躊躇う脅迫者

 もう一本取り出すが、口に銜えず、指に挟んだままでじっと彼女を見る。
 何も勿体ぶっているのでは無い。彼女の顔に今でも嘘が潜んでいないか確認しているのだ。
「報告書です。ご確認下さい……」
 形式通りに最終報告を纏めたA4用紙にの束が納まった、膨れ上がったクリアファイルを差し出す。
 暗い世界の住人の間ではこのような行儀の良い報告の仕方など有り得ないが、香織が明るい世界の人間で有る辺りを考慮して、できるだけ猫を被った態度で接する事に決めていたのだ。
 この後に雪子自身がヒートアップして感情に任せて捲くし立てるかもしれないから……。
 香織は報告書の束を受け取り、直ぐに目を通しに入った。
 明らかに吹き出る感情を抑えつけている。
 読み進めば進むほど目元から涙が溢れ出る。
 今直ぐにでも泣き崩れたいのだろう。
 彼女は喜んでいるのでは無い。彼女は悲しんでいるのだ。否、悲しんでいいのかどうか解らない感情に押し潰されようとしている。
 それもそのはず……香織のきょうだいの臓器をかっぱらって移植して生きている人間の生存が確認されて、何と名乗り、何処に住んでいるのかが判明したのだから。
 進藤香織。
 幼い頃に両親を交通事故で亡くし、3人きょうだいで辛い環境で生きてきた。
 身内の間を盥回しにされながらも生きてきた。
 その苦節をここで詳らかにしていては限りが無いほどの辛く悲しく苦しい毎日だったろう。
 何が有っても絶対に幸せになろうと誓ったに違いないきょうだいがある日、突然行方不明。
 彼女なりに協力者と共に明るい世界の探偵を頼りにきょうだいを探すも手掛りは見付からず、暗黒社会に調査対象を絞った。……その時に雇われたのが雪子だったのだ。
 彼女に対する依頼は履行された。
 これ以上、彼女に何かを言うべきではなかった。
 雪子は紫煙と吸殻だけ残して静かに去れば良かったのだ。だが、雪子の探偵以外の性分が許さなかった。
 話を順に説明して危険手当を上乗せしてもらう必要性も有った。それを皮切りに全てを話そうと誓った。
 さもなくば、『ここに新しく遺体が増える事になる』。
「……お話を聞いてもらえますか? 必要経費の諸々に関するお話なのですが……」
 事務的な口調で雪子は語りだした。
 彼女にも解るように要点を押さえて話す。
 雪子はこの依頼を受けた途端に3つの勢力から物理的脅迫行為で妨害された。
 それは遂行する上での大前提が固定観念過ぎたから始まった悲劇だ。
 最初に3人を探して欲しいと依頼された。
 そして3つの異なる勢力からの脅迫。
 当初、3つの勢力を敵に廻したと思っていた。実際は違う。それぞれが別々の案件だったのだ。
 香織が勘違いして……若しかすると勘違いしている事も知らずに3人を探して欲しいと言ったばかりに、雪子も調査対象が横に繋がった関係で、友人知人の関係かと思っていた
 ……実際は違う。
 依頼人の雪子が最初に提示した資料が整い過ぎていたので、調査対象の3人が仲良しグループだと思い込んでいたのが、そもそもの間違いだった。
 3人とも違う案件として処理すべきだった。
 調べれば調べるほどに、3人の名前が近付きつつある。同じ反社会組織の一員である事や雪子が尾行されだした時期も重なるので、3つの組織事態が雪子を『消そうと』しているかと思っていた。
 ……それも違う。
 3人はそれぞれの組織で重要な地位に近い場所に居た。だが、必要以上に秘密や内情を知ってしまい、粛清の対象になった。
 事故を見せかけた暗殺が企てられて実行されて死んだ事になっている。
 実際には加賀誠という『モノ』に頼っていた3人は『加賀誠というモノ』によって手厚い治療を受けて瀕死の重体――重傷ではない――から奇跡的に生還し、無事に今でも他人の名前と顔で国内で生存している。
 それぞれの組織……特に3人が所属していた派閥は、重要な秘密が漏洩して情報として売買されるのを危険視して、自分達が密かに殺したはずの3人を再び探し出して殺そうと目論んだ。
 組織の派閥が3人の生存に確信を持ち始めたのは、裏の世界の探偵である雪子が執拗に調査しているのに感づいたからだ。
 雪子の足跡を辿れば益々、殺したはずの人間が生きている可能性が高くなるので、日に日に3つの派閥は心が穏やかでなくなった。
 結果、連日連夜、尾行者がぞろぞろと雪子を追跡する羽目となった。その頃には雪子の違和感も大きくなっていたのだ。
 連携の取れていない、素人臭い尾行。
 組織の上層部に知られたくないのなら、外部に助けを求められない事情も解る。ならば自分達の子飼いの駒で賄うしかなかった。
 そしてことごとく雪子の反撃に合い距離を開けざるをえなくなった。
 一気に雪子を殺さなかったのは、探偵がどこにどんな情報を潜ませているか知れないからだ。
 探偵は必ず情報のバックアップを残す。大概の場合は自分の身に危険が迫ったり死亡したりした場合は、持っている情報が暴露されるように情報屋を飼い慣らしている場合が多い。
 それを最後の武器としている探偵が多いのだ。
 情報の拡散を引き受ける情報屋も多い。それぞれ御組織は、それを警戒したのだ。……尤も、警戒しすぎて手痛い思いをしたのは間抜けな限りだ。
 そして『加賀誠というモノ』。
 ……これは名前から勘違いを誘うステルス性の高いワードだった。
 加賀誠なる人物は存在しない。加賀誠は人物ではない。
 店の屋号なのだ。
 店の数より人の数の方が多い。
 あたかも人名であるかのような屋号『加賀誠』を用いて、その正体を隠していた。
 実体は、非合法外科の『加賀誠医院』と言ったところか。
 それも高度な治療を施す外科だ。非合法の外科といえば法外な料金を請求する事で有名だが、普通なら医者にとって一銭の価値にもならない、暗い世界の情報を等価として支払う事も可能だった。
 瀕死の状況に追い込まれた3人は『加賀誠というモノ』に転がり込んで一命を取り留めたのだ。
 ……3人が一命を取り留めたのが、それぞれの組織内部での内通や謀反を炙り出しに掛かっていた頃、5年以上前だ。
 そこで炙り出された、それぞれの組織派閥の3人は時期を同じくして同様の凄惨な目に遭い加賀誠に担ぎ込まれる。
 3が特別な患者というわけでもない。その他大勢の患者のうちの3人だ。
 それに気が付いたのは、先輩の探偵の言葉だった。
 『客とリスト』……それらのワードが浮上しておきながら、それらを扱うに相応しい『店』が一向に情報屋の検索に引っ掛からなかった。仕方なしに、加賀誠というワードは一旦、端に置き、木戸棗、田市要次、佐渡一の3人の他に時期を同じくして行方不明になっている人間を片っ端から検索した。
 ……結果、行方不明者全員が命辛々、生き延びている。
 顔と名前を変えて海外へ逃亡した人間も多い。
 腕の良い外科医を揃えた非合法の医者を検索するとあとは簡単だった。
 『加賀誠』は非合法の外科医連中と外科医院を指す、正体を韜晦する記号だったのだと。
 種を明かせば素うどんのように面白みの無い、命の危険だけが付きまとう依頼だった。
 香織は淡々と要点を押さえて、事の真相を説明する雪子の声が耳に届いていたのだろうか? 彼女はただただ、報告書を抱いて嗚咽を漏らしているだけだった。
 香織の長い苦節はこれで少しは救われただろうか? 『彼女の心の支えだったきょうだいが切り刻まれて他人の臓器として生きている』。
 悔しいだろう。苦しいだろう。だが、その3人を殺せない。その3人の体内で自分のきょうだいが生きているのだ。
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