無明の瑕
渋面。
苦い顔。
苦い物を飲み込んだ様な顔。
ネット上のフリー辞書の参考画像に渋面の典型例を画像として添付するのなら、今の彼女の顔が最適だったろう。それほどに見事な渋面でガラスコップの内容物を嚥下した。
南条美奈(なんじょう みな)がこの世の濁悪を全て飲み込んだ顔の直接の元凶となったのは、二日酔いの頭痛を沈静させるアスピリン配合のアルカセルツァーを一気にガラスコップを半分以上飲み込んだからだ。
そして二日酔いの元凶を作ったのは、自分の不手際を呪って深酒をした事が原因だった。
南条美奈。
この界隈の闇社会では良くも悪くも名前の通った殺し屋だった。……そう。殺し屋だった。
今では、その時の伝を頼りに何でも屋を引き受けている、ただの便利屋でしかない。
31歳の若輩ながら優れた身体能力と潜在的能力を駆使してあらゆる依頼を全うしてきたのは……10年も昔の話だ。
10年あれば、銃弾を度数の高いと酒と飲み干してしまうのに充分な時間だと言えた。
殺し屋ともあろう者が寿退職で綺麗に、この黒一色の世界から足を洗おうと逃げ出そうとしたばかりに降りかかった災厄。
その災厄を振り払うために、またも殺し屋界隈がひしめく暗黒社会に戻ってきた。
14歳から始めた殺し屋稼業。
21歳の時に一晩だけを供にした男との間に生まれた娘のために殺し屋稼業を廃業して、善良な市民に成り上がろうとした。
どうしても殺し屋としての才覚と腕前が必要なクライアントは、美奈の男を誘拐し、拷問に掛けると脅したが、自分の、入籍もしていない男よりも自分が腹を痛めた娘の命を優先した。
結果、男は殺された。
それでも美奈は暗黒社会に戻ろうとはしなかった。
彼女に転機が訪れたのは……否、災厄が訪れたのは、娘が2歳になった頃だった。
娘の美津乃(みつの)に重大な心臓病が発見された。
国内での手術は法律上のハードルが高過ぎて不可能だった。海外なら可能。だが、先立つものが無い。
彼女がカムバックを果たしてしまった理由はそれだった。
金が欲しい。
嘗ての殺し屋稼業なら幾らでも金が稼げる。
捨てたはずの拳銃を掘り返して手に取るまで大した時間は掛からなかった。
金は入る。
人を殺せば金は入る。
だが、出る金も大きい。
ガンマンと紙一重の殺し屋だった彼女が、何でもこなす便利屋を名乗るようになったのはつい最近のことだ。殺し屋稼業だけでは稼げない。稼ぐ額面は知れている。だから暖簾を広げたのだ。
殺し屋兼業の便利屋。
それが南条美奈の職業。
勿論、黄色い電話帳には掲載されていない。
元の殺し屋の腕を買われた荒事がメインの命の大安売りだが、彼女は死ねない。死ぬ訳にはいかない。
彼女が体を削って稼いだ金は今年10歳になったばかりの娘の生命維持にことごとく注ぎ込まれている。
その余った金で生活の足しにしている。
嘗てのあらゆる伝は彼女のカムバックを歓迎してくれた。
彼女は真っ先に、庭で一番大きな植木鉢の下に有る土を掘り返して二度と握らないと誓った相棒を取り上げ、そのグリップを握った。
相変わらずのグリッピング。
握るというよりしがみついているという形容が相応しい……彼女が蘇った事を祝福する最初の花火は、彼女の伴侶となるはずの男を殺したクライアントの破裂した頭部だった。
便利屋という看板を掲げてはいるが、殺し屋としての職業をカモフラージュする以上の役目はなく、依頼内容の殆どが殺人だった。
迅速、確実、丁寧な殺人の案件だった。
彼女が錆びかけていた腕前を磨き直すのに充分な鉄火場と時間が経過した。
酒と共に飲み込んだはずの銃弾が、朝起きると、ベッドサイドに並んでいた気分だ。
小さな民家。築25年の、駅徒歩20分の民家。
猥雑な住宅街の中にひっそりと佇む中古物件だったが、美奈にとっては誰にも譲れない大事な物件だ。
何しろ、美奈と一生を誓った男が遺してくれた土地と家屋だ。
男は形だけの新婚生活を愉しむ間も無く殺されてしまった。だが、今は美奈が居る。
やがて美奈の娘の美津乃が戻ってくる。雀の涙のような生活費はこの家を守る為の諸経費として無常にも消えていく。
21歳で子供が出来たので殺し屋を退職。
旦那となるはずの男は殺し屋稼業に戻らせたがる勢力によって拷問死させられる。それは半分、報復だろう。
それでも安穏な生活を捨てなかったが、子供が幼い時分に重大な病に冒されても金が必要。
リハビリを兼ねた殺し屋復帰案件として旦那となるはずの男を殺した連中を殺害。10歳になる娘の命を繋ぐ為に23歳から殺し屋に復帰。復帰はしたが殺し屋だけで廻る業界ではなくなっていたので、便利屋も兼業で開いた。
……これが南条美奈という人物の簡単な身の上調書だ。
さらに言えば彼女の最終学歴は小学校だ。
中学校を正式に卒業した形跡は見当たらない。
美奈の実家自体が家族として崩壊しており、彼女は施設に引き取られた。
その施設でも凄惨な虐めと職員による虐待が横行しており、13歳の時に自分の貞操を無理矢理奪った施設の上級生を包丁で刺して飛び出した。
施設で起きた事件は表沙汰にはされなかった。
問題が蔓延る施設だという事がばれてしまえば司直の手が入り、所長の使途不明金にまで捜査が及ぶので刺傷された中学生は後日に死亡したが事故死で片付けられた。
その美奈という人物。
今日は二日酔いでアルカセルツァーに頼って頭痛を鎮めている最中だった。
昨夜の仕事でしくじったために気を紛らわせるのに、ツケで呑める店で浴びるように酒を呑んで憂さを晴らして帰宅し、起きてみるとこの様だ。
アルカセルツァーとは水に溶かして飲む発泡薬だ。日本では薬事法の関係から輸入されていない代物だ。
発泡性の駄菓子を水で溶いた、味のしない不快な酸味が口中を走り回り思わず渋面となってしまう。
二日酔いで気分が悪いのに、更に気分が悪くなる因子を自分で飲み込むのだ。良薬は口に苦しとは言うが、今は大人しくその言葉に従うしかない。
台所。キッチンというほど洗練されていない。
そのシンクを前にして、顔を青くしている美奈。
磨けばまだまだ光り輝く原石だと言うのに、その磨く時期を完全に逃した原石のままの美貌。
青い顔にやつれた翳りが差す。皮肉にもそれが美奈の美貌をソリッドに浮き彫りにする。
折角の精悍な輪郭に納まった鋭く尖った美貌も活かされていない。
筆で引いたような眉に微細に仕上げた鼻筋と眼の掘り。小さな造りの唇から顎先にかけての流麗なライン。男ならば片手でへし折ることが出来そうな頚部から形成される項。
顔色は青くとも健康的で血色の良い体表の肌は肌理が細かく、10代後半20代前半でも充分に通用する。
スレンダーな体形の170cmの体躯。
長身だが、何かしらの陸上競技で鍛え上げたが如く、弛みの無い筋骨が衣服の上からでも窺える。
肢体を露にすればきっとそのプロポーションと同じくらいに彼女の体の仕上がり具合に感嘆の声を挙げるだろう。
飾りっ気の無い黄色のトレーナーに黒のトレーニングパンツ。彼女の部屋着だ。
背中の中ほどまで有る、セミロングを伸ばしたままのロングヘアをまとめ、質素なシュシュでポニーテール状に纏めてある。
美容室でカットしている時間が無いのか、無造作なロングヘアが逆に彼女の印象を強くしていた。
黒髪の艶が消えかけているので、さながら、今の彼女の体調を表現しているようだった。
苦い顔。
苦い物を飲み込んだ様な顔。
ネット上のフリー辞書の参考画像に渋面の典型例を画像として添付するのなら、今の彼女の顔が最適だったろう。それほどに見事な渋面でガラスコップの内容物を嚥下した。
南条美奈(なんじょう みな)がこの世の濁悪を全て飲み込んだ顔の直接の元凶となったのは、二日酔いの頭痛を沈静させるアスピリン配合のアルカセルツァーを一気にガラスコップを半分以上飲み込んだからだ。
そして二日酔いの元凶を作ったのは、自分の不手際を呪って深酒をした事が原因だった。
南条美奈。
この界隈の闇社会では良くも悪くも名前の通った殺し屋だった。……そう。殺し屋だった。
今では、その時の伝を頼りに何でも屋を引き受けている、ただの便利屋でしかない。
31歳の若輩ながら優れた身体能力と潜在的能力を駆使してあらゆる依頼を全うしてきたのは……10年も昔の話だ。
10年あれば、銃弾を度数の高いと酒と飲み干してしまうのに充分な時間だと言えた。
殺し屋ともあろう者が寿退職で綺麗に、この黒一色の世界から足を洗おうと逃げ出そうとしたばかりに降りかかった災厄。
その災厄を振り払うために、またも殺し屋界隈がひしめく暗黒社会に戻ってきた。
14歳から始めた殺し屋稼業。
21歳の時に一晩だけを供にした男との間に生まれた娘のために殺し屋稼業を廃業して、善良な市民に成り上がろうとした。
どうしても殺し屋としての才覚と腕前が必要なクライアントは、美奈の男を誘拐し、拷問に掛けると脅したが、自分の、入籍もしていない男よりも自分が腹を痛めた娘の命を優先した。
結果、男は殺された。
それでも美奈は暗黒社会に戻ろうとはしなかった。
彼女に転機が訪れたのは……否、災厄が訪れたのは、娘が2歳になった頃だった。
娘の美津乃(みつの)に重大な心臓病が発見された。
国内での手術は法律上のハードルが高過ぎて不可能だった。海外なら可能。だが、先立つものが無い。
彼女がカムバックを果たしてしまった理由はそれだった。
金が欲しい。
嘗ての殺し屋稼業なら幾らでも金が稼げる。
捨てたはずの拳銃を掘り返して手に取るまで大した時間は掛からなかった。
金は入る。
人を殺せば金は入る。
だが、出る金も大きい。
ガンマンと紙一重の殺し屋だった彼女が、何でもこなす便利屋を名乗るようになったのはつい最近のことだ。殺し屋稼業だけでは稼げない。稼ぐ額面は知れている。だから暖簾を広げたのだ。
殺し屋兼業の便利屋。
それが南条美奈の職業。
勿論、黄色い電話帳には掲載されていない。
元の殺し屋の腕を買われた荒事がメインの命の大安売りだが、彼女は死ねない。死ぬ訳にはいかない。
彼女が体を削って稼いだ金は今年10歳になったばかりの娘の生命維持にことごとく注ぎ込まれている。
その余った金で生活の足しにしている。
嘗てのあらゆる伝は彼女のカムバックを歓迎してくれた。
彼女は真っ先に、庭で一番大きな植木鉢の下に有る土を掘り返して二度と握らないと誓った相棒を取り上げ、そのグリップを握った。
相変わらずのグリッピング。
握るというよりしがみついているという形容が相応しい……彼女が蘇った事を祝福する最初の花火は、彼女の伴侶となるはずの男を殺したクライアントの破裂した頭部だった。
便利屋という看板を掲げてはいるが、殺し屋としての職業をカモフラージュする以上の役目はなく、依頼内容の殆どが殺人だった。
迅速、確実、丁寧な殺人の案件だった。
彼女が錆びかけていた腕前を磨き直すのに充分な鉄火場と時間が経過した。
酒と共に飲み込んだはずの銃弾が、朝起きると、ベッドサイドに並んでいた気分だ。
小さな民家。築25年の、駅徒歩20分の民家。
猥雑な住宅街の中にひっそりと佇む中古物件だったが、美奈にとっては誰にも譲れない大事な物件だ。
何しろ、美奈と一生を誓った男が遺してくれた土地と家屋だ。
男は形だけの新婚生活を愉しむ間も無く殺されてしまった。だが、今は美奈が居る。
やがて美奈の娘の美津乃が戻ってくる。雀の涙のような生活費はこの家を守る為の諸経費として無常にも消えていく。
21歳で子供が出来たので殺し屋を退職。
旦那となるはずの男は殺し屋稼業に戻らせたがる勢力によって拷問死させられる。それは半分、報復だろう。
それでも安穏な生活を捨てなかったが、子供が幼い時分に重大な病に冒されても金が必要。
リハビリを兼ねた殺し屋復帰案件として旦那となるはずの男を殺した連中を殺害。10歳になる娘の命を繋ぐ為に23歳から殺し屋に復帰。復帰はしたが殺し屋だけで廻る業界ではなくなっていたので、便利屋も兼業で開いた。
……これが南条美奈という人物の簡単な身の上調書だ。
さらに言えば彼女の最終学歴は小学校だ。
中学校を正式に卒業した形跡は見当たらない。
美奈の実家自体が家族として崩壊しており、彼女は施設に引き取られた。
その施設でも凄惨な虐めと職員による虐待が横行しており、13歳の時に自分の貞操を無理矢理奪った施設の上級生を包丁で刺して飛び出した。
施設で起きた事件は表沙汰にはされなかった。
問題が蔓延る施設だという事がばれてしまえば司直の手が入り、所長の使途不明金にまで捜査が及ぶので刺傷された中学生は後日に死亡したが事故死で片付けられた。
その美奈という人物。
今日は二日酔いでアルカセルツァーに頼って頭痛を鎮めている最中だった。
昨夜の仕事でしくじったために気を紛らわせるのに、ツケで呑める店で浴びるように酒を呑んで憂さを晴らして帰宅し、起きてみるとこの様だ。
アルカセルツァーとは水に溶かして飲む発泡薬だ。日本では薬事法の関係から輸入されていない代物だ。
発泡性の駄菓子を水で溶いた、味のしない不快な酸味が口中を走り回り思わず渋面となってしまう。
二日酔いで気分が悪いのに、更に気分が悪くなる因子を自分で飲み込むのだ。良薬は口に苦しとは言うが、今は大人しくその言葉に従うしかない。
台所。キッチンというほど洗練されていない。
そのシンクを前にして、顔を青くしている美奈。
磨けばまだまだ光り輝く原石だと言うのに、その磨く時期を完全に逃した原石のままの美貌。
青い顔にやつれた翳りが差す。皮肉にもそれが美奈の美貌をソリッドに浮き彫りにする。
折角の精悍な輪郭に納まった鋭く尖った美貌も活かされていない。
筆で引いたような眉に微細に仕上げた鼻筋と眼の掘り。小さな造りの唇から顎先にかけての流麗なライン。男ならば片手でへし折ることが出来そうな頚部から形成される項。
顔色は青くとも健康的で血色の良い体表の肌は肌理が細かく、10代後半20代前半でも充分に通用する。
スレンダーな体形の170cmの体躯。
長身だが、何かしらの陸上競技で鍛え上げたが如く、弛みの無い筋骨が衣服の上からでも窺える。
肢体を露にすればきっとそのプロポーションと同じくらいに彼女の体の仕上がり具合に感嘆の声を挙げるだろう。
飾りっ気の無い黄色のトレーナーに黒のトレーニングパンツ。彼女の部屋着だ。
背中の中ほどまで有る、セミロングを伸ばしたままのロングヘアをまとめ、質素なシュシュでポニーテール状に纏めてある。
美容室でカットしている時間が無いのか、無造作なロングヘアが逆に彼女の印象を強くしていた。
黒髪の艶が消えかけているので、さながら、今の彼女の体調を表現しているようだった。
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