躊躇う脅迫者
村瀬雪子。(むらせ ゆきこ)。32歳。
探偵……と、列記すれば誰もが二つの反応の顔をする。
一つは驚き。
もう一つは警戒。
前者は犯罪とは関わりの無い人間に多い反応だが、後者は犯罪者、或いは犯罪とは遠くない人間の反応である場合が多い。
雪子は探偵ではあるが、どこの調査業の組合にも参加していない。
勿論、興信所とは違う、私立探偵なので認可も無い。
黄色い表紙の電話帳に名前が載る事も無い。
探偵というよりハイエナと言った方がイメージがピッタリの職掌だ。寧ろ探偵という肩書きは欺瞞工作で実は唯の便利屋である場合が多い。 今時、私立探偵で飯が喰える時代ではない。
コンビニの如く何でも店頭に揃えている、何でもござれな職掌でなければ依頼の電話は掛かってこない。
それでも一応、探偵としての看板を掲げているので、後ろめたい界隈の人間からは調査依頼が舞い込む。
雪子自身はペーパーカンパニー同然の、実体の無い会社を開いてはいるが、それなりに信用看板で商売ができている。
彼女は普段は行きつけのバーのカウンターで炭酸水をタンブラーで飲んでいるだけの人畜無害な無能者だった。
レンタルオフィスに設置した電話に依頼の電話が掛かってくると、直ぐに転送に切り変わり、彼女の懐のプリペイド式携帯電話に繋がるようにセットされている。
金回りが悪いのは今に始まった事ではない。
レンタルオフィスを借りても、そこで開店営業するだけの甲斐性が無いのだ。
だから普段はレンタルオフィスには顔を出さない。バーと自宅の安普請のアパートを往復するだけの生活だ。
彼女が仕事を選んでいるわけでもない。仕事を選ぶほどの身分ではない。舞い込む依頼は殆ど引き受けてかなりの確率で遂行する。
もぐり同然とはいえ、探偵業の端に席を置く者としての矜持だ。信用に瑕は付けたくない。
ただ、問題だったのは、彼女の足元を見て、彼女を都合の良い様に利用する輩が多過ぎたので、仕事の依頼自体に猜疑の目を向けて仕事の最中に中途で契約を打ち切られる事が多かった。
引き受けた仕事は、多い。
達成した仕事は、多い。
達成できなかった仕事は、中途で依頼人と揉めて契約を打ち切られた場合が多い。
勿論、古典ミステリーの如く名探偵の推理力が大活躍する事件を引き受けることは皆無だ。
前述した通りにハイエナ同然の仕事が多い。
彼女の好きな言葉を借りるのなら、『ハイエナの生き方が下賎だと誰が決めた? ハイエナにはハイエナの流儀が有る』といったところか。
これと言った活動拠点を持たない雪子。
それには財政的問題が大きく関係している。
万年金欠で行き付けのバーに顔を出しても炭酸水か無理に注文し、作ってもらったノンアルコールのモヒートを飲んでいるのが関の山の彼女だ。
探偵業を生業にするのに必要な、凡そ、明るい世界の探偵に必要な道具は一切持っていない。
盗聴に盗撮、録音に尾行といった探偵の七つ道具とも言えるアイテムは全てレンタルだ。
アングラ社会の住人専門に店を開いている、機材のレンタル屋を仕事の度に利用する。
勿論、懐が暖かければそれらを買い集めて探偵事務所の経費として処理したいのだが、現況ではレンタルで賄った方が安上がりなのだ。
機材を破損させない限りレンタル料以外は発生しない。
雪子が自前で探偵として用意できるのは、レンタルオフィスとプリペイド式携帯電話――スマートフォン――とマイカー――中古のマツダデミオ――だけだ。
それと懐に呑み込んだ中型自動拳銃。
9mm口径の頼れる相棒だが、皮肉な事に9mmの火力が頼もしいと感じる事態だけは避けたいのに、度々懐から相棒を引き摺り出して鉄火場を展開する状況が発生するので、彼女の探偵としての腕前は疑問符が付く。
それ故に雪子の足元、即ち、危険な依頼でも嫌な顔を一つも見せずに引き受けてくれる都合のいい、使い捨ての駒として扱う『決して逆らってはいけない』人間からの依頼が多い。
具体的な比率で言えば10件の依頼の内、7件は文句が言えない立場で依頼を『押し付けられ』、3件は穏便に契約打ち切りに持っていかれるケースが多い依頼だ。
そのような背景から、護身用として拳銃を懐に呑み込んでいるのだが、拳銃を売買するルートに支払う金額も馬鹿にはできないし、或る程度の悶着を握り潰してもらえるように、この界隈を仕切る所轄の警官や刑事に払う賄賂も大きい。
どいつもこいつもハゲタカばかりだと皮肉っても仕方が無い。
雪子自身がハイエナ同然の、卑しくも孤高の生き方を選んでいるのだ。
賄賂を要求する連中にも賄賂が必要な理由がある。
それが崇高か下賎かは誰が決める物でもない。最終的に金を手にした人間が考える事項だ。
だから雪子は雪子自身を食い物にする連中を恨みも怒りも妬みも蔑みもしない。
鏡を見て、鏡に映る自分の姿を見て笑うのと同じだと思っている。
零細企業で個人経営のアングラ専門私立探偵としてはどこにでも居る、普通のチンピラと言えた。
私立探偵といえば、何かとハードボイルドな印象が付きまとう職業ではあるが、実の所、表の世界と同じく、国内の法律を適用するのなら無職同然の職業で、そもそも職業とは呼べない。
何の免状も資格も認可も必要が無い職業だ。
無職の人間がある日突然「私は私立探偵だ」と言い張ると1人の私立探偵が出来上がってしまう。
表の明るい世界ならば、調査業を生業とする協会や組合があるので迂闊に非合法な活動には踏み込めないが、雪子のような暗い世界で、暗い世界専門の私立探偵を営んでいると、一気に眉唾な目で視られてしまう。
私立探偵と言っておきながら、何でも引き受ける便利屋稼業としても暖簾を掲げているのだから仕方がない。
世界的に有名な名探偵のシャーロックホームズは創作の人物だと言われているが、かのホームズでさえ、当時の英国内での職業では探偵は無職同然だったので懐が寒くなるとホームズは探偵業を営む傍ら、論文を書いて新聞社や学術を研究する機関に売りつけて糊口を凌いでいたという設定が存在する。
世間一般の人間が抱くような……少しばかりフィクションのドラマにかぶれた人間が抱くイメージの探偵の生活を呈しているが、実情はチンピラ。
それが彼女が立たされているスタンスだ。
推理力を発揮して事件を解決したケースは数えるほどしか無い。
そもそも推理を組み立てるのは大嫌いなのだ。
誠実な探偵に求められる条件として列挙されがちな「人間が大好きから探偵になった」という心構えも彼女には存在しない。
食っていかなければならないから、何でもいいから、手軽に気軽に即席に職業を名乗って商売ができる都合のいい職業を探していたら私立探偵だっただけのことだ。
金欠にして怠惰にして強欲。
どこどこでも居るチンピラ。
無職が勤労の真似をしているだけ。
残念ながら、それが村瀬雪子という女だった。
行き付けのバーに今日も出没。
カウンター席に座るや否や、スライスしたライムを1枚落とした炭酸水をオーダー。
店内は『旧い』だけ。
シックな店内というファッショナブルな表現とは少し違う。
古臭いだけだ。
県条例で飲食店でも分煙が制定されたが、この店ではお構い無しだ。その結果、紫煙が常にたゆたう空間が出来上がる。
暖色の落ち着いた明るさの照明。
これもまた県条例を無視したために、ライトとそのシェードにニコチンに薄っすらと燻されてブラウンに近い灯りを醸し出している。
探偵……と、列記すれば誰もが二つの反応の顔をする。
一つは驚き。
もう一つは警戒。
前者は犯罪とは関わりの無い人間に多い反応だが、後者は犯罪者、或いは犯罪とは遠くない人間の反応である場合が多い。
雪子は探偵ではあるが、どこの調査業の組合にも参加していない。
勿論、興信所とは違う、私立探偵なので認可も無い。
黄色い表紙の電話帳に名前が載る事も無い。
探偵というよりハイエナと言った方がイメージがピッタリの職掌だ。寧ろ探偵という肩書きは欺瞞工作で実は唯の便利屋である場合が多い。 今時、私立探偵で飯が喰える時代ではない。
コンビニの如く何でも店頭に揃えている、何でもござれな職掌でなければ依頼の電話は掛かってこない。
それでも一応、探偵としての看板を掲げているので、後ろめたい界隈の人間からは調査依頼が舞い込む。
雪子自身はペーパーカンパニー同然の、実体の無い会社を開いてはいるが、それなりに信用看板で商売ができている。
彼女は普段は行きつけのバーのカウンターで炭酸水をタンブラーで飲んでいるだけの人畜無害な無能者だった。
レンタルオフィスに設置した電話に依頼の電話が掛かってくると、直ぐに転送に切り変わり、彼女の懐のプリペイド式携帯電話に繋がるようにセットされている。
金回りが悪いのは今に始まった事ではない。
レンタルオフィスを借りても、そこで開店営業するだけの甲斐性が無いのだ。
だから普段はレンタルオフィスには顔を出さない。バーと自宅の安普請のアパートを往復するだけの生活だ。
彼女が仕事を選んでいるわけでもない。仕事を選ぶほどの身分ではない。舞い込む依頼は殆ど引き受けてかなりの確率で遂行する。
もぐり同然とはいえ、探偵業の端に席を置く者としての矜持だ。信用に瑕は付けたくない。
ただ、問題だったのは、彼女の足元を見て、彼女を都合の良い様に利用する輩が多過ぎたので、仕事の依頼自体に猜疑の目を向けて仕事の最中に中途で契約を打ち切られる事が多かった。
引き受けた仕事は、多い。
達成した仕事は、多い。
達成できなかった仕事は、中途で依頼人と揉めて契約を打ち切られた場合が多い。
勿論、古典ミステリーの如く名探偵の推理力が大活躍する事件を引き受けることは皆無だ。
前述した通りにハイエナ同然の仕事が多い。
彼女の好きな言葉を借りるのなら、『ハイエナの生き方が下賎だと誰が決めた? ハイエナにはハイエナの流儀が有る』といったところか。
これと言った活動拠点を持たない雪子。
それには財政的問題が大きく関係している。
万年金欠で行き付けのバーに顔を出しても炭酸水か無理に注文し、作ってもらったノンアルコールのモヒートを飲んでいるのが関の山の彼女だ。
探偵業を生業にするのに必要な、凡そ、明るい世界の探偵に必要な道具は一切持っていない。
盗聴に盗撮、録音に尾行といった探偵の七つ道具とも言えるアイテムは全てレンタルだ。
アングラ社会の住人専門に店を開いている、機材のレンタル屋を仕事の度に利用する。
勿論、懐が暖かければそれらを買い集めて探偵事務所の経費として処理したいのだが、現況ではレンタルで賄った方が安上がりなのだ。
機材を破損させない限りレンタル料以外は発生しない。
雪子が自前で探偵として用意できるのは、レンタルオフィスとプリペイド式携帯電話――スマートフォン――とマイカー――中古のマツダデミオ――だけだ。
それと懐に呑み込んだ中型自動拳銃。
9mm口径の頼れる相棒だが、皮肉な事に9mmの火力が頼もしいと感じる事態だけは避けたいのに、度々懐から相棒を引き摺り出して鉄火場を展開する状況が発生するので、彼女の探偵としての腕前は疑問符が付く。
それ故に雪子の足元、即ち、危険な依頼でも嫌な顔を一つも見せずに引き受けてくれる都合のいい、使い捨ての駒として扱う『決して逆らってはいけない』人間からの依頼が多い。
具体的な比率で言えば10件の依頼の内、7件は文句が言えない立場で依頼を『押し付けられ』、3件は穏便に契約打ち切りに持っていかれるケースが多い依頼だ。
そのような背景から、護身用として拳銃を懐に呑み込んでいるのだが、拳銃を売買するルートに支払う金額も馬鹿にはできないし、或る程度の悶着を握り潰してもらえるように、この界隈を仕切る所轄の警官や刑事に払う賄賂も大きい。
どいつもこいつもハゲタカばかりだと皮肉っても仕方が無い。
雪子自身がハイエナ同然の、卑しくも孤高の生き方を選んでいるのだ。
賄賂を要求する連中にも賄賂が必要な理由がある。
それが崇高か下賎かは誰が決める物でもない。最終的に金を手にした人間が考える事項だ。
だから雪子は雪子自身を食い物にする連中を恨みも怒りも妬みも蔑みもしない。
鏡を見て、鏡に映る自分の姿を見て笑うのと同じだと思っている。
零細企業で個人経営のアングラ専門私立探偵としてはどこにでも居る、普通のチンピラと言えた。
私立探偵といえば、何かとハードボイルドな印象が付きまとう職業ではあるが、実の所、表の世界と同じく、国内の法律を適用するのなら無職同然の職業で、そもそも職業とは呼べない。
何の免状も資格も認可も必要が無い職業だ。
無職の人間がある日突然「私は私立探偵だ」と言い張ると1人の私立探偵が出来上がってしまう。
表の明るい世界ならば、調査業を生業とする協会や組合があるので迂闊に非合法な活動には踏み込めないが、雪子のような暗い世界で、暗い世界専門の私立探偵を営んでいると、一気に眉唾な目で視られてしまう。
私立探偵と言っておきながら、何でも引き受ける便利屋稼業としても暖簾を掲げているのだから仕方がない。
世界的に有名な名探偵のシャーロックホームズは創作の人物だと言われているが、かのホームズでさえ、当時の英国内での職業では探偵は無職同然だったので懐が寒くなるとホームズは探偵業を営む傍ら、論文を書いて新聞社や学術を研究する機関に売りつけて糊口を凌いでいたという設定が存在する。
世間一般の人間が抱くような……少しばかりフィクションのドラマにかぶれた人間が抱くイメージの探偵の生活を呈しているが、実情はチンピラ。
それが彼女が立たされているスタンスだ。
推理力を発揮して事件を解決したケースは数えるほどしか無い。
そもそも推理を組み立てるのは大嫌いなのだ。
誠実な探偵に求められる条件として列挙されがちな「人間が大好きから探偵になった」という心構えも彼女には存在しない。
食っていかなければならないから、何でもいいから、手軽に気軽に即席に職業を名乗って商売ができる都合のいい職業を探していたら私立探偵だっただけのことだ。
金欠にして怠惰にして強欲。
どこどこでも居るチンピラ。
無職が勤労の真似をしているだけ。
残念ながら、それが村瀬雪子という女だった。
行き付けのバーに今日も出没。
カウンター席に座るや否や、スライスしたライムを1枚落とした炭酸水をオーダー。
店内は『旧い』だけ。
シックな店内というファッショナブルな表現とは少し違う。
古臭いだけだ。
県条例で飲食店でも分煙が制定されたが、この店ではお構い無しだ。その結果、紫煙が常にたゆたう空間が出来上がる。
暖色の落ち着いた明るさの照明。
これもまた県条例を無視したために、ライトとそのシェードにニコチンに薄っすらと燻されてブラウンに近い灯りを醸し出している。
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