躊躇う脅迫者

 たった1杯のダブルを6時間かけて呑むのだから貧乏性極まれりだ。
 全く酔いが体に影響しないわけではない。
 ダブル1杯ではほろ酔いにも達しない。
 それでも雪子には充分な休息になった。
 考えて食べて呑んで寝るだけの1日。
 休息を知らないスクリーンの中の英雄では無い。休むという事を忘れた人間は必ずヘマをする。ドジを踏む。馬鹿を見る。
 思考力の欠如が招く失態を知っておきながら思考に没頭する悪い癖を改めねばと考えて今日に到る。


 飲酒運転で帰宅した後、泥のように眠る。
 どうせ自宅は尾行者に割れているのだ。何も怖がっていても仕方が無い。
 ……少々、アルコールが雪子の気を大きくしているのかもしれない。
 尾行する車の陰をサイドミラーに見かけたが、構わず帰宅して泥のように眠った。
 自宅アパートのドアに鍵をかけるのも忘れてロフトベットで下着姿で布団にもぐりこむ。
 ビニール袋に突っ込んだSIG P230を枕元に置いただけの安っぽい安心感。
 まともな扱いをされている銃火器ならば種類を問わずにガンオイルが塗られている。
 ガンオイルの成分は独特で、布に染み渡ると洗っても簡単には落ちてくれない。直に布団の上に置こうものなら鼻を衝く臭いに暫くは悩まされるのだ。
 起床してから時計を確認。
 午前10時を5分ばかり経過。4枚切りのトーストを1枚焼いて、インスタントコーヒーを呷る様に飲んで頭の寝ぼけ具合を振り払う。
 よく勘違いされるが、コーヒーの成分にはアルコールを分解する作用は無い。アルコールによる眠気を払うだけだ。
 雪子の場合は充分にアルコールは抜けていたので、ただの目覚まし代わりの1杯だった。
――――?
――――ちょっと待てよ……。
 下着姿で台所でトーストを齧りながら、ふとした疑問が脳裏に浮かぶ。
 連中が……3つの勢力の内部に有るそれぞれの派閥と思われる尾行者や刺客を放つだけの権力が有るのは解ったが、警察関係者に嗅がせる鼻薬が無いのはおかしい。
 尾行者や刺客に命令を下している大元は好き勝手に財力も権力も揮えない、中堅にも満たない幹部がボスだとも考えられる。
 そうでなければ、この部屋にさっさと刺客が押しかけて就寝中の雪子の額に風穴を開けるだろう。
 定期的に郵送している香織への報告書も滞りなく届いているらしい。公の組織に介入するだけの力の無い派閥……組織内部での出世街道からはホンの少し離れた位置に居る派閥だと思われる。
 トーストを咀嚼しながら、頭を掻き、知らぬ間に思考の時間に入る。
 洗濯物を干しながら、昼食を食べながら、午後のコーヒーブレイクが意味を成さないコーヒーブレイクを過ごしながら、思考は延々と続く。 香織に連絡を取って、洗い浚い喋ってもらうのが一番だろうか? しかし、それでは不義を働いているのは雪子の方になる。
 香織が嘘を言っているとは思えない。
 香織が提示した情報通りに3人の調査対象――木戸棗。田市要次。佐渡一――は存在する。
 香織が対象の3人を探すのに難儀している点も確かに嘘は吐いていない。
 香織が知りえなかった加賀誠の存在を除けば、確かに3人は暗い世界の人間で、暗い世界に詳しい探偵を雇ったのは正解だった。
 香織が雪子を雇うのに何の不思議な点は無かったし、嘘を吐く隙間も無かった。
 香織が全ての情報を喋っていないと仮定するのなら、だ。
 香織が喋っていない、或いは隠したい情報でこの依頼は直ぐにでも大きく動く気がする。
 道理を誤っていない香織に問い詰める理由は無い。


 今夜も情報屋界隈を梯子。
 情報屋だから全ての情報を網羅しているというわけではない。
 法曹界に席を置きそこで通用する情報を専門に扱う情報屋も居れば、陸海空の移動手段や交通ルートの抜け穴だけに詳しい情報屋も居る。
 その中で尋ね人の情報を専門に扱う情報屋と調査対象にしている、3つの組織に内通者を飼っている情報屋を当たる。
 今までは大雑把に広く浅く情報を扱う情報屋ばかりだったので少し検索対象を絞ったのだ。
 経費は嵩むが、その辺りは香織に目を瞑ってもらおう。
 これらの情報屋を今まで使わなかった理由は、情報料が高いと言うだけではない。
 特定の勢力に逆探知され易いのだ。
 情報屋がWスパイという意味ではない。
 一つ一箇所の情報屋だけを利用しているうちは安全だ。
 ……だが、検索対象の情報屋を複数当たっていると、それを快く思わない勢力が痛くない腹を探られていると勘違い、或いは『正解に的中』し、早々に雪子を『消しにかかる』。
 リスクがリスクを呼ぶ行為でも有るので普通は、同時に複数のコアな情報屋を利用しない。
 これが表の明るい世界だと安心安全なビジネスとして成り立つ正当な調査方法なのだが、暗い世界では何が誰のどんな逆鱗に触れるか知れたものではない。
 堂々巡りに陥りつつある思考を突破するのに、少しのリスクは割に合うだろうと判断した。
 それと同時に浅く広くを手掛ける料金の安い情報屋にも注文を出す。 進藤香織という人物についての身辺調査だ。
 知恵が廻らないくせに疑い深いの自分の悪い癖だと解っていながら香織に対する知的探究心は止められず、別口で注文したのだ。
 勿論、依頼の必要経費では落ちない仕事だ。自腹を切るしかない。
 情報屋を梯子。脚で稼ぐ探偵は居ないと言ったものの、自分から出歩く情報屋はめっきり少なくなったので、自分から情報屋の塒を訪ねなければならない場合も有る。
 梯子をするともなれば靴が磨り減る思いをする。
 車で移動したとしても、運転の際に、心身に掛かるストレスで知らぬ間にジタンカポラルをチェーンスモークしている事も多い。
 自分から3つの組織内部の3つの派閥にモーションを掛ける事はしなかった。
 否、してはならないだろう。
 玄関先の蜂の巣を突く真似と同じだ。
 折角の何かしらの理由が有って今まで命をダイレクトに狙われる事態は回避できているのにそれをわざわざ刺激する事はない。
 ジタンカポラルを銜えながらシガーラーターで火を点ける。灰皿には10本以上の吸殻が差し込まれていた。


――――……?
 翌日。午前4時。自宅。ロフトベットにて。
 布団に包まって気持ちの良い夢を見ていた矢先に携帯電話の無機質な着信メロディに不快に起こされる。
 寝ぼけ頭で携帯電話に着信したメールを開く。
 差出人は見たことが無い名前だったが、心当たりが有る。
 殆どの情報屋が偽名を使ってメールで返信するとの返答をしたのでそのいずれかの情報提供だと解った。
 暫くディスプレイを目で追う。
 朝の冷え込みに思わず、ヤニ臭い布団を体に巻きつける。
――――……ほう。
 寝ぼける頭が徐々に覚醒するのを感じる。
 こうなっては携帯電話をオフにしても、目が冴えて眠れない。
 進藤香織の身辺調査の報告だった。
 進藤香織は正真正銘の一般人だったのかどうか? ……簡単に身の上を調べる事ができた。
 財政事情が苦しいので安い料金しか払っていないが、進藤香織という人物の背後に近い、彼女が喋る必要を感じていない情報を得る事ができた。
 香織には妹と弟が居た。
 歳は香織と1つずつ離れている。
 香織の年齢は26歳。妹は25歳。弟は24歳……生きていればそうなる。
 香織はそのきょうだいを5年前に一度に亡くしている。
 交通事故だ。
 携帯電話の添付ファイルにはその時の新聞の切り抜き画像が貼られている。地方版の小さな記事だった。
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