人を喰う噺

 スプリングの利いていない4人掛けのソファが1つに1人掛けが3つ。
 何れもメーカーはバラバラ。粗大ゴミで捨てられる予定の物を拾ってきた雰囲気は拭えない。
 午前7時。
 左手のウエンガーのダイバーズウォッチが静かに時間を報せる。
 昨夜の銃撃戦で久々に胆を冷やされた。
 一方的に撃たれて、一方的に遁走を図っただけの銃撃戦。
 25歳の身空で経験するには密度が濃い。空を穿つ弾頭の1発でも頭に命中すれば命は無いのだ。
 4人掛けのソファ。昨夜はここに倒れこんだまま塒に駆け込むことなく寝息を立ててしまった。
 ジャケットをハンガーに掛けてベルトを緩めて靴を脱ぎ、ショルダーホルスターのハーネスを外しただけの恰好で、このソファに倒れこんで寝落ちした。
 酷い顔。
 恐らく酷い顔なのだろう。
 自分でも疲労が抜けていないのを実感する。厳密に言えば疲労感だ。肉体疲労は回復しているが、精神的疲労は胆を冷やされたままでストレスとなり蓄積されている。
 170cmの体躯。標準的な女性的体つき。丸みを帯びた尻のラインを中心にYシャツ越しに薄っすらと彼女のボディが窺える。
 活動的なスポーツブラに包まれた、辛うじてCカップのバスト。彼女自身は人目を惹かない慎ましい自分の胸を気に入っている。自惚れなどではなく、この業界では目立つ外見はそれだけで大きなウイークポイントだ。
 上半身と下半身を繋ぐウエストだけは誤魔化しようもなく、引き締まって整っている。
 腰周りの筋肉のコーティング具合を見るだけで彼女の下半身と背筋を中心に広がる筋肉繊維の強靭さと柔軟さが想像できる……実戦でのみ鍛えられた、素材だけの運動能力。
 ボサボサの髪を手櫛で梳くとゴムで束ねる。
 美容室へ行くのを不精している、伸び気味の、セミロングの明るいブラウンに染めた髪がたちどころにポニーテールにまとめ上げられ、スポーティな印象を与える横顔が現れる。
 美人というより魅力的な風貌。
 そんな顔が給湯室に置かれた小さな鏡に映っている。
 給湯室は割りと万能で塒に戻らなくとも、このコーナーが有るだけで一気に生活力が上がる。ミニキッチンの設備がそれを後押ししているのだ。……塒に戻るのはシャワーを浴びる時だけの事も多い。
 台所兼用の洗面所である給湯室で就寝前に落としていないメイクを落として再びメイク。……一見すると素材を活かすメイク。実際は目立ちたくないので地味なメイクで済ませている。
 化粧について無頓着というのではなく、道を行く人々の印象に残りたくないだけだ。
 衣服の印象は脳内に残り易いが、メイクの差から生まれる印象は同性からでも意外と印象に残り難い。
 ここに髪型や衣服でのイメージチェンジを交えれば尚更だ。
 部屋の片隅に有る、ビルの柱を利用した角で伸縮式パーテーションを延ばし、その壁側に置いてあるスチールロッカーを開けて衣服を選んで身を包む。
 薄手のオレンジのパーカーにチェック柄の開襟シャツ、膝が掠れたジーンズパンツという出で立ちだ。
 拳銃を携行する手前、上着は季節を問わずに手放せない。
 ただの雇われ探偵でも恨みを買うことは多い。
 14連発のダブルカアラムが差し込まれたポーチが3つ連なった予備マガジンポーチをベルトに通して表に出る。
 コンビニ弁当を求めての出立だ。……彼女が探偵事務所の所長になってから、上層のヤクザからのコンビニ弁当の供給は突然、無くなった。
 一応警戒して毎日ランダムなコースを歩き、毎日違うコンビニで買い物を済ませる。出発する時間もランダムだ。ついでにいうと機動力――徒歩。自転車。原付バイク――もランダムだ。
   ※ ※ ※
「は?」
 早職は思わず間抜けな声で返答してしまった。
 クライアントの依頼内容が奇怪を極めている。
 寧ろお門違いだ。それならそこの店がいいですよ、と道案内をしてやりたい気分だった。
 クライアントは暴力団員。
 それも地回りの三下。
 地上げを押しつけられたはいいが、暴力団に対する風当たりの強さと公安のマークからどうしても、買い叩けない店舗が有るので地上げの手伝いをして欲しいとの事だ。
 どうせこの依頼も上位組織から「困った事が有ればここを頼れ」と紹介されたのだろう。
 いままでこの私立探偵事務所を頼らなかったのは女の細腕で経営する、ましてや、私立探偵という看板を背負った門外漢に頼る事を恥とする心意気が有ったのだろう。
 地上げ活動は自分達の分野だというのに、門外漢に浚われては商売が成り立たないばかりか自分達の信頼の失墜に繋がる。
 クライアントである20代後半と思しき青年の前に置いた簡易ドリップコーヒーの湯気が消えて久しい。
 一通りの依頼を聞いてから間抜けな声を発し、時計の秒針が何周したのか解らない。
 私立探偵という看板を下ろして、便利屋や万ず屋の看板を挙げようかと割と本気で考える。
 探偵業に相応しい依頼が舞い込まないのがこの探偵社の難点だ。
 女絡みでなくとも先代の社長は夜逃げしていたのかもしれない。
 そもそも、あの社長がどのような調査を得意としていたのかさえ不明なのだ。
 昨夜の銃撃戦のようなキナ臭い展開だけは避けたい。
 拳銃は持っているが、持っているだけだ。『童貞』はとっくの昔に捨てたが、あの肉袋に弾頭がめり込む、ビチャッとした水音だけは耳から離れない。
 何度聴いても嫌な音だ。
 あの音が聞こえるという事は1人の人間が死ぬ事を意味する。
 死神の鎌の隙間から放つ銃弾同士がぶつかる経験は1度や2度ではない。
 1cmずれていたらこちらが死んでいた。
 コンマ数秒早く撃たなければ撃たれていた。
 撃った最後の弾が相手のバイタルゾーンに命中していなかったら呆気なく反撃されて蜂の巣になっていた……。
 潜りたくない鉄火場を潜ってしまう星の下に生まれたらしい。
 ゆえに『平和的解決』を模索しながら、テーブルを挟んで向こうに座る青年を見た。
 いかにもなヤクザのレッテルを貼られそうな紫のスーツに身を包み黒のシャツに、自然気味なリーゼントで髪を固めていたが、サングラスの下の視線が挙動不審。
 その三下は逃げる先を探るようにコーヒーが入った来客用カップを取り、喉を鳴らしてコーヒーを呷る。
 見ていて……哀れだった。
 地上げをスムーズに行うために門外漢の女の腕前に頼る本職のヤクザ。
 こんなに滑稽な絵面はない。
 三下が持参した地図がちらりと目に入る。
――――ん?
――――あ、何とかなるかも!
 地図には標的の店舗が赤いマジックで塗られていた。
 その周りが水色のマーカーで囲まれている。
 水色のマーカーは悪どい手段で陥落させて吸収した土地なのだろう。
「警察……ここの署の署長さんってあなたの『会社』で飼ってるんでしょ?」
「「はい……ですが……強欲で……シノギの取り分で折り合いがつかずに、ウチのボスと睨み合っているそうで……だから、トラックで突っ込むとか、鉄砲玉を差し向けるなんて事になると公安に売られてしまうかも……だから……だから面倒なんです」
 大きな体を小さくして、恥と実情を吐露する三下。
 憐憫を通り越し、一周廻って笑顔で「頑張れ!」と肩を叩いてやりたくなった。
 おもむろに電卓を叩き始める早職。
「……?」
 驚きと呆けが混じった顔の三下。
「必要経費にこれだけいただきます」
「こ、こんな……」
 何度も桁を数える三下。
 予想の範疇外の金額が表示されている。
 てっきり力技でさっさと、標的の店舗と土地の権利を持つ店主を軽く暗殺してくれるものばかりと思い込んでいたからだ。
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