ】が被った時に現場に居合わせた雪子が「まあまあ、なあなあ」と宥めて、穏便に解決した。
 それも一度や二度ではない。
 酔っ払いの喧嘩からヤクザのミカジメ料まで雪子が居合わせると必ず問題を解決した。
 この辺りの飲食店でミカジメ料が一桁少ない金額で済んでいるのは雪子の働きによるところが大きいのは一目瞭然だった。
 それから店主は雪子を変わった客だが、困った客だとは認識しなくなった。
 雪子がどこの誰で何をする何者なのか、それは店主が知るのはもう少し後の話だった。
 その雪子は今日も炭酸水をチビチビと啜る。
 所々寝癖が抑え切れていない黒いベリーショート。
 ハイエナの性分でも山猫の印象に近い双眸。眉目から伸びる鼻筋はコンパクトに、然しくっきりと浮かび上がるライン。
 小さい造りの唇は下唇がやや大きく、朱に近いルージュを引いているので異性の目を引いた。
 細い顎先から喉元、項に到る造形は最近のほっそりとしたモデル体形と同じ流線だが、頸の根から肩、腰、尻、太腿への筋骨の発育振りは鍛えたそれだった。
 背筋を伸ばせば170cm近い身長なのに、いつも猫背気味にカウンターに突っ伏して身を縮こまらせているので小柄に見える。
 恵まれた体躯の威勢を感じさせない。
 何もしていない時は置物と同じ、無駄に美貌を湛えただけの調度品だった。
 草臥れた灰色の麻のジャケットに同色のスラックス。
 近所のカジュアルファッション店のワゴンセールで買った安物をここ数年愛用している。冬も同じジャケットにスラックスだ。
 相違点は生地が夏向けか冬向けかの違いだけで、これが彼女の記号なのだろうと思わせる。
 冬は流石に寒さに堪えるのか、安っぽくて生地が分厚いだけのハーフコートを羽織っている。
 足元は……ジャケットにスラックス。活動的とは少し遠い衣装に反して黒い、女性用の運動靴だった。
 目立たないように意識しているのか、小さく見えるデザインで軽量。通気性も良く、速乾性だった。長距離を走る靴ではなく、短距離でのごく短い距離でのダッシュを想定した運動靴だ。
 足元まで嘗め回すように観察する人間が少ない世界ではどうでもいい情報だが、雪子が住む世界では外見で実力を韜晦するなど日常茶飯事だったので、目聡い人間が彼女を視ると外見以上の能力を安物の衣装の中に潜ませていると見破るだろう。
 雪子は炭酸水が入ったタンブラーの横に置かれたジタンカポラルの青い箱に手を伸ばす。
 JT謹製のエコーと同じ寸法の黒煙草。
 最大の特徴はパッケージで、ショートホープや両切りのピースと同じスライドシェル型の紙箱を採用しているのに、20本入りなので横に平たく長い。
 黒煙草とは日本では馴染みは薄いが、生産国のフランスでは労働者階層が吸う安煙草として有名だ。
 国内では同じフランス製のゴロワーズがマニアに知られている程度だ。黒煙草とは収穫したタバコ葉をわざと発酵させてから乾燥し、煙草として加工するものを差す。
 火を点ける前の黒煙草は堆肥の臭いが立ち昇る、独特の香りだ。……ジタンカポラルに限ったことではない。
 それを1本箱から取り出して、口に銜える。
 【サラトガ】のロゴが印刷されたブックマッチを擦って着火し、木軸のマッチより心細い火種を、風も吹いていないのに掌で覆いながらジタンカポラルの先端を炙る。
 炙りながら、口中一杯に先ずは一服。
 基本的に雪子は口腔喫煙だ。
 紙巻煙草でも葉巻やパイプと同じく口腔で味わう事ができる。ニコチンの恩恵に授かる事ができる。
 そもそも肺には味覚は無い。肺まで煙を吸い込んで煙草が美味いと感じるのはニコチンが時速217kmで全身の血管を駆け巡り、たったの50秒で身体の隅々までニコチンを供給する事による典型的なニコチン中毒だ。
 紙巻煙草をのべつ幕無しに灰にする人間は煙草に吸わされている印象を受けるのは、ただのニコチン補給だからだ。
 ジタンカポラルの香りが口中に広がる。
 火を点ける前の堆肥の臭いを裏切ってフィルターを通して口の中に吸い込む煙は葉巻に似たテイストで残り味も癖がある。
 非常に個性的な煙草で燃焼促進剤が混入されたヴァージニア葉が好きな日本人には中々受け入れられない香りだ。
 喉の入り口に引っ掛かる重さを感じる紫煙をゆっくりと吐く。鼻からは煙を抜かない。嗅覚が狂うと湿気た味覚が更に湿気る。
 ジタンカポラルは愛好家にとっては非常に優れた芳香を提供するが、欠点も多い。
 先ず、マイナー過ぎて扱っている煙草屋が少ない。
 それと非常に短い上に、タバコ葉よりも巻紙に燃焼促進剤が混入されているのでクールスモーキングを心掛けても6服も吸わないうちに火種がフィルターに到達する。
 黒煙草の葉には明々と火種が熾きているのに、巻紙だけが早々に燃え尽きてしまう。
 ……ジタンを『時短』と皮肉る喫煙家も居るほどだ。
 今し方の雪子のように、口中に大きく一服すると既に3分の1の巻紙が灰になり、序盤からクールスモーキングを失敗してしまう。
 雪子の喫煙ペースでは通常、2本立て続けに吸う。
 最初の1本は兎に角、ジタンカポラルの味を求めて。次の1本でクールスモーキングを心掛けながら……宛ら、熱い茶を啜るような細心の吸い方で、口中に留まる馥郁たる香りを愉しむ。
 残念ながら、燃焼促進剤が混入された巻紙なので放っておいても、吸っても吸わなくても勝手にフィルターまで灰燼に帰す。
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