躊躇う脅迫者

 走る。只管走る。
 一応の目的地であるこのコンテナ群の当初に入り込んだ位置に到着しても命の安心と保証は無い。
 それでもそこを目がけるしかない。
 走りながら足を大きく跳ね上げる。
 焦ったのは頭上で追跡しているグループだ。
 彼女の姿が一瞬、彼らの視界から消えた。
 直ぐに牽制と手探りの発砲を叩き込む。
 彼女の姿が消えた原因は、彼らに直ぐに理解できた。
 足元に落ちていたキャンバスシートを爪先で蹴り上げて雪子の姿が視界から遮断されたのだ。慌てて発砲するも、銃弾は虚しく埃っぽいキャンバスシートに孔を開けるだけで命中した手応えを感じない。
「…………やったか?」
「…………どこに……?」
 頭上の2人が初めて焦燥の色を浮かべて囁き合う。
 2人がもっと深い陰を探ろうと顔をコンテナの端から覗き出す。
「!」
 2人の顔を強烈なライトの灯りが舐める。
 その瞬間だった。2発の銃声。
 1発は男の喉仏に吸い込まれて悲鳴を挙げる間も無く、コンテナの天辺から力無くだれるように落下して絶命する。
 もう1人にも命中。
 その男の影の右肩の辺りが釣り針で引っ掛けられたように、後方へ着弾の衝撃で跳ね飛ばされる。体が独楽のように回転しながらコンテナの屋根に倒れる。利き手側と思しき腕はこれで使い物にならない。
 雪子は何も霧のように消えたのではない。
 地面に落ちていたキャンバスシートを爪先で大きく展開させて、その場から消えたように、逃げ出したかのように見せかけただけで、一歩も移動していない。
 キャンバスシートの下で、コンテナに背をピッタリとひっつけて頭上の連中の死角に入り込んだだけだ。
 連中からすれば、突如の目晦ましに託けて雪子が逃げ出したと思ったのだろう。
 そうなれば必ず頭上の2人は今までとは違うアクションを咄嗟にとってしまうはずだ。
 その隙を……2人が油断しながら一箇所に集まり、大きく銃口を振らなくても速射で仕留められるように仕向けた。
 確実に1人が脱落した。もう1人は負傷した。
 右肩に深く被弾したその1人はコンテナから降りるだけで難儀して追跡どころではないだろう。
 いつまでもコンテナの上で伸びていても怪我は治らないし、助けも来ない。
 負傷した箇所を庇いながらコンテナの隙間を今までのように猿じみた機動で移動するのも難しいだろう。一番厄介な頭上の2人は事実上、無力化させた。
 それにしてもこのように狭い空間での発砲は鼓膜に悪い。耳鳴りが常態化して聴覚に異常を来たしそうだ。
 ほんの少しの間だけ呼吸を整える余裕が出る。
 思わずジャケットのポケットに入れたジタンカポラルに手が伸びそうになる。
 事態はまだ彼女に休息を許していない。
 後続するもう一つのグループが近付いている。
 頭上の連中に追跡させていた余裕からか、少し速度は落ちていた。
 いつまでもここでじっとしていられない!
 先ほどの銃声で状況に変化が訪れた事を知ったはずだ。
 雪子を仕留めようとそうでなかろうと、銃声が聞こえれば連携を繋ぐ者としてその場に駆けつけるのは当たり前だ。
 6発の9mmショートを呑み込んでいるSIG P230。
 撃鉄をデコッキングさせて再び走る。
――――? ……なんだ?
――――この臭い……。
 鼻を突く異臭。
 潮風と鉄錆の臭いに混ざる、臭いの正体や出元は気になりつつも今は走る事に専念する。
 十数秒後、雪子は再び挟撃に陥る危機を迎えていた。
 後続するグループが二手に分かれて……即ち1人ずつに分かれて、挟撃を開始するべく緩やかに包囲を狭めていた。
 後方から牽制の銃声が撃ち込まれる。
 ジャケットの裾に孔が開く。またも一張羅に瑕が増える。
 暗がりからの出鱈目とも思える発砲は、正確に狙われるよりも恐怖だった。
 正確に狙われるのなら弾道を阻害する行動を……遮蔽に隠れて応戦すれば一応の対策になる。だが、左右に狭い空間で乱射とも思える発砲を繰り返されると、寿命が縮む恐怖に煽られてパニックを起こしそうだ。
 今し方も左手側のコンテナの壁に着弾し、弾けた弾頭の破片が頬を掠って浅い創傷を作った。
 破片が目に飛び込まなかったのはラッキーだが、40cmずれていれば彼女の後頭部に命中して、彼女の人生はここで強制的に幕を下ろされていた。
 コンテナ群を突破できる30m手前で彼女は足元を取られたように前のめりに転がり、勢いをやや殺して右片膝から立ち上がると再び走り出す。
 ちらと後方を振向けば、このまま無事に雪子が遁走を果たすのを予想し、焦った男が今度こそ正真正銘の乱射をしながら全速力で駆けていた。
 ……だが、彼の手の中の自動拳銃が弾切れを報せるスライドの後退停止を見せると……その直後に彼はケッと鳥を絞め殺したような呼吸を搾り出し、舌を伸ばしながら喉仏に食い込んで絡まった細い針金を解こうと喉に爪を立てていた。
 ビニール紐とは違う高さ……首の高さに張った拾った針金が頸に巻きついてしまったのだ。
 走る勢いが強ければ強いほど深くきつく絡みつく。
 雪子が足元を取られたような前転をしたのは、この針金の罠を掻い潜る為だったのだ。
 恐慌状態に陥っている男に向かって冷静に1発、撃つ。
 鳩尾に吸い込まれるように命中する。
 その男は咄嗟に拳銃の銃口を雪子に向けたが、弾が切れてスライドが後退したままの自動拳銃では対抗のしようが無かった。男は呼吸を整える事も絶叫する事も呻く事もできずにその場に膝から倒れる。
――――さて……。
 最初にビニール紐の罠で脚を引っ掛けられて派手に転倒し、前頭部を強打した男のいた場所に弾倉を交換しながら歩む。
「…………だろうねぇ」
 頭部を強打して悶絶していた男はその場に居なかった。
 遁走を図ったのだろう。
 だとすれば雪子のするべきことと行き先は一つだ。
 きびすを返し、コンテナ群の隙間に再び入り込む。
 先ほど、頭上の追跡者を撃退したコンテナの麓まで来ると、コンテナの歪みや蝶番や金具を足場にして攀じ登る。SIG P230は口に横銜えする。
 この天辺では1人の男が負傷したまま動けないでいるはずだ。
 果たして、負傷した男は大の字になって寝そべっていた。
 どうやら右肩に被弾した衝撃で軽い脳震盪を起しているらしく、LEDライトで瞳孔を素早く照らしても反応が遅かった。
 だが、生きている。
 口を割らせるには丁度いい。
 脳味噌が混濁している状態では危機管理意識も低下しているので必要な情報を都合よく引き出せる可能性が高い。
 SIG P230をショルダーホルスターに仕舞い、ジタンカポラルを銜える。
――――ああ……さっきの……『この臭い』……。
――――アレだ……。
――――無闇に発砲しなくて正解だったな。
 頭上からの襲撃者を撃退している最中に鼻に届いた異臭の正体に気付く。
 コンテナの麓から吹き上げる風が相変わらず、その異臭を撒き散らすが、正体を知ったので、胸のわだかまりが一つ、スッと溶けた。
 ……ジタンカポラルをポイ捨てしない限りは。
 ジタンカポラルを銜えて【サラトガ】のロゴが入ったブックマッチを擦る。
 潮風が強いので心許ないブックマッチの火でジタンカポラルの先端を炙るのに苦労した。
 思わず火の消えたブックマッチを投げ捨てるモーションに入るが、直ぐに気が付き、思いとどまる。何とか小さな火種がジタンの先に灯る。
 海の音以外に何も聞こえなくなった港湾の夜景を見ながらの一服は、また違った情緒を含んで趣が有る。
 脳震盪を起している男を銜え煙草で冷たい目で見下ろし、更に大きく一服。
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