無明の瑕
そもそも撃たれて死ぬ覚悟ができていないのなら撃ち殺す覚悟もできていない素人だ。
生き延びならなければならぬ使命を帯びておきながら、決して明るい路を歩く事ができない彼女には、深く複雑な暗渠を掻い潜って汚れた手段で汚い金を稼ぐ他に手段は無い。
それを自覚しているからこその殺し屋兼業便利屋だ。
恨みの一つや二つ、買ったとしても箔にもならない。
依頼人は常に安全で清廉で公明な地位と位置を守りたい。ゆえに殺し屋という、金で業を背負う殺し屋を雇う。
綺麗事を突き通すために、都合の良い使い捨ての駒である殺し屋風情に人権は無いに等しい。
情報屋と仲介業者に私設の組合は有っても、殺し屋の業界に組合やそれに類する存在は無い。
替えは幾らでも居る。
プロフィールが違うと言うだけで、美奈と同レベルやそれ以上の殺し屋が、美奈より安い報酬で仕事を請け負う案件や事案は幾らでも存在する。
そんな殺し屋の地位改善を要求する事も出来ずに、要求するという発想すら到らずに、憂さ晴らしの酒を呷る。
行き付けのバーでボトルをキープしてもあまり意味は無い。
直ぐに呑みきってしまう。
直ぐに命が消える危険が有るのだ。
ボトルを確保してまで味わって愉しむ余裕は無い。
行き付けのバーで今夜も呑む。先日のテナントビル襲撃は結果的には成功裏に終わる。
報酬も約束通りに振り込まれた。その金は羽が生えたように各所への支払いで消えていった。
古来より、貨幣や札の事を『お足』と呼ぶ風潮があった。まるで足が生えて財布から走って逃げいくように少なくなる事から付けられた金に対するニックネームだが、よく思いつかれた呼び方だと感心する。
……そんな下らないことに脳内のタスクを使用してしまうほどに、彼女は疲れていた。
疲れを癒すのは酒だ。
安くても良い。
封を切ったばかりの酸化が進んでいない酒ならば、何でも良かった。厳密には好物の一つである国産ブレンドのウイスキーなら何でも良かった。
一人で寂しい祝勝会を開いてやや高級な国産シングルモルトを粋に傾けて乾杯とタンブラーを呷ったのは最初だけだった。
直ぐに酒に溺れた。直ぐに安い酒で満足だと気が付いた。
どんなに呑んでも砂に水を撒くように、ザルで水を掬うように無意味に酒は通り過ぎる。
喉の渇きは充分に癒されても、恐怖を紛らわせるのにはドラム缶1本分呑んでも無駄に思えるほどに不足だった。
正体を無くすほどに呑む。
いつも閉店の時間に店長に肩を揺さぶられて起きる。
時計を見ると必ず午前4時。
千鳥足でドヤ街に向かい、安ホテルで半日以上眠った後、水を腹一杯飲んで吐き戻し、体力が回復した後に、自家用車のフェスティバで帰宅する。
全ては恐怖が悪いのだと自分を欺瞞する。
本当に恐怖が悪いのか? 少なくとも娘は悪くは無い。答えは最初から解っている。
暗黒社会にしか馴染めなかった自分が悪いのだ。
憂さと恐怖と不満を酒で晴らしているだけだ。
単純な仕組みで、何も思考を阻害する要素は無い。自分で自分の前に壁を作っているだけの臆病者だ。
よくもまあ、今までに職務質問されなかったものだ。
検問のルートを外してフェスティバを走らせているので、多少の遠回りになっても安全に家に着く。
安全に車庫入れができる。奇跡的な芸当。酒のせいで殆ど正常な判断は出来ないのに。
酒でふらつく足元を奥歯を食い縛って踏み、自宅へ辿り着くとまたも水を飲み、軽く吐いてから泥のように眠る。
そして丸一日眠ってから空腹と用便に促され、重い体に気合を入れて起き上がる。
自分の進退は愚か、身体の置き場すら、酒が無ければまともに判断出来ない体になった。
アルカセルツァーの世話になりながら脱ぎ散らかした衣服を片付けて、たまにうっかり家に持って帰って来るオートマグⅢに胆を冷やされながら、善良な市民を演じる。
この生活に疲労は感じない。
疲労は酒が有耶無耶にしてくれる。
恐怖も不安も纏めて有耶無耶にしてくれる。
生活に圧迫を感じる前に新しい依頼を請け負い、銃弾を撒き散らし、酒を呑んでお終いだ。
その単純なローテーションの中に疲労が入る余地は無い。
美奈自身が自らの胆力と能力と反骨の優位点を間違えた方向に活かしているだけだ。
生まれる時代と生まれる家柄が違えば一角の人物として成功していたに違いない。
鬱屈。そんな物に用は無い。
鬱憤。クソの役にも立たない。
鬱積。全くの無意味。
鬱の字で始まる全ての事象は酒を呑む肴程度の笑い話だ。
どんなにその場所で停滞しても何も進まない。進むも退くも選ぶのは自分だ。結果として娘に胸が張れる真似をしていない母親だっただけで、全ては彼女の判断だ。
それは理解している。
大概にして、この世に正しい選択肢など存在しない。
選んだルートを自分にとって正しかったと思わせる努力が必要なだけだ。
美奈の場合で言えば、酒を呑まなかったら良かったという判断は無い。酒を呑んだからこそ忘れる事が出来たと考える。
その果てに悪い母親の自分が出来上がっても、娘の美津乃にこうなったのはあなたの所為よ、と恨み節をぶつけることは絶対に無い。寧ろ、悪い母親に成り下がった分だけ生き永らえて美津乃と同じ時間を過ごす事を目標にする。
幼い娘が死を真正面に据えて戦っているのだ。
親が死に屈してどうする。
ならば親も文字通りの死に直面して戦わなければ、親らしいことの何も果たせない。
美奈の解釈と理解と把握は自分だけの世界でしか通用しない理論であるのは解っている。
それでも、心のどこかに有る性善説や正論に気付くと、自分が自分でなくなってしまう気がする。
恐怖では無い。
臆病ゆえの欺瞞工作だ。
目的と手段が入れ違わないために自分を押し殺した。
押し殺した世界が暗黒社会だった。
暗黒社会は自分のホームグランドだった。ホームグランドでは名の通った殺し屋だった。殺し屋が必要とされる世界での彼女は重宝された。
それだけのことだ。
単純な論法が積み重なった結果、今の彼女ができた。
酒を呑んでいるか銃弾をばら撒いているかの彼女。
裏と表の顔を使い分けて献身的な母親を貫く彼女。
誰も何者も彼女を非難できない。非難できるだけの資格を持った者が居るとすれば、それは鏡に映る自分自身だ。
美奈は台所でアルカセルツァーを全て嚥下すると渋面を引き摺りながら、刺す様に痛むコメカミを揉んで2階の自室に戻り、吊り下げたスーツの右ポケットから薄く平べったい四角い缶とアーマーモデルのジッポーを持ってベランダに出る。
まだ寒い時期。肩に丹田を掛けて頭にニット帽を被る。
ベランダの隅にべたりと足を投げ出して座る。密閉式のポケット灰皿を取り出し、平たい缶の中身を取り出して口に銜える。
機械巻きの細巻き葉巻、シガリロだ。
ブランドはカフェクレーム。名前の割りにコーヒーやクリームの味はしない。
王道なインドネシア葉を多用した葉巻の一種だ。このような見た目が紙巻煙草より短いシガリロは葉巻に興味を持った初心者が遠慮して購入しそうなデザインだが、実際は違う。
それは、ヘビーな葉巻愛好家が短時間で少しだけ葉巻を味わうために作られているので濃厚な味だ。
実際は初心者や入門者には不向きなのだ。
どのようなタバコも口から火種が遠ければ遠いほど味はマイルドになる。カフェクレームより常喫のダッチマスターコロナデラックスの方が味は格段にマイルドなのだ。ライトと言ってもいい。
生き延びならなければならぬ使命を帯びておきながら、決して明るい路を歩く事ができない彼女には、深く複雑な暗渠を掻い潜って汚れた手段で汚い金を稼ぐ他に手段は無い。
それを自覚しているからこその殺し屋兼業便利屋だ。
恨みの一つや二つ、買ったとしても箔にもならない。
依頼人は常に安全で清廉で公明な地位と位置を守りたい。ゆえに殺し屋という、金で業を背負う殺し屋を雇う。
綺麗事を突き通すために、都合の良い使い捨ての駒である殺し屋風情に人権は無いに等しい。
情報屋と仲介業者に私設の組合は有っても、殺し屋の業界に組合やそれに類する存在は無い。
替えは幾らでも居る。
プロフィールが違うと言うだけで、美奈と同レベルやそれ以上の殺し屋が、美奈より安い報酬で仕事を請け負う案件や事案は幾らでも存在する。
そんな殺し屋の地位改善を要求する事も出来ずに、要求するという発想すら到らずに、憂さ晴らしの酒を呷る。
行き付けのバーでボトルをキープしてもあまり意味は無い。
直ぐに呑みきってしまう。
直ぐに命が消える危険が有るのだ。
ボトルを確保してまで味わって愉しむ余裕は無い。
行き付けのバーで今夜も呑む。先日のテナントビル襲撃は結果的には成功裏に終わる。
報酬も約束通りに振り込まれた。その金は羽が生えたように各所への支払いで消えていった。
古来より、貨幣や札の事を『お足』と呼ぶ風潮があった。まるで足が生えて財布から走って逃げいくように少なくなる事から付けられた金に対するニックネームだが、よく思いつかれた呼び方だと感心する。
……そんな下らないことに脳内のタスクを使用してしまうほどに、彼女は疲れていた。
疲れを癒すのは酒だ。
安くても良い。
封を切ったばかりの酸化が進んでいない酒ならば、何でも良かった。厳密には好物の一つである国産ブレンドのウイスキーなら何でも良かった。
一人で寂しい祝勝会を開いてやや高級な国産シングルモルトを粋に傾けて乾杯とタンブラーを呷ったのは最初だけだった。
直ぐに酒に溺れた。直ぐに安い酒で満足だと気が付いた。
どんなに呑んでも砂に水を撒くように、ザルで水を掬うように無意味に酒は通り過ぎる。
喉の渇きは充分に癒されても、恐怖を紛らわせるのにはドラム缶1本分呑んでも無駄に思えるほどに不足だった。
正体を無くすほどに呑む。
いつも閉店の時間に店長に肩を揺さぶられて起きる。
時計を見ると必ず午前4時。
千鳥足でドヤ街に向かい、安ホテルで半日以上眠った後、水を腹一杯飲んで吐き戻し、体力が回復した後に、自家用車のフェスティバで帰宅する。
全ては恐怖が悪いのだと自分を欺瞞する。
本当に恐怖が悪いのか? 少なくとも娘は悪くは無い。答えは最初から解っている。
暗黒社会にしか馴染めなかった自分が悪いのだ。
憂さと恐怖と不満を酒で晴らしているだけだ。
単純な仕組みで、何も思考を阻害する要素は無い。自分で自分の前に壁を作っているだけの臆病者だ。
よくもまあ、今までに職務質問されなかったものだ。
検問のルートを外してフェスティバを走らせているので、多少の遠回りになっても安全に家に着く。
安全に車庫入れができる。奇跡的な芸当。酒のせいで殆ど正常な判断は出来ないのに。
酒でふらつく足元を奥歯を食い縛って踏み、自宅へ辿り着くとまたも水を飲み、軽く吐いてから泥のように眠る。
そして丸一日眠ってから空腹と用便に促され、重い体に気合を入れて起き上がる。
自分の進退は愚か、身体の置き場すら、酒が無ければまともに判断出来ない体になった。
アルカセルツァーの世話になりながら脱ぎ散らかした衣服を片付けて、たまにうっかり家に持って帰って来るオートマグⅢに胆を冷やされながら、善良な市民を演じる。
この生活に疲労は感じない。
疲労は酒が有耶無耶にしてくれる。
恐怖も不安も纏めて有耶無耶にしてくれる。
生活に圧迫を感じる前に新しい依頼を請け負い、銃弾を撒き散らし、酒を呑んでお終いだ。
その単純なローテーションの中に疲労が入る余地は無い。
美奈自身が自らの胆力と能力と反骨の優位点を間違えた方向に活かしているだけだ。
生まれる時代と生まれる家柄が違えば一角の人物として成功していたに違いない。
鬱屈。そんな物に用は無い。
鬱憤。クソの役にも立たない。
鬱積。全くの無意味。
鬱の字で始まる全ての事象は酒を呑む肴程度の笑い話だ。
どんなにその場所で停滞しても何も進まない。進むも退くも選ぶのは自分だ。結果として娘に胸が張れる真似をしていない母親だっただけで、全ては彼女の判断だ。
それは理解している。
大概にして、この世に正しい選択肢など存在しない。
選んだルートを自分にとって正しかったと思わせる努力が必要なだけだ。
美奈の場合で言えば、酒を呑まなかったら良かったという判断は無い。酒を呑んだからこそ忘れる事が出来たと考える。
その果てに悪い母親の自分が出来上がっても、娘の美津乃にこうなったのはあなたの所為よ、と恨み節をぶつけることは絶対に無い。寧ろ、悪い母親に成り下がった分だけ生き永らえて美津乃と同じ時間を過ごす事を目標にする。
幼い娘が死を真正面に据えて戦っているのだ。
親が死に屈してどうする。
ならば親も文字通りの死に直面して戦わなければ、親らしいことの何も果たせない。
美奈の解釈と理解と把握は自分だけの世界でしか通用しない理論であるのは解っている。
それでも、心のどこかに有る性善説や正論に気付くと、自分が自分でなくなってしまう気がする。
恐怖では無い。
臆病ゆえの欺瞞工作だ。
目的と手段が入れ違わないために自分を押し殺した。
押し殺した世界が暗黒社会だった。
暗黒社会は自分のホームグランドだった。ホームグランドでは名の通った殺し屋だった。殺し屋が必要とされる世界での彼女は重宝された。
それだけのことだ。
単純な論法が積み重なった結果、今の彼女ができた。
酒を呑んでいるか銃弾をばら撒いているかの彼女。
裏と表の顔を使い分けて献身的な母親を貫く彼女。
誰も何者も彼女を非難できない。非難できるだけの資格を持った者が居るとすれば、それは鏡に映る自分自身だ。
美奈は台所でアルカセルツァーを全て嚥下すると渋面を引き摺りながら、刺す様に痛むコメカミを揉んで2階の自室に戻り、吊り下げたスーツの右ポケットから薄く平べったい四角い缶とアーマーモデルのジッポーを持ってベランダに出る。
まだ寒い時期。肩に丹田を掛けて頭にニット帽を被る。
ベランダの隅にべたりと足を投げ出して座る。密閉式のポケット灰皿を取り出し、平たい缶の中身を取り出して口に銜える。
機械巻きの細巻き葉巻、シガリロだ。
ブランドはカフェクレーム。名前の割りにコーヒーやクリームの味はしない。
王道なインドネシア葉を多用した葉巻の一種だ。このような見た目が紙巻煙草より短いシガリロは葉巻に興味を持った初心者が遠慮して購入しそうなデザインだが、実際は違う。
それは、ヘビーな葉巻愛好家が短時間で少しだけ葉巻を味わうために作られているので濃厚な味だ。
実際は初心者や入門者には不向きなのだ。
どのようなタバコも口から火種が遠ければ遠いほど味はマイルドになる。カフェクレームより常喫のダッチマスターコロナデラックスの方が味は格段にマイルドなのだ。ライトと言ってもいい。