無明の瑕

 どこか抜けている自分に嫌気が差して自己嫌悪を振り払うべく酒を呷る。
 そして今日も今日とてアルカセルツァーの世話になる。
 いつもの渋面でガラスコップを睨む。
 発泡する液体が気楽に泡を発生させているのが恨めしい。
 アルカセルツァー自体が不味い。途轍もなく不味い。清涼飲料ではなく、医薬品なのだから当たり前なのだが、体が弱った病人に向けられて作られたとは思えないほどに不味い。
 二日酔いの頭痛に効くと、パッケージに書かれているが、二日酔いで参っている頭痛にこの不味さは致命的なダメージを与えているようにさえ思える。
 この世の不味い物を全て圧縮して炭酸水で割ったかのような味付けは強く改善を要求する。……常用的に頼るだけあって効果が有るだけに、手放せないのが実情だ。さも悪魔に弱みを握られたかのような気分になる。
 自宅。台所。
 まるでダメなキッチンドランカーの朝を思わせるが、その表現はあながち間違っていないので、彼女は非難されても何も言い返せない。
 味わうための酒ではなく、忘れるための酒。
 愛飲家としては底辺の人間だ。
 美奈にも守るべきラインというものは存在する。
 自宅の中で喫煙だけはしないと決めている。
 娘の美津乃がいつ帰宅しても家の中が葉巻の臭いで汚されていない環境を守っている。
 キッチンドランカーでホタル族。線引きが緩いのか厳しいのか分からない、些か微妙なラインではあるが。
 いつもの部屋着で寂しく広いテーブルで臥せる。
 二日酔いの所為もある。
 出費が嵩んでどうしようもない事態に追い込まれつつある状況に苦悩している所為もある。
 そもそも娘のためという大義名分を翳しておきながら、酒に逃げる人間の屑と呼べる自分に嫌気が差している所為でもある。
 彼女は自らの額に30口径の銃口を押し付けない。
 自分独りが早々に逃げるのは簡単だ。
 自分が楽に逃げると、親類が全く存在しなくなる美津乃の行く末を考えると血反吐を吐いてでも生き抜いてやるという活力が生まれる。
 自分は泥水を啜ってでも、どんな恥を晒しても構わない。それで美津乃の命が助かって笑顔が見られるのなら。
 美津乃は今現在、生命維持装置に繋がれて入院して以来殆どを集中治療室で過ごしている。
 心臓の重大な疾病を緩和させるために寝たきりが続く。
 あの小さな体に繋がれる、傍らに有るポンプだけが本当に命綱だ。
 彼女の苦痛を和らげるための極々微量の麻酔で寝顔しかみていない。
 たまに起きる時があっても、起き上がって会話をするのは困難だ。
 意識を保ったまま覚醒するだけで大量の体力を消費する。
 その負荷の大元が皮肉にも、美津乃の苦しみを緩和させている麻酔や薬物の副作用だ。
 もうどれくらい娘と会話していないだろう。
 どれくらい笑顔を見ていないだろう。
 眠るだけの、呼吸をするだけの人形同然の娘を救うには目下のところ、入院費と諸経費を継続して払うしかない。
 海外では可能だという手術が最大の希望だが、そのためには何の伝も無い美奈が逆立ちしても叶わない夢だ。
 美奈が後ろの暗い社会の人間でなければ、全てが上手く進んで誰も何も苦労しなくて済んだのにとさえ思う。
 勿論、全ては後の祭りだ。
 不甲斐無い母親であることを謝罪しながら、またも酒を呷る理由が増える。
 NPOを騙る集金システムの裏側を知っているだけに、ボランティアを募って金儲けのタネにする話は全て断っている。
 彼女が馬鹿なのだろうか。
 馬鹿が彼女に群がるのだろうか。
 街頭の募金の上位組織に暴力団や反社会組織の影がちらつくのを見ると、ダシにされている弱者を可哀想だと思う一方で、自分も誰も何も頼れなかったら、とっくに喰われていたと他人事に思えない。
 少なくとも美奈は娘の命を繋ぐだけの稼ぎが出せる。
 今は一発逆転の機会を窺う時だと、黙って殺し屋兼業便利屋を生業に生きる。
 それ以外に、それ以上に、それ以前に、彼女は自分に合致した賢い生き方が出来ない人間だった。
   ※ ※ ※
 『いつも』のように。
 『いつガタが来て廃車になってもおかしくない』フォードフェスティバで出勤。
 本日は午後3時半にオフィスに入った。
 一張羅のトレンチコートをハンガーに掛けてデスクに座るなり、スキットルの中身を軽く呷る。
 ジャパニーズブレンデッドは名前の通りに国産のブレンドウイスキーというカテゴリなので日本人の舌に広く合う。
 コンビニやスーパーでよく見かけるジャパニーズブレンドはごく有り触れた安酒のように思われているが、世界5大ウイスキーをベースにブレンドされた大衆向けのウイスキーで、チャージ料が高いバーでも常備している場合が多い。
 そして世界5大ウイスキーの一つがジャパニーズウイスキーなのだ。 美奈は特定の銘柄を4Ozのスキットルに詰めて持ち歩いているが、一日が終わると同時に中身は大体の場合、空だ。
 最近では6Ozか8Ozのスキットルを買おうかと考えている。
 スキットルといえば欧米の映画では足首の靴下に挟んでいたり、ガーターベルトやタイツの隙間に挟んでいる印象が強いが、これは欧米の殆どの国で衆人環視の中で酒瓶や缶入りの酒類を呑む事が憚られているからという理由と、脚部に固定する事で歩いている最中に内部を強烈なアルコールで洗浄するという意味もある。
 飲み口が小さく、内部を完全にブラシなどで磨く事は不可能に近いから、飲むアルコールで常に消毒しているのだ。勿論、金属イオンの発生により、すぐに内部のアルコールは味が変質し鉄臭くなる。
 1日で呑み切れる量を詰めておくのがベストなのだが、最近の美奈のスキットルでの酒量は4Oz……詰まり約120mlを超えている。
 毎晩のように店で呑む量を考慮すれば立派なアルコール中毒へ驀進中だ。
 彼女が人一倍強い肝臓を持っていても寿命は削られる。
 呑まなければ生きていけないし、呑むと生きていける。
 逃げるのも進むのも呑んだ酒の量次第。
 とうに味わって呑むというレベルを超えている。
 仕事中に呑んでも誰も咎めない。咎める人間は誰も居ない。酒が無くともまともに思考し、指に震えが現れていないだけまだ引き返せる場所に居るのは彼女自身が良く解っている。
 今日もそんな調子でノートパソコンを開いて然るべきHPを徘徊。
 傍らの長方形のシガーアシュトレイでは、いつものダッチマスターコロナデラックスが既に紫煙をゆっくりと立ち昇らせている。
 ダッチマスターコロナデラックスは見た目に反して安っぽいインドネシアの葉をふんだんに使った機械巻き葉巻なので湿度の管理を気にしなくて雑に扱える。
 そのくせにたっぷ_時間以上楽しめるし、長さが短くなるにつれてニコチンが生み出す味の陰影を楽しめる。僅かな着香剤が使われているが嫌味な臭いや味に変化しないのも評価が高い。
「……!?」
 興味を惹く依頼を見つける。
 仲介業者が『入札中』の表示を出している。
 報酬が高く達成難易度も高いとの前書きだったが、それでも同業者が狙っている人気の案件のようなので詳細が記されたページへアクセスする。
――――コロシか……いや、カチコミ?
 門戸が広く設けられた依頼。
 複数の同業者を同時に雇っている。
 詳細を読むと、殺し屋だけでなく便利屋や荒事屋も雇っている。定数は1業者だけではなかった。たまに見かける、鉄砲玉の募集だ。
7/18ページ
スキ