躊躇う脅迫者

 先ほどつまずいた男が四つん這いのまま首を上げたところに引き金を引いた。
 立った標的の頭部を狙うよりもずっと楽だった。
 腕を上げる角度の問題だ。
 つまずいたままの男の顔面中央に9mmが叩き込まれて頚骨が折れる鈍い音が聞こえる。
「…………」
 ハンマーデコッキングレバーを押し下げてSIG P230の撃鉄を安全位置に戻すとショルダーホルスターに戻しながら立ち上がる。
 一張羅のジャケットとスラックスが黴臭い地面に穢されたのに顔を顰めながら雑にはたいて汚れを落とす。
――――さて……。
 ジタンカポラルを取り出して口に銜えながら倉庫のメインストリートに出る。
 耳を澄ませば、風があちらこちらの呻き声を拾って聞かせてくれる。まともに死に切れた奴は少ないようだ。
 ジタンカポラルの先端を【サラトガ】のロゴが入ったブックマッチで炙りながら、最初に無力化させた7人の元へ行く。
 芋虫のようにのた打ち回る奴からピクリとも動かない奴まで様々だが、青い顔にびっしょりと汗を顔に浮かべていたので手当てしてやればここに居る7人は全員助かる。
 救急搬送をエサにして彼女の尋問は始まった。
 全ての尋問を終えるまでに6本のジタンカポラルを消費した。
 久し振りに感情の篭らない金属質な取り引きだった。


 魂は助けた。命は助けなかった。
 拾った1911で全員の頭を撃ち抜き、苦しみから解放した。死の恐怖から解放された三下のために、命を懸けてお礼参りに訪れる義理深い背後関係ではなかったのを知った上での処置だった。
 その間に散々様々な情報を拾えた。
 ……今は尋問から得られた情報を自宅のアパートのロフトベッドで横になりながらまとめている最中だ。
 三下には三下を動かすなりの情報や名分が与えられるものだ。
 その内容の半分以上は上層部からの欺瞞だろう。
 甘く見ていたのか、雪子を生け捕りにしたいために、使い捨ての駒を放ったのは大きな収穫だ。
 3つの勢力のいずれに捉えられても、直ぐに殺される事は無いのが判明したのだ。
 暴力団、第三国マフィア、密売シンジケート。
 この3つが同時に雪子を付け狙うのに理由が有ると思ったが、その場に居合わせた3つの勢力が、同調も連携も見せずにまるで競走をするように雪子の捕獲に躍起になったのは、考える視点を変えれば、それぞれの勢力の中でも一部の派閥が自己判断で動いた結果だとしか思えない。 自宅で悠々と暢気に下着だけのだらしない恰好で思索に耽っていても襲撃は無い。
 巨大な勢力。その中の一部の派閥。
 その派閥が動かせる駒は決まっているし、誰にも挙動を悟られたくない。
 だから三下風情しか動かせない。
 最大の目的は雪子の拉致。
 そして矢張り気になる……と言うより、引っ掛かる、加賀誠の存在。
 香織に郵送している定時連絡のレポートの控えを読み返すと、この名前に行き着いてから、身の回りが急激にキナ臭くなってきている。
 それぞれの組織の、それぞれの派閥にだけ影響力が有る中途半端な実力を持った有力者なのか? 何故、加賀誠はこの3人を必要とした? 3人が申し合わせたように何故、加賀誠に接触した? それとも何かの偶然が幾重に重なった結果なのか?
 もう一つ心に突き刺さる情報が今でも無視できないでいる。
 それは3人とも『噂の上』では命に関わる負傷を負っている事だ。
 死亡説すら流れている。
 勿論、3人は組織内部では追放されたという形式で処理されているが、その後の行方がようとして知れない。
 『地下に潜って整形し、海外へ逃亡した』可能性も勿論、視野に入れて情報収集中。
 情報屋から得られるパズルのピースではどれもこれも決定打に欠ける。
 昼。正午。
 空腹を覚えるはずだ。
 頭を掻き毟ってロフトベッドから面倒臭そうに降りると、下着姿のまま台所に立ち、薬缶で湯を沸かす。
 湯を沸かしながら冷蔵庫に仕舞ってあったオレンジの皮を剥いて齧りつく。
 口元や手を伝って落ちるオレンジの雫はそのまま台所のシンクに落ちる。
 何かと大雑把で、性格としては探偵に向かない探偵の雪子は食前食後のメニューに拘りは無い。
 先にデザートを食べても抵抗は皆無だ。
 腹に入って栄養が摂取できて満腹感が得られれば問題を感じない。
 情緒も何も無い食事……エサを食べる家畜と変わらない。
 湯を沸かしながらも、カップラーメンに湯を注ぎながらも、3分間待ちながらも、脳味噌は今回の依頼とその背景ばかり考える。
 オンとオフ。メリハリ。切り替え。
 そう言った頭脳労働に必要なスキルが低い故に、彼女は探偵には向かないのだ。
 謎は解決するだろうが問題は解決できないタイプだ。
 一つの事に集中して没頭するのは頭脳派として正しい姿だと思われがちだが、実際の頭脳派の大半は考えるべき時は考え、休憩と休養を上手に組み込んで脳味噌の負荷を減らしているので効率良く思考することができる。
 今の彼女に最も必要なスキルだ。
 10年も探偵業を営んでいながら何も成長していない。
 成長していないのに転職していない辺りは悪運が味方しているだけだろうか。
 カップラーメンを食べた後にマルチビタミンのサプリメントをラーメンの残りのスープで嚥下する。
 けぷっと可愛らしいげっぷを出した後も、後片付けをしながらも、思考は続く。
 その後にロフトベッドで寝転がりながらジタンカポラルを吸おうか吸うまいかと考え始めた辺りから食後の睡魔に襲われて抵抗する事無く午睡に入る。
 三十路とはいえ嫁入り前の女が下着姿で腹を出してだらしなく涎を垂らして鼾をかいている様子は若しかしたら貴重なシーンなのかもしれない。


 夜。午後7時。
 いつもの灰色の姿で【サラトガ】のドアを開く。
 妙に年季が入ったカウベルが雪子の入店を報せる。
 流石に思考の連続で頭が疲れたので気晴らしに【サラトガ】で息抜きをしに来た。
 ここに来るまでに尾行の気配は感じられたが、雑踏の中でハジキを抜く勇者は皆無で、人込みに紛れて短い刃物で背後から刺しに来る強烈な殺意も感じられなかった。
 いつものカウンターの隅っこの席で背中を丸めながらちびちびとタンブラーを舐める。今日は少し奮発してボウモアのノンエイジのダブルを注文した。
 珍しい事も有るもんだと初老の店主は思っていた事を口にも表情にも出さず、無関心を装って他の客の為に水割りをステアしていた。
 つまみのミックスナッツを口に運び、ボウモアを口に運び、猫が菜種油を舐めるが如く舌先を濡らす。
 今は何も考えていない。
 考える事を放棄している。
 久し振りにバーで酒を呑んでいる。
 何度も来ているバーで炭酸水以外を注文しているのだ。
 何も考えずに40度の酒に舌先を痺れるに任せたい。
 そろそろ雪子も頭がオーバーヒートしそうだと危険を感じたのだ。 
 ピートが効いたウッドチップのような煙を思わせる芳香が口の中で広がる。懐が暖かければ年代物のボウモアを頼みたかったが、今の彼女にはこれで十分だった。
 ボウモアのノンエイジなら食料品店でも買える程度に一般的だ。だが、たった1杯呑むのにボトルで買うと単価が高くつく。
 浴びるように呑むのは苦手だ。バーの雰囲気が好きなのだ。
 ボトルで買ったとしても温存しすぎて次に呑んだ時には酸化して呑める代物でなくなっていた事が何度もある。
 だから、1杯当たりは少し高くなるが、敷居の低いバー【サラトガ】でほんの偶にどこでも手に入る酒を味わう方が安上がりだ。
 つまみのミックスナッツといつものジタンカポラルを相手に1人で夜更けまでタンブラーを傾けていた……。
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