無明の瑕
情報屋のリークと殺し屋としての……拳銃遣いとしての矜持を交えて憶測をする。
恐らくは大きく外れてはいないだろう。
暗黒社会に、たまに紛れこんでくる輩の一種に、自分の腕試しとして修羅のような道に自分を投じる遣い手が居る。
相当な馬鹿か相当な手練のどちらかだ。
昔、刃を振り下ろされたあの男も、先日の夜に邂逅したあの男も相当な手練に分類される人種だ。
師弟関係。それだけの理由だろうか? 師匠を討ち取られた悔しさからの敵討ちを目論んでいるだけだろうか? ……何か、もう一段、深い理由がありそうだと美奈は推測する。
※ ※ ※
翌日午前11時。
隣町の隣。愛車のフェスティバが悲鳴に近い啼き声を挙げて到着したのは大型の総合病院。
充分にアルコールは抜けた体。迂闊にも、仕事用の風体で、懐にオートマグⅢを呑み込んだままの出で立ちだ。
トレンチコートが3月の風に煽られる。
今年の春は未だ遠いらしい。風は冷たく、頬を撫でる。
曇り空。
午後から雨が降るらしいらしい。
彼女が懐にオートマグⅢを忍ばせているのは、指摘されなければ誰にも判らない。
できることなら、仕事直後の高ぶりを抑えるために、フェスティバの車内でダッチマスターコロナデラックスとたっぷり1時間、語らってから娘の美津乃と面会がしたかったが、紫煙臭い体で病院の中に入るのは心が憚られた。
オートマグⅢを携行していたが、半分は迂闊で半分は良い判断だったのかもしれない。
高市一明という男が自身の正体を晒したのだ。
自分の姿を晦ませもせずにあの夜に襲撃してきた。
恐らく、次に襲撃するのなら人の目も気にせず、衆人環視の中でも平気で得物を抜き襲い掛かるだろう。
襲い掛かるという野暮なスタイルは似合いそうに無いほどにスマートな登場を心掛けるに違いない。
愛車の紺色のフェスティバを総合病院の駐車場に滑り込ませて、降車。
途端、瞬間、刹那。
背中を刺される。
……背中を刺されたと勘違いするような殺気。
「!」
振り向き様に右手を左懐に伸ばす。
駐車場のどこかに、見晴らしの良い、駐車場のどこかに高市は居る。 独特の殺気。独特の気配。独特の視線。
見詰める物は拳銃遣いと同じでも、そのアプローチは異質な空気。
駐車場に人影は無い。
午前中の面会を終えた平和な昼前。
一時のエアポケット。
誰も訪れない僅かな微少な時間帯。
ほんの数分で騒がしくなるであろう時間の隙間。
「…………」
奥歯を軽く噛み締めて、意を決して美奈は右手を左懐に差し込んだままフェスティバから離れる。
駐車場を見回す真似はしない。
自分は確実に高市と思しき敵のキルゾーンに踏み込んでいる。
無言。言葉は要らない。喋る必要も無い。口を開くと無駄に魂が逃げていきそうな緊張感。
歩く。静かに。静かに。
駐車場の真ん中。逃げも隠れもできない。逃げも隠れも考えない。ここに来る。
高市は……ここに来た。
駐車してあった車の陰から、黒い鞘の日本刀を左手に携えて、少し草臥れた黒いスーツを着て、オールバックの髪に乱れを見せずに高市は静かに、静かに、歩いて来た。
彼我の距離、5m。
この距離にも既視感を覚える。
あの夜の廊下で高市の師匠だという男と対峙したのも、これくらいの距離だった。
違うとすれば、ここは開けた場所だ。存分に刀が振るえる。
美奈もまた、存分に銃口を左右に振ることができる。
美奈の表情が軽く引き攣る。
せめて、美津乃の顔を……眠ったままの顔でもいいから、見舞いを終えてから対峙したかった。
美奈にはそれだけで生き残る理由が有る。
ここで派手にオートマグⅢを発砲すると、その後に美津乃の人生に於いて母親の美奈が大きな汚点となる事も理解していた。
その理解を、眠ったまま闘病する娘に押し付ける気は無かった。
どんなに謝罪しても取り返しがつかない。
そして、土下座をしても目前の男は美奈を逃がさない。
高市はそれも計算していたのだろう。
逃げも隠れもできない。物理的にも地位的にも社会的にも逃げ果せる事ができない状況を狙って、選んだのだ。
「師匠より……弟子が弱いと思われたまま討ち損じた人間が生き永らえられるのは……俺にとっては、死ぬより辛い事だ」
高市は口を開く。
自分の腹の裡を全て喋った。
恐らく、それが全てだ。
彼を衝き動かす原動力はそれが全てだった。
損得勘定の殺し屋稼業では絶対に到達しない思考の角度。
一振りの刀に全てを賭ける人間のみが抱ける、小さな邪念。
本当に小さな邪念は、時間を経過して大きな原動力に変貌した。
彼にとってはそれが全てで、それに全てを捧げるだけの価値があるのだ。
即ち、美奈を斬り伏せなければ自分は前進しないという、苦悶の毎日を味わっていた。
5m。
近くとも遠い距離。
拳銃使いの美奈。然し、早撃ちを得意とする拳銃使いではない。
高市があの男の弟子で今に到るまで寸暇を惜しんで修行に明け暮れていたのなら5mなど、距離のうちに入らないだろう。
5mもの距離に近付いた理由。
背中や脇は見せられないのは当たり前。
相手の目を見ながら徐々に近付かなければ、降車したフェスティバから高市までの10m余りの距離は直ぐに詰められ、背中からばっさりと斬られてしまうと判断したからだ。
この男は、斬る。
美奈に価値が無いと解った途端に足元の雑草を払うように簡単に斬り捨てる。
高市の希望に応えて5mの距離まで近付いたのではない。
近付かなければ命に関わる。
右の掌はコートの懐で確かにオートマグⅢのグリップを握っている。幅広のいつも通りの握り難いグリップ。片手で保持するしかない。両手で構えさせてくれる時間はおろか、再装填の時間も与えてはくれないだろう。
勝負は一瞬。
瞬き1回よりも短い時間で何もかもが決着は付く。
決着が付いた途端に、美奈の献身的な母親の姿は脆く消え去る。
生きていようが死んでいようが。
その後の美津乃の面倒は誰が見る? 今まで、美津乃の生命維持に注ぎ込んでいた金の出所はどう明かされる? 生きていたとしても美奈は二度と母親の顔をして美津乃と会えないだろう。
美奈の心に様々な心情がマーブル模様で渦巻く。
生き残ったら。死んだら。逃げたら。
またも邪魔が入ったら。
それぞれに、それぞれの展開が有る。
それぞれの展開を見せても美奈は破局だ。
殺し屋の美奈の名前と顔は広く知れ渡る。
拭っても拭っても好い未来は見えてこない。
確かに、高市という人物は師匠を超えていたのかもしれない。心理的に社会的に合理的に物理的に美奈をここまで追い込める策士だった。
それがもたらす破滅は高市も同じだったろう。
明るい社会の明るい時間帯に明々と自分の素顔を晒しているのだ。
美奈を討ち取っても今後の彼の暗黒社会での生き方は大きく変わるに違いない。
それを捨てでも、彼は来た。
それらを捨てさせるために美奈をここまで追い込んだ。
何も要らない。何も足さない。何も引かない。何も混ぜない。
勝機と勝負が重なる時間が訪れる。
美奈は右手を閃かせる。とうにセフティは解除してある。
彼女の渾身の、最速の抜き撃ち。
否、『抜き』。
高市も右手が閃く。
鞘がその場の中空に浮いている間に5mの距離を一気に詰めて、逆袈裟斬りのモーションで迫る。
『撃つ』。
確かに撃てと指先に命令した。
だが、あの頼もしい爆発音に似た銃声は聞こえない。
美奈は自分の右脇からヒタと冷たい感触を感じた。
恐らくは大きく外れてはいないだろう。
暗黒社会に、たまに紛れこんでくる輩の一種に、自分の腕試しとして修羅のような道に自分を投じる遣い手が居る。
相当な馬鹿か相当な手練のどちらかだ。
昔、刃を振り下ろされたあの男も、先日の夜に邂逅したあの男も相当な手練に分類される人種だ。
師弟関係。それだけの理由だろうか? 師匠を討ち取られた悔しさからの敵討ちを目論んでいるだけだろうか? ……何か、もう一段、深い理由がありそうだと美奈は推測する。
※ ※ ※
翌日午前11時。
隣町の隣。愛車のフェスティバが悲鳴に近い啼き声を挙げて到着したのは大型の総合病院。
充分にアルコールは抜けた体。迂闊にも、仕事用の風体で、懐にオートマグⅢを呑み込んだままの出で立ちだ。
トレンチコートが3月の風に煽られる。
今年の春は未だ遠いらしい。風は冷たく、頬を撫でる。
曇り空。
午後から雨が降るらしいらしい。
彼女が懐にオートマグⅢを忍ばせているのは、指摘されなければ誰にも判らない。
できることなら、仕事直後の高ぶりを抑えるために、フェスティバの車内でダッチマスターコロナデラックスとたっぷり1時間、語らってから娘の美津乃と面会がしたかったが、紫煙臭い体で病院の中に入るのは心が憚られた。
オートマグⅢを携行していたが、半分は迂闊で半分は良い判断だったのかもしれない。
高市一明という男が自身の正体を晒したのだ。
自分の姿を晦ませもせずにあの夜に襲撃してきた。
恐らく、次に襲撃するのなら人の目も気にせず、衆人環視の中でも平気で得物を抜き襲い掛かるだろう。
襲い掛かるという野暮なスタイルは似合いそうに無いほどにスマートな登場を心掛けるに違いない。
愛車の紺色のフェスティバを総合病院の駐車場に滑り込ませて、降車。
途端、瞬間、刹那。
背中を刺される。
……背中を刺されたと勘違いするような殺気。
「!」
振り向き様に右手を左懐に伸ばす。
駐車場のどこかに、見晴らしの良い、駐車場のどこかに高市は居る。 独特の殺気。独特の気配。独特の視線。
見詰める物は拳銃遣いと同じでも、そのアプローチは異質な空気。
駐車場に人影は無い。
午前中の面会を終えた平和な昼前。
一時のエアポケット。
誰も訪れない僅かな微少な時間帯。
ほんの数分で騒がしくなるであろう時間の隙間。
「…………」
奥歯を軽く噛み締めて、意を決して美奈は右手を左懐に差し込んだままフェスティバから離れる。
駐車場を見回す真似はしない。
自分は確実に高市と思しき敵のキルゾーンに踏み込んでいる。
無言。言葉は要らない。喋る必要も無い。口を開くと無駄に魂が逃げていきそうな緊張感。
歩く。静かに。静かに。
駐車場の真ん中。逃げも隠れもできない。逃げも隠れも考えない。ここに来る。
高市は……ここに来た。
駐車してあった車の陰から、黒い鞘の日本刀を左手に携えて、少し草臥れた黒いスーツを着て、オールバックの髪に乱れを見せずに高市は静かに、静かに、歩いて来た。
彼我の距離、5m。
この距離にも既視感を覚える。
あの夜の廊下で高市の師匠だという男と対峙したのも、これくらいの距離だった。
違うとすれば、ここは開けた場所だ。存分に刀が振るえる。
美奈もまた、存分に銃口を左右に振ることができる。
美奈の表情が軽く引き攣る。
せめて、美津乃の顔を……眠ったままの顔でもいいから、見舞いを終えてから対峙したかった。
美奈にはそれだけで生き残る理由が有る。
ここで派手にオートマグⅢを発砲すると、その後に美津乃の人生に於いて母親の美奈が大きな汚点となる事も理解していた。
その理解を、眠ったまま闘病する娘に押し付ける気は無かった。
どんなに謝罪しても取り返しがつかない。
そして、土下座をしても目前の男は美奈を逃がさない。
高市はそれも計算していたのだろう。
逃げも隠れもできない。物理的にも地位的にも社会的にも逃げ果せる事ができない状況を狙って、選んだのだ。
「師匠より……弟子が弱いと思われたまま討ち損じた人間が生き永らえられるのは……俺にとっては、死ぬより辛い事だ」
高市は口を開く。
自分の腹の裡を全て喋った。
恐らく、それが全てだ。
彼を衝き動かす原動力はそれが全てだった。
損得勘定の殺し屋稼業では絶対に到達しない思考の角度。
一振りの刀に全てを賭ける人間のみが抱ける、小さな邪念。
本当に小さな邪念は、時間を経過して大きな原動力に変貌した。
彼にとってはそれが全てで、それに全てを捧げるだけの価値があるのだ。
即ち、美奈を斬り伏せなければ自分は前進しないという、苦悶の毎日を味わっていた。
5m。
近くとも遠い距離。
拳銃使いの美奈。然し、早撃ちを得意とする拳銃使いではない。
高市があの男の弟子で今に到るまで寸暇を惜しんで修行に明け暮れていたのなら5mなど、距離のうちに入らないだろう。
5mもの距離に近付いた理由。
背中や脇は見せられないのは当たり前。
相手の目を見ながら徐々に近付かなければ、降車したフェスティバから高市までの10m余りの距離は直ぐに詰められ、背中からばっさりと斬られてしまうと判断したからだ。
この男は、斬る。
美奈に価値が無いと解った途端に足元の雑草を払うように簡単に斬り捨てる。
高市の希望に応えて5mの距離まで近付いたのではない。
近付かなければ命に関わる。
右の掌はコートの懐で確かにオートマグⅢのグリップを握っている。幅広のいつも通りの握り難いグリップ。片手で保持するしかない。両手で構えさせてくれる時間はおろか、再装填の時間も与えてはくれないだろう。
勝負は一瞬。
瞬き1回よりも短い時間で何もかもが決着は付く。
決着が付いた途端に、美奈の献身的な母親の姿は脆く消え去る。
生きていようが死んでいようが。
その後の美津乃の面倒は誰が見る? 今まで、美津乃の生命維持に注ぎ込んでいた金の出所はどう明かされる? 生きていたとしても美奈は二度と母親の顔をして美津乃と会えないだろう。
美奈の心に様々な心情がマーブル模様で渦巻く。
生き残ったら。死んだら。逃げたら。
またも邪魔が入ったら。
それぞれに、それぞれの展開が有る。
それぞれの展開を見せても美奈は破局だ。
殺し屋の美奈の名前と顔は広く知れ渡る。
拭っても拭っても好い未来は見えてこない。
確かに、高市という人物は師匠を超えていたのかもしれない。心理的に社会的に合理的に物理的に美奈をここまで追い込める策士だった。
それがもたらす破滅は高市も同じだったろう。
明るい社会の明るい時間帯に明々と自分の素顔を晒しているのだ。
美奈を討ち取っても今後の彼の暗黒社会での生き方は大きく変わるに違いない。
それを捨てでも、彼は来た。
それらを捨てさせるために美奈をここまで追い込んだ。
何も要らない。何も足さない。何も引かない。何も混ぜない。
勝機と勝負が重なる時間が訪れる。
美奈は右手を閃かせる。とうにセフティは解除してある。
彼女の渾身の、最速の抜き撃ち。
否、『抜き』。
高市も右手が閃く。
鞘がその場の中空に浮いている間に5mの距離を一気に詰めて、逆袈裟斬りのモーションで迫る。
『撃つ』。
確かに撃てと指先に命令した。
だが、あの頼もしい爆発音に似た銃声は聞こえない。
美奈は自分の右脇からヒタと冷たい感触を感じた。