無明の瑕

 受けた衝撃は手首から肘、上腕部、肩へと伝わり、痺れの余り、オートマグⅢを滑り落としそうになる。
 オートマグⅢの銃身とフレームの間に刀身が直撃した。
「!」
「!」
 驚いたのは両者だ。
 男は最後の一刀のつもりだったのだろう。
 美奈は何も考えていない咄嗟の思い付きだった。
 美奈はそのまま右手を捻る。
 オートマグⅢ自体を捻りあげる。異種の金属音が悲鳴を挙げ合いながら銃口が、切っ先が天井に向けられる。
 その間、美奈の左手は予備弾倉を探す事を諦め、バラ弾を落とし込んだ左ポケットに手を突っ込んで1発の30カービン弾を掴んでいた。
 梃子の原理が働く。
 男は両手で刀を保持しているのにも拘らず、切っ先付近で交差しているオートマグⅢに挟み込まれて動きが取れなかった。
 その男がこんなハプニングとも言うべき有り得ない現実に少しでも対処できる機転が利いていればこの後どうなっていたのか。……今から思い返しても冷や汗が出る。
 この状況では男が半歩退くだけで解決する問題なのだ。
 切っ先を鋼鉄の手で握られているわけではない。
 一歩も二歩も退いたのは美奈だった。
 オートマグⅢの銃身下部の僅かな隙間から切っ先が離れる。
 切っ先は込めていた力に従って、空を切る。
 退き様にエジェクションポートに実包を押し込み、スライドを乱暴に後方に引いてリリースさせる。薬室に実包が送り込まれる。
 同時の発砲。
 オートマグⅢを横倒しにして、エジェクションポートを天井側に向けた状態での発砲。
 左掌は未だエジェクションポート付近から退避させていない。
 それでも発砲。
 スライドリリースと同時の発砲だった。
 発砲した瞬間に嫌な音を聞いた。金属を噛みこむ音。
 だが、然し、それでも、発砲した。発砲したのだ。発砲してしまったのだった。
 30口径の高速弾は、357マグナム以上の初活力を誇る弾頭は、男の頚部のど真ん中に命中し、今の人類では有り得ない方向に首を折って大の字に倒れた。
 そのままぴくりとも動かない。
 排莢口は空薬莢の尻を噛んだまま。
 偶発的。起きてしまった命の遣り取りに、思わず座り込み氷漬けにされたかのように寒気に襲われて、ここのところ暫く覚えの無い粗相をした。
 失禁しながらも立ち上がり、恐怖に飲み込まれた千鳥足でジャムを対処し弾倉を叩き込み、目標の部屋に到達すると、標的の人物は、「……あいつが取られたか。そうか。ならば仕方ないな……」と美奈に優しい微笑みを投げると、美奈の30口径を抵抗もせずに頭部に受けて絶命した。
 あの夜の経験が忘れられずに、それ以来必ず、予備弾倉を予め左手に待機させておく癖が付いた。
 あの夜の経験が忘れられず、閉鎖的狭空間での鉄火場を想定した修練を積んだ。
 あの夜の恐怖が忘れられず、初めて酒を呑んで正体を無くした。
 呑むと恐怖があやふやになるという先人の知恵に縋った。
 味なんて覚えていない。
 一仕事終える度に酒を呑んでいるうちに味を理解した。
 味は理解したが、呑み方は未だに理解できていない。
 恐怖を紛らわせるために。恐怖から逃げるために。恐怖に呑み込まれないために。呑む。
 街灯の下。
 フィールドコートを羽織った黒いスーツの男の眼を視て刹那の間に8年以上前の話を思い出した。
 街灯の下でチラチラと秋水がハレーションを生み出して辺りを舐める。
 同じ眼。同じ臭い。同じ構え。
 足の運びから中段正眼の構えから服装まで同じだ。
 彼我の距離2m。
「……」
「……」
 下げた銃口を構え、狙って引き金を引くのに時間が掛かりすぎる。
 美奈は伏兵の存在に気を向ける。
 狙撃されるのならとっくに狙撃されている。
 背後から拳銃を携えた生き残りが銃撃するには充分な時間が経過した。
 だが、静かだ。
 この過疎集落には2人しか居ないように静かだ。
 とっくに陽は暮れた。
 街灯も疎ら。
 斬りかかる。斬りかかるのなら今のはず。
 美奈の銃口は男を向いていない。
 圧倒的優位のはずの男は爪先をじりっと1cmほど動かす。踏み込んで斬るタイミングを窺っているようかの挙動。
――――?
――――待ってる?
――――警戒してる?
――――何を? 何で?
 男の気配は、あたかも美奈が隠し玉の武器を持っているかのように神経質だった。
 少し……時間にして5秒経過した後。
 男はチッと舌打ちすると、正眼の構えのまま後退りして、街灯の照射範囲外へと夜陰に乗じて姿を煙のように消す。気配すらも煙のようだ。
 男が何故後退したのかは考えるまでもなく解った。
 パトカーのサイレンが近付いてきたのだ。
 美奈は暫く動けなかった。全身が緊張して筋肉が完全に強張り、棒のように、関節を消失したかのような重い足を引き摺りながら、街灯の下から自分の姿を消す。
 彼女もまた、夜陰に紛れて遁走を始めたのだ。
  ※ ※ ※
 渋面。
 今日も今日とて朝からアルカセルツァーの世話になっている。
 だが、今日は携帯電話やタブレット端末の前から動くわけには行かない。
 あの男……あの刀の男が気になって仕方が無く、高額な情報屋を雇って情報の収集に当たらせていた。
 午前10時。
 ジャスト。
 携帯電話が電子的な着信音で報せる。
 勿論、情報屋からの入電だ。
 自宅の台所でアルカセルツァーを苦い顔で飲み干すと携帯電話を耳に当てた。
 情報屋からの一方的な情報の提供と、仕事用のメールアドレスに補足と詳細を纏めたテキストの添付を知らされる。
 情報屋がまとめて口頭で情報を伝達しないのは情報の漏洩を恐れての事だ。高額な報酬を払って雇っただけの事はある。
 タブレット端末を操作してメールアドレスにアクセスする。
 男の名は高市一明(たかいち かずあき)。35歳。
 古流剣術の一派を納めた剣術遣いで、音の無いコロシを得意としていた。
 その高市が派手に音がする拳銃使いを雇って過疎集落で美奈を襲撃するまで、彼なりに時期を見計らう行動が確認された。
 依頼を受け持ったとされる仲介業者も予想通り買収されていた。
 暴力団事務所が入ったテナントビル襲撃での狙撃。彼にとっては美奈がその程度で死んでしまう標的なら用は無かった。
 彼は本来なら8年前に美奈に対してアクションを起こして然るべきだった。
 だが、何れも、機は熟していなかった。
 折角熟した機会はパトカーのサイレンで杜絶されてしまった。
 そう。彼はあの夜……初めて酒を呑んだ8年前に屠った50代絡みの男の弟子だ。
 その弟子が報復に出たのが現在だった。
 それまで高市は美奈という人物を観察し続けた。
 自分が報復するほどの価値が有る人物かどうか。
 自分がそのためだけに修行と研鑽を積む価値があるかどうか。
 自分が『師匠の敵討ち以上の信念』を果たすのに相応しい敵かどうか。
 全ての条件が揃ったはずの過疎集落での一件も、パトカーのサイレンという闖入者のお陰で水泡に帰した。
 近接する武器を使うという奥の手にして唯一の手を真正面から晒した高市は正に剣術遣いだ。
 ガンマンとは得物が違っても目指している場所は同じだと言える。
 その高市が美奈の自宅を襲撃しなかった理由は……情報屋から得られなかったが、その気概で推し量る事ができた。
 美奈に安息できる空間を与えて、休息できる場所を保証したかったのだ。
 疲労で疲れた彼女を討ち取っても自慢でも何でもない。
 美奈が居ないうちに水道に猛毒でも仕込めば全く問題なく暗殺する事ができる。
 それをしなかった。それもしなかった。それはしなかった。
 あくまで、正々堂々と自分のフィールドに誘い込んで討ち取りたかった。
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