無明の瑕
トレンチコートの裾が風に靡く。
右手はハンドウォームに突っ込んで使い捨てカイロを握っている。
指先まで冷えていると引き金を引くのにぎこちなく動いてしまう。
足が速い。速い。どんどん速くなる。終いには駆け足、全速力となる。
長い塀に沿い走る。
門扉のカメラの死角が途切れるⅡ歩手前で、石垣造りの塀の凹凸に爪先を乗せて塀の上の飾り瓦まで飛び上がり、難なく塀を越え、その向こうの植え込みに体を一旦潜ませる。
暴力団の取締りが厳しい昨今、塀に返しのついた矢来を設けているだけでイメージが強張るので一般家屋と変わらぬ拵えを強要されている風潮には感謝だ。
赤外線や監視カメラが幾つか確認される。
この内部でそれらには歯牙にも掛けない。
堂々と広大な庭を直進する。目標は玄関。
和洋折衷な造りの豪邸。観音開きの木製のドアが眼前に迫る。
電灯が消えていた、幾つかの部屋に灯りが点る。侵入者を監視している不寝番の部屋だろう。だが、遅い。
直線距離30m。
既に美奈はドアの前で急ブレーキを掛けた。
ラバーソールの靴の裏が焦げ臭い煙をあげる。制動できないまま、美奈はオートマグⅢを抜き放ち、ドアノブ付近の鍵穴に向けて発砲する。 暗い時間帯。大きく咲くマズルフラッシュ。
小型軽量のカービン銃の弾薬として開発された経緯は伊達ではない。弾頭重量こそは7g前後だが、発生する初活力は拳銃用の弾頭とは桁違いの力を発揮する。
明るいブラウンをした美しい木目のドアが軋む。
孔を穿つほどの打撃を与えたわけではないが、鍵穴とそのギミックを破壊するのには充分な威力。
銃口から1m先の鍵穴を完膚なきまでに叩き潰すのには充分だった。……しかし、美奈はそのドアを蹴破りはしない。
ドアを含めた建物の正面玄関に人員を集中させるためだ。
自身は直ぐに踵を踏んで方向を右手側に変更。
駆ける。
雨戸の閉まった1階の縁側からは侵入せずに勝手口まで大きく廻る。警護の人員は先ほどのドアノブに対する挨拶で正面玄関に殺到しているだろう。
暴力団幹部の、ただの不寝番の、ただの警備要員がモニターに最後まで張り付いて監視を怠らずに、逐一指揮を揮うほど訓練されているとは思えない。
表側の窓やドアと違って勝手口のドアは簡素なアルミサッシの枠だった。
全体重と全速力で発生する運動エネルギーをぶつければ簡単に破壊できる。躊躇なく、今度はドアノブに長距離のドロップキックを叩き込む。
特注でもなんでもないアルミとステンレスを組み合わせたドアノブは頼り無い金属音を立ててへし折れる。
衝撃の反動でたわんだアルミのドアが軋みながら開く。
オートマグⅢ。8+1発。
初弾は正面玄関のドアノブで放った。
残弾8発。
ハンマーデコッキング機能を搭載したマニュアルセフティを咄嗟に掛けていた。
その上でのドロップキックだ。さもなければ暴発してしまう。
再びセフティを解除して撃鉄を起す。
小気味良い感触が指先に伝わる。
勝手口を土足のまま上がって1mほどの廊下を小走りに歩くと人の気配を感じる。直感を信じ、咄嗟に銃口をその方向に向けて引き金を引く。
銃口の先はただの壁だった。
内装は壁紙でシックにまとめられているが、ただのベニヤ板を多用した一般的な壁材だ。問題無く壁に風孔が開く。
「!」
人。矢張り、人が居た。
下腹部に被弾した男が体を折って呻いて倒れる。
だらしなくぶら下がったモノを露出した下半身を剥き出しにした異様な出で立ちだったが、その男が何故そのような恰好だったのかは直ぐに理解できた。
薄暗い廊下の向こうでは衣服がはだけた20代後半と思しきショートカットの女が気を失って倒れていた。
隠れた情事の真っ最中に申し訳ないと、おどけたジェスチャーで片手拝みすると直ぐにその場を離れて家屋の内部へ進む。
今し方の銃声でこちらに注意が向けられたはずだ。
脳内の見取り図に従って自らの駒を進める。
足音を殺す。早く歩く。
銃口を視線と同一の方向に向ける。
見取り図が無ければ迷路かと間違えるかのような拵えの内部。
美奈のような襲撃者に対して内部の各所に工夫が凝らされているのは事前の情報と見取り図で確認済みだ。
1階と2階の中央には4畳半ほどのパニックルームが設けられている。そこに標的が逃げ込まれると厄介なので、パニックルームの出入り口を目指して進む。
この部屋の出入り口さえ押さえれば、標的はこの家屋を捨てて逃げるしかなくなる。
敷地内で銃声が確認された暴力団幹部がこけつまろびつ逃げるのは世間体と公安が見逃さない。暴力団という看板を背負った矜持が有るのならこの敷地から出るタイミングはズレるだろう。
タイミングをズラすために美奈は標的が潜む2階の寝室を目指す。
今夜は繁華街の高級クラブで散々飲んだ後だと情報屋からの入手だ。現在進行形の鮮度が高い情報は値段が張るが、元が取れるほどの、それに見合う仕事すればいい。
情報屋といっても様々なカテゴリが有る。
その中で一番有用で一番値段が高いのが、標的を尾行して変化が有れば逐一情報を伝えてくれる時給制の尾行屋だ。
情報屋よりも探偵業に近い。
尾行するのは危険が伴うのでそれに従い料金も高い。
美奈はオートマグⅢを両手で保持したまま、廊下を迷う事無く進む。曲がり角に来ると必ずコンパクトのミラーで角の向こうを伺い、安全を確認してから進軍する。
階段の手前。
この邸宅には家屋内部に階段が2箇所有る。
その内の一箇所が目前に……歩みを進めた時だ。
銃声。連なる。耳を劈く。
今までの都合の良い、手際の良い、勝手の良い進軍がこのための罠だったのかと疑うほどの激しい銃声。
空薬莢が散乱する軽い金属音も混じって聞こえる。
狭い空間での乱射に近い銃声。複数の銃声。方向は一方向。光源は廊下を照らすLEDライト。充分な光量。その明かりを瞬きで乱れさせるほどの激しい銃声。階段まで約2m。その角で足止めを食う。
コンパクトをそろりと覗かせて窺う。
階段の上から2挺。
廊下の角、右手側に1挺。左手側に2挺。何れも拳銃。乱射の間隔から連中の連携がまるでなっていないのが何よりの救いだ。
どんなトリガーハッピーの銃弾でも銃弾だ。まともに命中すれば挽回不能な負傷を負い、死に到る。一昔前のマカロフやトカレフが組織者の懐から消えて久しい。
連中の手にあるのは、中国製のコピーだが、FN HPモドキやパラオーディナンスP14モドキが見られる。
公安の定義では2挺以上の銃火器が隠されている関係箇所を武器庫と呼称しているが、最近ではその定義も通用しなくなっている。2挺どころの量ではない。
ここで足止めを喰らうのは計算外だったが、ここで命を取られるのは更に計算外なので一考する。
反撃。オートマグⅢが吼える。
拳銃弾を圧倒する銃声。爆発というに相応しい轟音。屋内だと耳を聾するかと思うほどに大きな発砲音だ。
たった1発の反撃だったが、充分に勝機が見える。
連中は怯んだのだ。
30カービンの咆哮に度肝を冷やされたのだ。
銃声の幾つかが黙る。弾切れとは違う気配を、気圧される流れを感じる。
足止めされていたイニシアチブが初めて美奈の手に渡った。
階段の上から覗いていた拳銃を握る腕を30カービンのフルメタルジャケットが吹き飛ばす。
美しく飛び散って壁紙を赤く彩る血飛沫をゆっくり鑑賞せずに銃口を左手側に振り、2発、撃つ。
観葉植物やドアの陰を遮蔽にしていた2人は遮蔽物の後ろで被弾したまま沈黙する。
右手はハンドウォームに突っ込んで使い捨てカイロを握っている。
指先まで冷えていると引き金を引くのにぎこちなく動いてしまう。
足が速い。速い。どんどん速くなる。終いには駆け足、全速力となる。
長い塀に沿い走る。
門扉のカメラの死角が途切れるⅡ歩手前で、石垣造りの塀の凹凸に爪先を乗せて塀の上の飾り瓦まで飛び上がり、難なく塀を越え、その向こうの植え込みに体を一旦潜ませる。
暴力団の取締りが厳しい昨今、塀に返しのついた矢来を設けているだけでイメージが強張るので一般家屋と変わらぬ拵えを強要されている風潮には感謝だ。
赤外線や監視カメラが幾つか確認される。
この内部でそれらには歯牙にも掛けない。
堂々と広大な庭を直進する。目標は玄関。
和洋折衷な造りの豪邸。観音開きの木製のドアが眼前に迫る。
電灯が消えていた、幾つかの部屋に灯りが点る。侵入者を監視している不寝番の部屋だろう。だが、遅い。
直線距離30m。
既に美奈はドアの前で急ブレーキを掛けた。
ラバーソールの靴の裏が焦げ臭い煙をあげる。制動できないまま、美奈はオートマグⅢを抜き放ち、ドアノブ付近の鍵穴に向けて発砲する。 暗い時間帯。大きく咲くマズルフラッシュ。
小型軽量のカービン銃の弾薬として開発された経緯は伊達ではない。弾頭重量こそは7g前後だが、発生する初活力は拳銃用の弾頭とは桁違いの力を発揮する。
明るいブラウンをした美しい木目のドアが軋む。
孔を穿つほどの打撃を与えたわけではないが、鍵穴とそのギミックを破壊するのには充分な威力。
銃口から1m先の鍵穴を完膚なきまでに叩き潰すのには充分だった。……しかし、美奈はそのドアを蹴破りはしない。
ドアを含めた建物の正面玄関に人員を集中させるためだ。
自身は直ぐに踵を踏んで方向を右手側に変更。
駆ける。
雨戸の閉まった1階の縁側からは侵入せずに勝手口まで大きく廻る。警護の人員は先ほどのドアノブに対する挨拶で正面玄関に殺到しているだろう。
暴力団幹部の、ただの不寝番の、ただの警備要員がモニターに最後まで張り付いて監視を怠らずに、逐一指揮を揮うほど訓練されているとは思えない。
表側の窓やドアと違って勝手口のドアは簡素なアルミサッシの枠だった。
全体重と全速力で発生する運動エネルギーをぶつければ簡単に破壊できる。躊躇なく、今度はドアノブに長距離のドロップキックを叩き込む。
特注でもなんでもないアルミとステンレスを組み合わせたドアノブは頼り無い金属音を立ててへし折れる。
衝撃の反動でたわんだアルミのドアが軋みながら開く。
オートマグⅢ。8+1発。
初弾は正面玄関のドアノブで放った。
残弾8発。
ハンマーデコッキング機能を搭載したマニュアルセフティを咄嗟に掛けていた。
その上でのドロップキックだ。さもなければ暴発してしまう。
再びセフティを解除して撃鉄を起す。
小気味良い感触が指先に伝わる。
勝手口を土足のまま上がって1mほどの廊下を小走りに歩くと人の気配を感じる。直感を信じ、咄嗟に銃口をその方向に向けて引き金を引く。
銃口の先はただの壁だった。
内装は壁紙でシックにまとめられているが、ただのベニヤ板を多用した一般的な壁材だ。問題無く壁に風孔が開く。
「!」
人。矢張り、人が居た。
下腹部に被弾した男が体を折って呻いて倒れる。
だらしなくぶら下がったモノを露出した下半身を剥き出しにした異様な出で立ちだったが、その男が何故そのような恰好だったのかは直ぐに理解できた。
薄暗い廊下の向こうでは衣服がはだけた20代後半と思しきショートカットの女が気を失って倒れていた。
隠れた情事の真っ最中に申し訳ないと、おどけたジェスチャーで片手拝みすると直ぐにその場を離れて家屋の内部へ進む。
今し方の銃声でこちらに注意が向けられたはずだ。
脳内の見取り図に従って自らの駒を進める。
足音を殺す。早く歩く。
銃口を視線と同一の方向に向ける。
見取り図が無ければ迷路かと間違えるかのような拵えの内部。
美奈のような襲撃者に対して内部の各所に工夫が凝らされているのは事前の情報と見取り図で確認済みだ。
1階と2階の中央には4畳半ほどのパニックルームが設けられている。そこに標的が逃げ込まれると厄介なので、パニックルームの出入り口を目指して進む。
この部屋の出入り口さえ押さえれば、標的はこの家屋を捨てて逃げるしかなくなる。
敷地内で銃声が確認された暴力団幹部がこけつまろびつ逃げるのは世間体と公安が見逃さない。暴力団という看板を背負った矜持が有るのならこの敷地から出るタイミングはズレるだろう。
タイミングをズラすために美奈は標的が潜む2階の寝室を目指す。
今夜は繁華街の高級クラブで散々飲んだ後だと情報屋からの入手だ。現在進行形の鮮度が高い情報は値段が張るが、元が取れるほどの、それに見合う仕事すればいい。
情報屋といっても様々なカテゴリが有る。
その中で一番有用で一番値段が高いのが、標的を尾行して変化が有れば逐一情報を伝えてくれる時給制の尾行屋だ。
情報屋よりも探偵業に近い。
尾行するのは危険が伴うのでそれに従い料金も高い。
美奈はオートマグⅢを両手で保持したまま、廊下を迷う事無く進む。曲がり角に来ると必ずコンパクトのミラーで角の向こうを伺い、安全を確認してから進軍する。
階段の手前。
この邸宅には家屋内部に階段が2箇所有る。
その内の一箇所が目前に……歩みを進めた時だ。
銃声。連なる。耳を劈く。
今までの都合の良い、手際の良い、勝手の良い進軍がこのための罠だったのかと疑うほどの激しい銃声。
空薬莢が散乱する軽い金属音も混じって聞こえる。
狭い空間での乱射に近い銃声。複数の銃声。方向は一方向。光源は廊下を照らすLEDライト。充分な光量。その明かりを瞬きで乱れさせるほどの激しい銃声。階段まで約2m。その角で足止めを食う。
コンパクトをそろりと覗かせて窺う。
階段の上から2挺。
廊下の角、右手側に1挺。左手側に2挺。何れも拳銃。乱射の間隔から連中の連携がまるでなっていないのが何よりの救いだ。
どんなトリガーハッピーの銃弾でも銃弾だ。まともに命中すれば挽回不能な負傷を負い、死に到る。一昔前のマカロフやトカレフが組織者の懐から消えて久しい。
連中の手にあるのは、中国製のコピーだが、FN HPモドキやパラオーディナンスP14モドキが見られる。
公安の定義では2挺以上の銃火器が隠されている関係箇所を武器庫と呼称しているが、最近ではその定義も通用しなくなっている。2挺どころの量ではない。
ここで足止めを喰らうのは計算外だったが、ここで命を取られるのは更に計算外なので一考する。
反撃。オートマグⅢが吼える。
拳銃弾を圧倒する銃声。爆発というに相応しい轟音。屋内だと耳を聾するかと思うほどに大きな発砲音だ。
たった1発の反撃だったが、充分に勝機が見える。
連中は怯んだのだ。
30カービンの咆哮に度肝を冷やされたのだ。
銃声の幾つかが黙る。弾切れとは違う気配を、気圧される流れを感じる。
足止めされていたイニシアチブが初めて美奈の手に渡った。
階段の上から覗いていた拳銃を握る腕を30カービンのフルメタルジャケットが吹き飛ばす。
美しく飛び散って壁紙を赤く彩る血飛沫をゆっくり鑑賞せずに銃口を左手側に振り、2発、撃つ。
観葉植物やドアの陰を遮蔽にしていた2人は遮蔽物の後ろで被弾したまま沈黙する。