躊躇う脅迫者

 4cm四方の黒い立方体。盗聴器だ。
 雪子が手にしていたのは盗聴器を発見する為の機材。
 裏の世界御用達のレンタル業者から借りてきた物だ。このレンタルの代金は雪子が自腹を切った。
 これから起きる事は彼女と、香織の命に関わる事だから個人的な別の案件として処理した。
 黒い盗聴器を手にした途端、背中を刷毛で撫でられたような感触を覚える。
 盗聴器発見器を4人掛けのソファに投げ出して、盗聴器に向かって喋り出す。
「あーあー。テステス。聴こえますか? ……できればそこにこの現場を仕切っている責任者が居る事を願うよ」
 肌を刺す殺気が、死肉を発見したハイエナのように群がるイメージ。 雪子と香織が、極上の死肉だ。
 ハイエナ達はこの部屋の、ドア一枚隔てた向こうに集まりつつある。尋常ならざる気配を感じる。
 殺気が銃弾の形を成して、壁やドアを貫通して肌に突き刺さっている気分だ。
「状況は聞いての通りだ。事を荒立てたくないのお互いだろう? 加賀誠の正体は解ったはずだ……いや、加賀誠の正体に確信がもてたはずだと言った方が良いかな?」
 盗聴器に向かって一方的に喋る雪子。
 ドアの向こうから感じる殺気と恐怖に呑み込まれまいと、ジタンカポラルを銜えて一呼吸置く。火はまだ点けない。
「こちらは命が惜しい。そちらは口を封じたい。その気持ちは解る。だけどな、ここでドンパチをやらかすのは無益だ。私は兎も角、カタギの人間を殺して行方不明にするのは拙いだろう? 違うかい?」
 またも一拍。態と台詞の合間を設けている。
 この盗聴器を聴いている連中に、考えさせて決断させる時間を与えているのだ。
「私が得た情報は『これ以上』誰にも喋らない。あんた方と私とここのお嬢さんとの秘密だ。あんた方が誰を探す為に加賀誠を探しているのかは知らん。なんなら、加賀誠が持っているリストの一部をあんた方に全部渡しても良い……済まないが、一部しか手に入らなかったんだ。こちらはお嬢さんがお探しの3人の名前だけが判明したら充分だったのでね」
 一拍、置く。
 呼吸の乱れを悟られまいと、その一拍だけで、出来るだけ呼吸を整える。
 ドアの向こうから人の気配が移動する様子は無い。
「此方からの要求は身の保証。それ以外は何も要求しない。そちらの要求はこれらに抵触しない限り全て呑む。こちらが誰にも何も喋らないという確かな保証や担保を提示できないのが残念だ」
――――!
――――チッ……やべぇ……。
 背後で僅かに……極々、小さな金属音が聞こえた。
 ピッキングされたらしい。
 ドアはいつでも開放して殺し屋達が雪崩れ込む準備が整ったようだ。
「なあ、あんたらもプロなんだろ? お嬢さんはカタギで神輿でしかない。私は神輿に扱き使われた探偵でしかない。あんた方がどこの誰かは知らんが、一つの仕事を完遂する度に依頼人を殺していたんじゃ、信用が落ちるよ? ましてやカタギの人間まで殺そうとしている。カタギに手を出したら流石に警察も黙っていない」
 そこまで喋って間を置く。
 今度はテーブルに戻り1人掛けのソファに深く座る。
 暫しの沈黙。
 盗聴器をテーブルに置き、横銜えにしたままでフィルターが唾液で湿り出したジタンカポラルに【サラトガ】の緑色の外装をしたブックマッチで火を点けて大きく一服する。
 急激に左脇のSIG P230が重く感じる。
「多分……あんた方は何も飲む気は無いだろう。今、ここに持ち込んでいる報告書なんてデータのプリントアウトだ。幾らでもコピーできる……良いか? 良く聞けよ。『幾らでもコピーできる』」
 背後のドアが数cm開いた。 
 雪子からは死角になって確認する事ができないが、突入の機会を窺っているようだ。
 別室か『後方』で控えるクライアントからGOサインが出ればいつでも雪子と香織を殺せますという自信を感じる。
 雪子はわざと『溜めていた。勿体ぶっていた』。
「あんた方は加賀誠に関する情報を得た。私を生かせておけばリストの一部だが手に入る。カタギを殺さなくて済むから痛くない腹を探られる事も無い……」
 紫煙をゆっくり長く吐く。
 美味いはずのジタンカポラルの味が鈍い。
 自分がカミソリの上で綱渡りの真似事をしているのが解る。
 香織は事態が飲み込めても、どの程度の危険度なのか理解していないらしく、おどおどとした視線を雪子に投げ掛けて黙っているだけだった。
「こう言う事は……言いたくないんだけど……」
 雪子は盗聴器に紫煙を吹きつけながらゆっくり噛み締めるように言った。『溜めて勿体ぶって』焦らすのはここまでだと判断した。
 博打に出る。
 背中に冷たい物が走る。
 腋の下で汗が吹き出るのを感じる。
 喉が渇く。
 ジタンカポラルの味が益々鈍くなる。
 動悸がする。
 気を抜けば吐きそうだ。
 独りで、誰も見ていないところでロシアンルーレットをしている気分だ。
 乾いた唇から言うべき事を搾り出す。
「あんたらももう気が付いてるんだろう? 裏の世界の探偵は何を担保に危険な真似事をしているのか。そうだよ。『もうとっくに全ての情報と今回の依頼のカラクリは情報屋に流してある』。私が死ねば自動的に情報は拡散される。痛くない腹を警察にだけではなく、仲良しやいがみ合っている方々にも知れ渡ってしまうよ……脅迫じゃない。対等なテーブルで交渉していると思って譲歩しているんだよ。私が生きている限りあんた方には何の危険も及ばない」
 裏の世界の探偵稼業で持ち得る情報を情報屋に託し、万が一が訪れたらネットの世界に全てを流出させるのは常套手段だ。
 一部の組織の重鎮も同じ手法で自分の身を守っている。方法自体は古典的だが一番確実で、この通話の向こうにいる責任者にとっては一番危険だ。
 殺されるか切り抜けられるかの二者択一を迫って、さらに迫られる切り札だからだ。
 勿論ハッタリだ。
 そのような小細工を仕込んでいる時間は無かった。
 そこまで懇意にしている情報屋も居ない。
 盗聴器の向こうの連中が『この世界の当たり前』にたじろいでくれるのを待つのみだ。
 空気が重い。
 2本のジタンカポラルを灰にした。
 セカセカと吸ってしまったので味は全く分からない。
 雪子は出来るだけ平静を装いたかった。
 香織は気付いていないであろうが、背後に多数の気配を感じる。
 既に室内に何人かの殺し屋が侵入している。
 物音一つ立てない。
 今、感じるこの殺気も雪子にプレッシャーを与える為の先制攻撃だといえた。
 雪子はこの期に及んで反撃の体勢を整える事はしなかった。銃撃戦となれば確実に殺される。生きて帰れる気がしない。
 懐のSIG P230には悪いが、最後に一華咲かせる機会は無いようだ。
 時計の秒針がきっかり3周する。
 事態の推移の細かい部分が理解できていない香織が何か言おうと口を開こうとするが、その度に雪子は人差し指を唇に当てて彼女を制した。
 重苦しい空気が、質量を伴って足元から這い上がってくる。
 身にまとう全ての物が重い。
 ポーカーフェイスを気取っている心算の雪子だが、心臓は破裂しそうに五月蝿い。
 更にジタンカポラルを銜えて僅かに震える指先で【サラトガ】のブックマッチを擦ろうとした。
 携帯電話の着信メロディが鳴る。
 この期に及んで、この場で情報屋から新しいタレコミが有っても何の役にも立たない。
 無視しようかと思ったが、出来るだけ自然な素振りを見せる為に携帯電話に手を伸ばす。
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