無明の瑕

 その時はもう、運が悪かったとしか思う他ない。
 全ての殺し屋や暗黒社会の住人がこのHPを頼りに仕事を探しているのではないのだから。
 自分が持っている物を他人も持っていると思わない事だ。
 それと同じで、自分が知らない事は他人も知らないとは思わない事だ。
 どこの誰がいつ、同業者を蹴落とす策動に出るのか解らない。
 敵を作らずにこの界隈で生きていくのは不可能なのだから。
「…………!」
 とある依頼と報酬が目に付く。
 何度も利用させてもらっている仲介業者なので信用の度合いも高い。何の疑いも無くクリック。自分のIDとパスワードを打ち込んで何度も画面認証を繰り返す。
 この高度な暗号化でさえ、どこかの誰かがプログラムして今でもアップデートしているというのだから驚きだ。
 ソフトウェアに自信の有るはぐれプログラマーや、逆探知を生業にする暗黒社会の住人が大元を暴いて名前を挙げようと、数え切れないほどの数が、数え切れないほどの試みを繰り返したが、数え切れないほどの失敗報告しか聞けなかった。
 依頼の詳細が記されたページにようやく到達。
 これくらいセキュリティが堅固でないと信じられない。
 この煩わしい認証が裏返せば安全性の証明とも言えた。
 何しろ、IDとパスワードが合致していても複数回の画面認証で1回でも間違えるとやり直しなのだから。
――――相場としては……こんなものかな?
 殺し屋としての仕事。報酬は高め。達成難易度は中より少し上。
 報酬が高い割に仕事内容が楽な時は、依頼人が出来るだけ速やかな達成を期待している時だ。
――――これでいくか!
 『入札』と記されたボタンをクリック。
 競合する場合はここに競合している人数が表示される。
 如何に自分が報酬金額より安くこの仕事を引き受けますよ、とアピールして、この仕事を廻して貰うシステムだが、幸い、誰も先着していない。
 誰かが画面の向こうで見ているのだろうか? 画面に『落札』と出る。
 胸を撫で下ろす。
 折角の高い報酬も、この場でのオークションじみた自分の安売りで予想外に安い金額で仕事を引き受けてしまう事が割りと多く発生する。
 これが原因で何度、美奈は自分の命を安く売ってきたのか解らない。そしてその度に恐怖と悔しさを紛らわせるために酒を浴びるように飲む。
 自分がこの仕事を即決で任された事に満足すると、マウスを操作しながら商談内容を伺うために仲介業者と連絡を取るために仕事用の携帯電話を取り出した。
 幾つかの短い遣り取り。
 隠語と暗号を日常会話や商用会話に紛れ込ませて商談を進める。
 何事も無く依頼の受け取りと報酬の額面がまとまる。
「…………さて」
 通話を終えた携帯電話をデスクの上に放り出し、デスクの一番上の抽斗を開ける。
 安っぽいディクショナリーに混じって葉巻の紙箱が顔を覗かせている。それと、その近辺で転がっていたギロチン型シガーカッターを取り出す。
 ダッチマスターコロナデラックス。1本辺り300円強で売られている機械巻きの大型葉巻で、湿度の管理の必要が無い強みが有る。
 直径17mm全長140mmの体躯は見た目の割りに味は柔らかくて優しい。
 インドネシアの葉を多用しているので、多少の泥臭さはあるが、吸い切るのに1時間は掛かるので、そこそこの満足感が得られる。それでいて倦怠感を覚えるほどの体力を使わない。
 美奈は既にピンホール型の吸い口が設けられた機械巻き葉巻を、更にシガーカッターで吸い口を切断して大量の煙を楽しめるようにして喫煙する事を好みとしている。
 セロファンを剥いたダッチマスターコロナデラックスの吸い口をガチンッとギロチン型シガーカッターで切断。
 どの様な葉巻であろうと、葉巻で有る限り、シガーカッターを用いずに切断すると必ず断面が解れて味が大きく変わる。
 女性の口には明らかに大振りな葉巻を銜えると、アーマーモデルのジッポーで火を点ける。
 フットを充分に暖めてから吸い込みながら火を点ける。
 唇の端から白い煙が零れるように溢れる様は、婀娜っぽく彼女を魅せる。
「……少し、頑張ろうかな」
 独りごちる。
 落札した仕事。
 指の間に挟んだダッチマスターコロナデラックスに視線を落としながら表情を消す。
 満足のいく報酬が貰える算段。即ち、危険。
 便利屋というより殺し屋の領分。
 自分が使い捨ての駒として使われているのを知り尽くした上での暗殺。殺害。抹殺。
 甘味が増してきた葉巻の味が霞むほどに軽い眩暈を覚える。
 またも、命を削る。
 またも、生き延びる必要がある。
 またも、死ぬ理由を捨てなければならない。


 暴力団幹部を殺す。
 たったそれだけ。
 物理的距離に関係無く、非常に遠く感じる。
 たった一人の人間を殺すのに、どれだけの人間を殺せばいいのか。
 標的1人分の報酬しか貰っていないのに取り巻きや警護を状況次第でコロシの対象として鉛弾を叩き込めば不必要な経費が飛んでいく。……そこは腕の見せ所だろう。
 ……と、気軽に言う人間が多い。
 実際はその仕事が最後の仕事ではない。
 その仕事を名刺代わりの信用の看板として次回も贔屓にして貰うために自分自身も五体満足で帰ってこなくてはならない。アクション映画の主人公のように常にボロボロでラストシーンを迎えているようでは失格なのだ。
 それは痛いほど実感している。弾倉1本にも金は掛かる。弾薬の入手ルートの確保にも時間が掛かる。自分の足跡を消すのに警察関係者に嗅がせる鼻薬には更に金が掛かる。そして残った金は娘の生命維持装置と治療費諸々に充てられ、端金で暗黒社会の人間らしい買い物をしてその消費税の、つり銭のような金で表向きの生活を演じる。
 表向きの生活を演じるためにも、ご大層な負傷をするわけにはいかない。
 仕事を決行するまで11時間。
 左手のウェンガーのレディース腕時計がそう告げていた。
 スーツの内ポケットから4ozのスキットルを取り出して、中身を呷る。
 ジャパニーズブレンディッドのウイスキーが喉をスムーズに通り抜けて内臓に染み渡る。
 欧米のハードボイルド映画では定番のアイテムであるスキットルだが、実はガブガブと呑むのに全く適した構造になっていない。
 飲み口が小さく造られているので、唇を細めて空気の通り道を作りながらゆっくり傾けないと口の中に望む分量が入ってこない。
 ……ワイルドなイメージの割りに繊細な作法を習得していないと持て余してしまう。ペットボトルの方が数十倍飲み易い設計だ。
 少しずつ舐めるように呑むのに適したスキットルを左手に。
 右手の指には男性でも怯んでしまうように大きな葉巻。
 それでいて黒いスーツ姿。
 どこかやつれた横顔で眉目に僅かに皺が寄る。
 着飾ったわけではない。自然に身に付いた所作。
 この佇まいだけで、彼女が決して普通の、明るい世界を歩く人間では無いと否定できる可能性は半分以下。……そして、今し方、スキットルと葉巻を手放してデスクの一番下の抽斗を開けて大型のハンドガンケースを引きずり出した辺りで、彼女が一般人であるという外見上の可能性が更に低下した。
 デスクの上に黒い樹脂製のハンドガンケースを置く。
 苦い粒でも噛み潰したように、少しだけ片眉を歪めると、ハンドガンケースを開放する。
 ウレタンに挟まれて静かに鎮座していたのはオートマグⅢ。
 30カービン8連発の260mm強の全長と1200gの重量を誇る、歴代のオートマグシリーズの系譜の中でもリバイバルされた経緯を持つモデルだ。
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