躊躇う脅迫者
そのポーズは香織を安心させる為と、室内に侵入して雪子の姿を捉えている殺し屋達に見せるポーズでもあった。
携帯電話に出る。
非通知着信がディスプレイに表示されている。
「……もしもし」
「……探偵。今回は貴様の口車に乗ってやる……貸しを一つ作ってやった事をありがたく思え」
聞いた事の無い声だった。
年齢は50代前半。男性。声に膨らみがありドスが利いているので、貫禄の有る体格をした人物像を連想する。その人物はあくまで優勢なのは自分達だと言わんばかりに、圧し掛かるようなニュアンスを含めていた。
背後から冷気が退くように殺気が退散していくのを感じる。
電話の向こうの主はそれだけ言うと一方的に通話を切る。
その時にはどこにも、誰にも脅威が潜んでおらず、襲い掛かる事は無い実感を得た。
同時に雪子は携帯電話を絨毯の上に落とし、珠のような汗を吹き出させてソファにもたれて脱力した。
全身の力を吸い取られたかのような疲労感に襲われる。
「あの……」
香織が漸くそれだけを口にしたが、雪子は気を失いそうな弱りきった声でこう言った。
「…………もう……大丈夫だから」
香織はまさか自分たちに命の危険が迫っていたとは予想もしていなかったので、きょとんとした顔で今にも疲労困憊で眠りに落ちそうな雪子を見ていた。
火を点けずに口に銜えていたジタンカポラルが乾いた唇に張り付いてしまっている。
結局、雪子はこの部屋のベッドで3時間ほど寝てしまい、起きてからも夜食にサンドウィッチを2人前腹に詰め込んでシャワーを浴びた。
一息ついてから香織に全てを説明した。3時間前に気を失うように眠りに落ちた雪子をじっと見守っていた。心細かっただろう。……何も状況を知らされていないのだ。
緊迫した状況に晒されていた事実を知るや、恐慌に陥りそうな香織を宥めるのに少し手を焼いた。
結局、一ヶ月近く追い掛け回した依頼は報酬無しだった。
命が拾えた事と、履行に必要な必要経費は全て『結果的にあちら持ち』だったので大した出費は無い。
寧ろ、あのような危険な状況で金銭的に打算するのが間違いだ。
香織とは仕事上の依頼主と探偵という関係以外の何物でも無かったので、二ヶ月経った現在も顔を合わせていない。
雪子は今は別の依頼を請けて人込みに紛れている。
雪子が毎回学習しては忘却する事柄。……それは、危険を背負わない美女は居ないということだ。
雪子は今日も頭を捻る。いつものバー【サラトガ】の隅っこで。
いつもの難儀な仕事だ。
何が難儀かと言えば、気前良く必要経費を払ってくれる依頼人では無かった事だ。
ライムのスライスを1枚落としただけの炭酸水を啜りながら何本ものジタンカポラルを灰にして頭を掻き毟っている。
命の危険が無い事も無いが、二ヶ月前の加賀誠に関する案件よりはマシだった。
その時の厄介ぶりを思い返して仕事に勤しむ。
決して加賀誠に関する案件の方が辛かったと言うわけではない。
そうでも思い込まねばこの稼業は続けていられない。
特に雪子のように頭脳派ではない探偵にとっては。
進藤香織という可愛らしい依頼人の顔が脳裏を過ぎるが、彼女から連想される危険な体験は思い返さない事にしていた。
それに彼女には、「これから道端で出会っても他人の振りをしなさい。貴女は繋がってはいけない世界の人間と繋がりました。私とどこで出会っても他人の振りをしなさい」と言って、冷たく突き放した手前、幾ら彼女が可哀想な身の上であっても接触してはいけない。
そんな雪子の携帯電話が無機質な着信メロディを奏でて応答に出る。
「お久し振りです。進藤です。『今回もお世話になりたいと思いまして』……」
椅子から転げ落ちそうな雪子は何とも言えない頭痛を感じながらこう言った。
「申し訳有りません。今はちょいと取り込み中で。別の探偵を紹介しますので折り返しの……」
その言葉を制して電話の主の香織は言う。
「いえ。村瀬さんにお願いしたい依頼です。いつまでも待たせていただきます。是非とも村瀬さんのお力が必要で……」
困った顔。嬉しい顔。泣きそうな顔。怒る顔。
様々な表情が入り混じった顔で、コメカミを押さえながら雪子は溜息と共にこう言うしかなかった。
「……はい。承知しました。今の案件が片付き次第折り返しの電話をしたいと思います」
あれほど難儀していた、目の前の案件を数日で解決し、なぜかやや逸る心で次の依頼人である進藤香織が待つ、待ち合わせ場所に向かったのは後日の話。
美女は危険と難題しか運び込まないという教訓をまたも重ねるのは更に後日の話だった。
《躊躇う脅迫者・了》
携帯電話に出る。
非通知着信がディスプレイに表示されている。
「……もしもし」
「……探偵。今回は貴様の口車に乗ってやる……貸しを一つ作ってやった事をありがたく思え」
聞いた事の無い声だった。
年齢は50代前半。男性。声に膨らみがありドスが利いているので、貫禄の有る体格をした人物像を連想する。その人物はあくまで優勢なのは自分達だと言わんばかりに、圧し掛かるようなニュアンスを含めていた。
背後から冷気が退くように殺気が退散していくのを感じる。
電話の向こうの主はそれだけ言うと一方的に通話を切る。
その時にはどこにも、誰にも脅威が潜んでおらず、襲い掛かる事は無い実感を得た。
同時に雪子は携帯電話を絨毯の上に落とし、珠のような汗を吹き出させてソファにもたれて脱力した。
全身の力を吸い取られたかのような疲労感に襲われる。
「あの……」
香織が漸くそれだけを口にしたが、雪子は気を失いそうな弱りきった声でこう言った。
「…………もう……大丈夫だから」
香織はまさか自分たちに命の危険が迫っていたとは予想もしていなかったので、きょとんとした顔で今にも疲労困憊で眠りに落ちそうな雪子を見ていた。
火を点けずに口に銜えていたジタンカポラルが乾いた唇に張り付いてしまっている。
結局、雪子はこの部屋のベッドで3時間ほど寝てしまい、起きてからも夜食にサンドウィッチを2人前腹に詰め込んでシャワーを浴びた。
一息ついてから香織に全てを説明した。3時間前に気を失うように眠りに落ちた雪子をじっと見守っていた。心細かっただろう。……何も状況を知らされていないのだ。
緊迫した状況に晒されていた事実を知るや、恐慌に陥りそうな香織を宥めるのに少し手を焼いた。
結局、一ヶ月近く追い掛け回した依頼は報酬無しだった。
命が拾えた事と、履行に必要な必要経費は全て『結果的にあちら持ち』だったので大した出費は無い。
寧ろ、あのような危険な状況で金銭的に打算するのが間違いだ。
香織とは仕事上の依頼主と探偵という関係以外の何物でも無かったので、二ヶ月経った現在も顔を合わせていない。
雪子は今は別の依頼を請けて人込みに紛れている。
雪子が毎回学習しては忘却する事柄。……それは、危険を背負わない美女は居ないということだ。
雪子は今日も頭を捻る。いつものバー【サラトガ】の隅っこで。
いつもの難儀な仕事だ。
何が難儀かと言えば、気前良く必要経費を払ってくれる依頼人では無かった事だ。
ライムのスライスを1枚落としただけの炭酸水を啜りながら何本ものジタンカポラルを灰にして頭を掻き毟っている。
命の危険が無い事も無いが、二ヶ月前の加賀誠に関する案件よりはマシだった。
その時の厄介ぶりを思い返して仕事に勤しむ。
決して加賀誠に関する案件の方が辛かったと言うわけではない。
そうでも思い込まねばこの稼業は続けていられない。
特に雪子のように頭脳派ではない探偵にとっては。
進藤香織という可愛らしい依頼人の顔が脳裏を過ぎるが、彼女から連想される危険な体験は思い返さない事にしていた。
それに彼女には、「これから道端で出会っても他人の振りをしなさい。貴女は繋がってはいけない世界の人間と繋がりました。私とどこで出会っても他人の振りをしなさい」と言って、冷たく突き放した手前、幾ら彼女が可哀想な身の上であっても接触してはいけない。
そんな雪子の携帯電話が無機質な着信メロディを奏でて応答に出る。
「お久し振りです。進藤です。『今回もお世話になりたいと思いまして』……」
椅子から転げ落ちそうな雪子は何とも言えない頭痛を感じながらこう言った。
「申し訳有りません。今はちょいと取り込み中で。別の探偵を紹介しますので折り返しの……」
その言葉を制して電話の主の香織は言う。
「いえ。村瀬さんにお願いしたい依頼です。いつまでも待たせていただきます。是非とも村瀬さんのお力が必要で……」
困った顔。嬉しい顔。泣きそうな顔。怒る顔。
様々な表情が入り混じった顔で、コメカミを押さえながら雪子は溜息と共にこう言うしかなかった。
「……はい。承知しました。今の案件が片付き次第折り返しの電話をしたいと思います」
あれほど難儀していた、目の前の案件を数日で解決し、なぜかやや逸る心で次の依頼人である進藤香織が待つ、待ち合わせ場所に向かったのは後日の話。
美女は危険と難題しか運び込まないという教訓をまたも重ねるのは更に後日の話だった。
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