無明の瑕

 睨み合う。
 正眼に捉えられた。
 銃口がほぼ斜め下を向いたオートマグⅢを構え直すのに数瞬の時間が掛かる。
 構えて狙って引き金を引くと云うロスは大きい。
 その間に真正面のスーツ姿の日本刀遣いは簡単に美奈を撫で斬りに伏せるだろう。
 睨み合う。
 無限の時間が経過。
 実は数秒。
 二人の間を、たった2mの空間を、寒風が足元を払う。
 二人のコートの裾が風に靡く。
 街灯の光源が得られない距離に出ると勝機が見えないでもない。だが、相手はそれを許してくれるだろうか。
 睨み合う。
 冬なのに、風は冷たいのに、肌は冷えるのに、それ以上に冷たく冷えるものが背中を伝わる。
 寒い中での酒ほど旨いものはないと、どこかの作家が言っていたような気がする。……いけない。またも意識と思考が解離し始めている。
 男の夜よりも冷たい、寒い、凍る瞳。
 何も迷いが無い。
 拳銃遣いの眼ではない。
 日本刀だけで渡り歩いてきた男の眼だ。
 この眼に見覚えがある。
 厳密には、同じ眼をした男を知っている。
 この眼を見ていると、あの夜に呑んだ酒の味を思い出す。
 初めての酒なのにソフトなアルコールから始めずにジャパニーズシングルモルトから呑み始めた、あの夜のあの酒。
 刹那の時間だけ美奈の記憶は過去に沈む。
 美奈の娘が心臓に重大な病が発見されて緊急入院となった。
 その時には既に伴侶となる男は死亡していた。
 男が殺し屋だったばかりに報復を受けたのだ。
 伴侶となる男を殺されても耐え難きを耐えたが、娘の重病に金策の工面に困り、殺し屋にカムバックを果たす。
 一部では望んだ、望まれたカムバックではなかった。
 その、最初の仕事……重要人物の暗殺。どこにでもある、いつでも依頼されるいつもの仕事。
 その仕事を遂行していく上であの眼をした男と出合った。
 その男はもっと年上だった。
 年の頃50代前半だろうか?
 一本道の廊下を突破すれば依頼の標的が鎮座する部屋へ、一直線だと言うのに、その、日本刀を携えた、灰色のスーツを着た、50代と思しき、野性的で荒削りな風貌をした男は、たった1本の日本刀を翳して廊下の真ん中で立っていた。
 中段正眼。やや右半身。
 顎を引き、切っ先は美奈の喉元を狙っている。
 彼我の距離5m。
 たったの、僅か、それだけの、距離、オートマグⅢで直ぐに黙らせられる距離。
 何もかもが計算違いだったのは、その男がオートマグⅢの30カービン弾を避けたのだ。
 否、避けたかのように見えたが、実は銃口を見て、引き金に掛かる指の動きを察して体を発砲直前に逸らしただけに過ぎない。
 理屈は簡単だった。その理屈が働いているのを見破るのも簡単だった。
 だが、然し、それでも、面前に直進しているはずの男に全弾発砲したのに、近付けば近付くほど避けるのが難しいはずなのに、男は右へ左へと最小限の動きだけで30口径の高速弾を発砲直前に銃口の前から体を往なして、無為に空を穿かせる。
 幅2mほどの廊下。
 避けも逃げも躱しもできない距離に肉薄した時、咄嗟に翳したオートマグⅢ。
 映画のように恰好良く、スライドやフレームでその初撃を防いだのではない。
 握り込みすぎてマガジンキャッチに指が掛かってしまい、そのボタンを誤操作した。
 結果、自重と遠心力で滑り出た空の弾倉が抜けきらずにグリップエンドから突き出た形になり、その僅かな部位で男の初撃を受け止めた。
 ……その時に目の前で飛び散った火花の美しさと明るさと恐怖は忘れもしない。
 暫しの睨み合い。
 男の眼光が美奈の恐怖に慄く心臓を鷲掴みにして捻り潰しそうだ。
 いつ抜けるか解らない空弾倉。
 刀で押し付ける力が強過ぎて抜け切らずにいたが、男が少しでも力を緩めたのなら簡単に空弾倉は抜け落ちて美奈の懐で守るものは何も無くなり、一刀の元に切り伏せられるのは明らか。
――――ただの刀遣いじゃない!
 そう判断したのは、男が既に美奈の右足の甲より先の爪先を自らの踵で踏みつけていたからだ。
 美奈は剣道や剣術には疎い。
 だが、風聞に聞いた事がある。
 時代劇のような剣戟は現実には起こりえないと。
 剣術遣い同士が剣を交えた場合、相手の剣撃を自分の刀の刃や鍔で防ぐ事は有り得ないのだ。
 そうすれば確実に刀の寿命が縮む。確実に刃毀れを起す。
 ……故に、剣術家同士の真剣勝負は相手の剣筋を見極めて避ける、往なす、躱す事で空振りさせてからその脇を逆袈裟斬りにする事が多いと。
 漫画で見るような奥義技というのは、一番最初に、最高最良のコンディションの時に相手より早く、場合によっては相手が武器を抜くよりも早く、試合開始の合図より前に繰り出して切り伏せてしまう事を主眼としている。
 その奥義が防がれた後に大技、中技、小技を織り成して攻防を続けるという。
 柄同士をぶつけて相手の柄を握る指を絡めてへし折る指関節技も存在するらしい。
 それを踏まえれば、足の甲から先を攻撃して小癪な打撃でこちらの機動力を気付かぬ間に削いでいく小技は基本中の基本だろう。
 実際に爪先の感覚が無くなるほどの踏みつけに悲鳴を挙げそうだった。
 膠着が解けたのは美奈が一歩退いた時だった。
 それまで頭の上からギリギリと白刃で押し潰されそうになっていた。それを足腰の筋力で支えていたが、このまま押し潰されるのを待っているに違いないと恐怖した。
 圧力が掛かればどうしても脆い部分から決壊する。
 その脆い部分を狙って斬撃が繰り出されるような気がした。
 一歩退いた。
 体勢が崩れたのではない。
 自分にとって踏ん張り易い方向に逃げたのだ。
 一歩。
 具体的な距離にして70cm。
 一歩退いたというより、飛び退いたという形容が相応しい。
 この状況は圧倒的不利。
 空弾倉がその弾みで完全に抜け落ちる。
 左手に予備弾倉を用意していなかった事を心底悔やむ。
 左手で後ろ腰の予備弾倉のポーチを漁る。
 焦りと恐怖に急かされて上手く弾倉が抜けない。
 その間にもその男の切っ先は紫電の速さで突き出される。
 その男は3度踏み込んだ。
 左足を踏み縛ったまま右足を半歩以下の間合いで3度床を蹴り、突きを3度繰り出した。
 何れも喉、鳩尾、下腹部を狙った突き。
 蛍光灯の下に煌く美しい秋水のどれもこれもが、一撃必殺の殺傷力を持っている。
 美奈は躱したのではない。
 弾倉すら差し込んでいないオートマグⅢで防いだだけだ。
 様々なフェイントを織り込んでの突き業を見切ったとは思えない。
 3度の博打に3回勝っただけだと今でも思っている。
 男の視線が美奈の顔を見たまま突きを繰り出したが、いずれもオートマグⅢの長いスライドとフレームで弾く事ができた。
 この時に負ったオートマグⅢの瑕は今でも残っている。この時の教訓から長いスライドとフレームの拳銃に偏向するようになった。
 荒い呼吸だけが空気を伝う。
 狭い廊下。刀を振るうには良い条件とは言えないはずだ。
 上段からの攻撃なら切っ先が天井を引っ掻いてしまう。
 頭上から押さえつけようと体重を乗せてきた理由が何と無く解った。
 その美奈の考えが空気に乗って伝わったのか、今度は刃を返して下段からの逆袈裟斬りを放つ構えを取る男。
 モーションが見えるはずなのに眼で追えない。
 脳内で剣筋を予知しているだけなのかもしれない。
 咄嗟に、スライドが後退したままのオートマグⅢの銃口を右手側斜めに突き出して力一杯、グリップを握る。
「!」
 その瞬間、オートマグⅢに衝撃が走る。
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