躊躇う脅迫者

 暗黒社会に伝を持つ事が出来る彼女は殺し屋を雇う術も知っているだろう。
 だが。然し。それでも。彼女は無力だった。
 何もできない一人の、普通の明るい世界の人間でしかない。
 進藤香織はこれ以上暗い世界に関わるべきではない。
 雪子は事の真相を解明するだけのツールだ。
 その先に待ち受ける苦難を乗り越えるのは香織の仕事だった。
 他人の苦しみを背負うわけにはいかない。
 自分が腕立て伏せをしても、彼女の筋力が上昇するわけがないのと同じ理屈だ。
 これ以上彼女の傍で居るべきではない。それは重々承知した上で、雪子は指に挟んだままのジタンカポラルを口に持っていき、【サラトガ】のブックマッチで火を点ける。
 屋外に放り出したまま、丸一日吸っていないような味の、不味い味だった。
 煙草は百害有って一利無しと良く謳われるが、詭弁がましい一利を述べるのなら、煙草は時間に自然と句読点を打つ事が出来る嗜好品なので、重苦しい間を埋めるのに合致したアイテムといえた。今が正にその通りだ。
 次に……否、最後に香織に伝えなければならない事実がある。
 これは雪子のなけなしの義侠心と親切心からの事柄だが、恐らく、香織にとっては晴天の霹靂に近い衝撃だろう。
 フィルターまで焦げが廻ってきたジタンカポラルを大理石の灰皿に押し付けて揉み消す。
「進藤さん……傷心のところ申し訳ないですが、もう一つ聞いてもらえますか?」
「…………?」
 嗚咽を堪えながら、目元をハンカチで押さえて雪子が顔を上げた。
 雪子も少し気が重い。
「……貴女は利用されている」
「え?」
 彼女は思わず嗚咽が止まった。
 涙を湛えた瞳が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、何が何やら、という感じだ。
「最初からおかしいと思っていたので、失礼ながら調べさせていただきました」
 雪子はできるだけ抑揚の無い発音で語り出した。
 これもまた、素人の香織にも解るように要点を押さえた説明だった。
 香織には協力者が居た。
 最初に香織と接触した折、香織以外の人間が雪子に指示を出した。
 親類や親しい友人の協力の下だと思っていたが、社内でもプライベートでも人付き合いが無く、的確に仕事をこなすだけの機械的な生き方を心掛けているような彼女の付近に、彼女に親身になって協力を申し出る、あるいは彼女の頼みに応えてくれる人間の影は皆無だった。
 最初に疑問を抱くべきはずポイント。
 普通の探偵なら業務以外の事項なので放置するだろう。お節介と猜疑の心が強い、裏の世界の探偵である雪子からすれば喉に引っ掛かった魚の骨のような違和感だった。
 孤軍奮闘で無ければならないはずの、孤立無援の彼女がどうして割高な暗い世界の探偵を1ヶ月近く雇う甲斐性が有った? 
 情報屋を雇うに当たって、毎日かなりの額の必要経費を出費して彼女に請求したが彼女は滞りなく、請求するだけの金額を仕事用の口座に振り込んでくれた。
 少なくとも諸経費の面で雪子が苦労する事は無かった。
 ちょっとした富豪が子飼いの探偵を養えるだけの金額を使った。
 高額な情報屋を幾つも梯子したのに、気前良く彼女の名義で支払われた。
 香織の仕事の依頼に入る前に貰った名刺から、彼女の年収を計算するのは簡単だった。その年収を倍額払っても足りない額面をこの短期間で請求していたのだ。
 幾つかの銃撃戦の尻拭きとして警察に掴ませる賄賂も支払った。……だが、彼女の財布は底無しをみせた。『香織の出納』が不自然だったのだ。
 彼女の背後……否、彼女の泣き所につけこんで、彼女を担ぎ上げる事で利を得る個人、あるいは組織がいるはずなのだ。
 その連中は明らかに裏の世界の住人だ。
 ……連中の目的も雪子には解っている。
 それに気が付いたのは最初。
 そして最後に到るまで、脳味噌の端に追いやり過ぎて思考の対象から外れて処理されない違和感として記憶していた。
 その違和感を解決したのは加賀誠という名前の、非合法外科医が法外な治療費と、死んでも口にできない情報を命の天秤に掛けさせて毟り取る悪魔のような遣り口を知った時だ。
 他にも行方不明者は居る。
 同じ手口で、同じケースで、同じ手法で行方不明となってこの世界のどこかでのうのうと生きている反社会組織の重要人物だった人間は存在する。
 加賀誠に全てを……金も情報も命と引き換えに搾り取られた、生に執着する瀕死の患者達には価値は無い。
 何しろ、持ち逃げした金は無いし、貴重で口外無用の情報は情報屋の間で高く売買されているし、元に収まるべき椅子は既に誰かの物となっているので、生還した患者達には価値は全く無い。
 香織を担ぎ上げる連中は恐らく、同じく加賀誠という存在を探ったが答えに到らなかった。
 そこで都合の良い、裏の世界を何も知らぬ香織に協力者の顔をして自分達の神輿とした。
 香織を担いだ連中は加賀誠に……と言うより、加賀誠に治療されてどこかへと逃げ去った人間に用が有るのだろう。
 報復か復讐か、それは解らない。
 謎のワードである、加賀誠に振り回された被害者でもあるのだが、『この状況では襲撃者となりえる』。
 そこまで話すと香織は事態の深刻さと自分の迂闊さに気が付いたのか、顔が青褪めてきた。
 『知られてはいけない世界の、知られてはいけない仕組みを調査した当事者から聴いてしまったのだ』。
 自分が頼りにしてきた、優しく親切な協力者が自分を都合の良い道具にしていた事実を知って打ちのめされる。
 雪子はその顔色から、香織に聞かせるべき話では無いと解っていたが、『ここで、この場所で、この仕組みの全てを話さなければ生きて帰れない気がしたのだ』。
 今度は容赦なく別口に雇われた殺し屋が自宅に押し入って、雪子の脳天と心臓に熱く焼けた銃弾を叩き込むだろう。
「…………」
 雪子はクリアファイルや封筒類を仕舞っていたブリーフケースから予め大きくマジックインキで文字を記したA4用紙を取り出した。そこには「私の話に合わせて。感情を抑えて。私を見ずに話しをして」と3行だけ書かれてあった。
 香織は何がなんだか解らないまま、首を縦に振って了解した。
「……で、成功報酬の件ですが、こちらとしては少しばかり上乗せを、と思いまして」
 口では既に依頼の報告を終えて、話のまとめに入っていたが、雪子はブリーフケースからトランシーバーに似た機材を取り出して、アンテナを取り付けると、幾つかのボタンとチューナーを操作する。
 その間も、「おや、報酬の話で渋られると困りますね」「こちらも命からがらだったんですよ?」と軽口風に喋り続ける。香織も、「その話でしたら……」「少し待ってもらえますか」などと、当たり障りの無い応答でたどたどしく心掛けている。
 トランシーバー状の機械を左右に振りながらアンテナ部分を天井や床に翳す。
 きょうだいを探す事だけをモチベーションに生きてきた彼女は、テレビのバラエティ番組じみた盗聴盗撮ストーカー犯罪の番組さえも見ていなかったのだろうか。
 始終、不思議そうに雪子を見て、時折、雪子の話に合わせた、差し障りの無い会話を続けるだけだ。
 会話の内容は雪子がエスコートして自然と会話がループするように仕向けられているので、香織にも即興芝居の会話に乗るのが簡単だった。
 やがて、雪子はスイートの端の戸棚に来ると徐に戸棚の調度品をどかして手を奥に差し込む。
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