無明の瑕

 台所の4人掛けのテーブルセット。
 今ではこのテーブルが本領を発揮して四つの椅子が埋まる事は無い。その椅子の一つに腰掛けてコップに残った3分の1ほどの発泡薬を飲み干す。
 またも渋面。
 唇の端の下がり具合が不味さを無言で物語っている。
 薄暗い室内。時間帯は午前。天気は晴れ。
 3月だというのに少々寒波が居座り過ぎて冷えるだけだ。
 今冬の特徴で寒さが長引くそうだ。石油ストーブにはまだまだ頑張ってもらわねばならない。彼女のイメージとしてエアコンよりも石油ストーブの方が見た目にも気分的にも部屋が早く暖かくなるので多用している。
 昔ながらの石油ストーブの上ではヤカンが蒸気を吹き始める。
 今日も娘のために生きる。
 それと引き換えに寿命を削る。
 寿命を削って娘が生き永らえるのなら今直ぐ死んでも構わない……彼女にはどこか破局めいた願望が付きまとう。
 それは矛盾し、時には矛盾しない教義として彼女を突き動かす。這ってでも生きるために。憂い無く遺して死ぬために。
   ※ ※ ※
 南条美奈。31歳。
 表向きの職業は外資系商社の営業……の下請けで働くパートの事務職員。
 勿論、欺瞞工作だ。
 古びたベッドタウンとはいえ一軒の家を維持しようとするのならそれなりの社会的身分が必要で、それに見合う職業に就いていなければ不信を買う。
 ギリギリの収入で何とか女が1人で切り盛りしているというプロフィールには表向きの職業が形だけでも必要だった。マイカーを所有し、下駄履きに原付に乗っているのなら尚更だ。
 黒いスーツに灰色のトレンチコート。
 伸び放題の髪をまとめてはいるが、そろそろ、その手間も面倒になってきたのでカットしてもらわないと。
 出勤。午後3時から。だが、誰も怪しまない。
 娘が入院中で一人身だから自由に出勤できるような職場を選んだという設定だ。
 フルタイムで8時間働けば良い……フレックスタイムに近いシフトに組み込んでもらっていると、近所の住人には聞かれると、そう答えている。
 暗黒社会の人間だから、世間と切り離された状態で生きている人物は極少数だ。
 殆どの暗黒社会の人間は隣近所で善良な市民の顔をして潜んでいる。ドラマや映画に出てくる孤独で孤高の人物は絶滅危惧種と言っても過言ではない。
 愛車で中古車のフォードフェスティバに乗り、午後3時に『出勤』。今では排ガス規制の強化で販売が禁止された車種ではあるが、マフラーを換装すれば何とか公道を走れる。
 左ハンドルの1300cc。紺色の3ドアハッチバック。SOHCで頼り無い馬力。条件次第では軽四輪車に負けてしまうスペック。
 ……いつ乗り捨てても惜しくない。いつでも乗り捨てられるように車検を通過できる範囲以上のチューンナップは行っていない。この車も彼女の資産と身分と職業を欺瞞するための小道具なのだ。
 隣町の繁華街へ通じる一般道まで法定速度を遵守する。
 繁華街付近の契約駐車場にフェスティバを滑り込ませると、徒歩で5分ほどの位置に有るテナントビルに入る。
 その近隣は繁華街に近いというだけあって雑多な建物が多く、人の流れも切れ目が無かった。
 5階建てテナントビルの一室。古ぼけたビル。
 エレベーターの設置義務を掻い潜る為に無理矢理5階建てで設計したので、設計的安全基準以外はデザイン性が感じられない無機質な外見と内装だ。
 5階建てまでの建物にはエレベーターの設置義務は無いのでその分安く作れる。安く作れるが、繁華街の近くに建てて収入を得たいのでデザイン性には雀の涙ほども金を掛けていない。内装の壁材ですら、防湿塗料が塗られただけのコンクリ剥き出しだ。
 その4階に有る一番奥まった部屋に入る。
 20平米ほどの空間が彼女のオフィスだ。
 彼女の本業のオフィスゆえに彼女以外に人影は無い。
 ここで一切の情報の整理を行う。
 携帯電話やファクシミリなど、自宅の回線を使ってクライアントと打ち合わせをしていたのでは、大事な自宅の物件が証拠物件として差し押さえられる危険性がある。
 万が一の事態に備えて、このレンタルオフィスを年契約で借りているのだ。
 電話回線にLANも契約。契約するのにも、あたかも法人が借りたかのように見せかけるための小細工を幾重にも施した。
 彼女1人では無理だ。嘗ての伝に頼んで見返りを払って口利きをしてもらった。
 応接セット一つに事務デスクが二つ。パーテーションで仕切った向こうの小さな部屋には簡易給湯室。トイレはこの部屋を出たフロア入り口に男女別共用のモノがある。
 名前だけのペーパーカンパニーや実体の無い幽霊会社などがひしめき合うテナントビルの中にあってまともに『企業』として活動している稀な存在が彼女のオフィスだった。
 彼女のオフィスには名前が無い。
 所謂一人親方だが、恰好の良い言い方をすれば、彼女が、彼女こそが会社なのだ。
 彼女が居ればどこでも仕事が出来る。
 付き合いが希薄な現在では珍しくないSOHO型の暗黒社会関係者とも言える。
 付かず離れず。
 微妙で絶妙な距離感が求められるのは、どこの世界でも同じだった。深入りすると命を取られるか否かの違いだけだ。
 美奈はオフィスに入るなり、トレンチコートをハンガーに掛けて壁に打ち込まれたフックにそれを吊るす。
 窓を背にした自分のデスクに座ると、ノートパソコンを立ち上げながらエアコンのリモコンを操作する。
 世間ではこれから黄昏時を迎えるはずだが、彼女の仕事は始まったばかりだ。
 無線LANが接続されたノートパソコンの液晶にはクライアントの中継ぎをする仲介業者の名前が並ぶ。情報の更新順に上位に仲介業者の名前が並ぶ。
 ソートを切り替えれば、依頼内容や報酬金額や達成難易度別にも表示される気の利いたソフトウェアだが、どこの誰がプログラムしたのかは不明だ。
 このプログラムは……これだけの情報を網羅し、情報屋を使い、仲介業者に宣伝し、しかるべき実働員に提供する仕組みは単純だが、個人経営の殺し屋兼便利屋には100人の味方を手に入れるのと同じ価値を持つ。
 大掛かりな組織なら、その人員と資金を使って自前で調整する作業だが、個人ではそう上手くいかない。
 これだけの伝を得るのに幾ら金を積めば良いのか、幾ら時間を掛ければ良いのか全く見当が付かない。
 外国マフィアを橋頭堡にする弱小組織がプログラムをばら撒いた元締めだとされるが真偽は不明だ。
 一説では外国の大型犯罪組織が日本国内の末端組織や個人経営や後ろの暗い零細企業を統括して来るべき時に手駒として使うために無償でネット上にアップロードしてダウンロードさせているという噂だが、その噂は10年前から流行っているのに、美奈のような個人経営が都合よく大きな誰かに使い潰された話は聞かない。
 勿論、ドジを踏んだ結果、この業界から消えた話なら幾らでも聞いたが。
 依頼。
 このHPから仲介業者を選んで、割りの良い仕事ばかりを選んでいる。
 殺しの依頼に万ず便利屋。
 ソートを何度も切り替えて、出来るだけ報酬金額の高い仕事を選ぶ。先着の世界なのでアクセスすると、どこかの誰かが既に依頼を請け負っていた事など幾らでもある。
 そのライバルとのバッティングを防ぐという意味でも、このHPは有用だった。
 現地でライバル業者とバッティングする確率は低いし、報酬の面で仲介業者と揉める事案も少なくなる。
 それでもトラブルが発生する場合といえば……このHPを頼らないアウトローな風来坊が、その場を凌ぐ金欲しさに現場で鉢合わせをした時だ。
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