人を喰う噺
駆け足。この上ないくらいの駆け足で階段を昇る。
2段飛びで駆ける。心臓が破裂しそうだ。
肺腑の全てが悲鳴を挙げている。もう少しで胃袋が空になるはずなのに、テンプラ蕎麦が食道を逆流しそうな不快感。それを嚥下。息苦しい。間に合えとしか願えない。
フィアットパンダの車内に放置された携帯電話のメインディスプレイには「前の塒で待ち伏せ」とだけ記された短い文面が表示されている。
FNブローニングBDCAを抜き放つ。
先ほどの銃撃戦で牽制として何発か撃った。
正確な弾数は覚えていない。
スライドは後退していない。
14連発のフルサイズマガジン。重心バランスから残弾を推し量る。5発。否、3発か。薬室を含めても5発もない。
タクティカルリロードを行うだけの精神的余裕がない。
探偵事務所。見慣れたドア。
看板も何も掛かっていない簡素なドア。
そこを蹴破らんばかりの勢いで開け放ち、待ち伏せ攻撃の危険性も顧みずに室内に踏み込む。
「……!」
床に、できたての、死体。
血の池がどんどん広がる死体。
今し方まで会話をしていた男の、この界隈では重要過ぎて国宝並みに語られていたらしい男の死体が転がっている。
頭蓋上部……後頭部に射出孔が開いて、珠玉の情報の全てが血液と共に流れ出ている。
飛び散った脳漿の破片を寄せ集めても復元は今の医学では不可能だ。そもそも死体に定義される彼に再び息吹を取り戻させるのは倫理的課題に直面する。
そして早職の銃口はこの男が座るべきだった社長の椅子に向けられる。
「…………」
女が首をうなだれさせて椅子に座ったまま絶命している。
胸部中央から大量の出血。
出血量自体は即座の致死には及ばないが、銃弾が命中した場所が悪かった。
位置からして胸骨を近距離から撃ち抜かれてショックを引き起こして死亡したのだろう。
再び視線だけを田沢始の亡骸に向ける。
田沢始の右手側数10cmの位置にベレッタM84FSが放り出されている。
女の死体……精気のない人相からでも竹居江利だと解る。
近寄らなくても充分に確認できた。
デスクの足元に、銃口から薄っすらと硝煙が昇る38口径のスナブノーズが鈍くシルバーに輝く。
照明のない部屋でアンブッシュを仕掛けるつもりの竹居江利は田沢始と相打ち。
本懐を遂げた竹居江利はそのまま絶命。
早職の構えるFNブローニングBDACの銃口が力無く垂れ下がり、夢遊病患者のように心許ない足取りでふらりと軸足のきびすが反転する。
刹那……。
生気を失って動向の灯りが消えていた早職の瞳に火が点る。
摩擦で靴の裏が煙を上げる。
振り返る。
速射。
スライドが後退して停止するまで4発の発砲。
4発。
『死体の恰好をした竹居江利』を仕留めるのには充分だった。
9mmパラベラムの弾頭は、今度こそ竹居江利の胸骨を破壊し、『血糊のパック諸共』蹂躙した。
本物の血液と偽物の血液が混じった飛沫が窓の外から差し込む街の明かりで美しくも毒々しく映える。
信じられないと言いたげな顔で……絶対に成功すると踏んでいた作戦が破られた悲鳴の顔で、彼女は早職をみている。
竹居江利の右手に握られた、セフティが解除された、撃鉄が起きた、薬室に実包が送り込まれた、コルトコマンダーよりも、弾数が定かでない、バランス感が最悪の珍妙奇ッ怪なカットダウンモデルの方が早かった。
嫌な音を聴いた。『死ぬ人間』の音だ。
たった一つの小さな違和感が増幅されて、殆ど動物的勘で反応した早職。
あと瞬き2回分遅ければ、凶弾に倒れていたのは早職の方だ。
違和感。その正体は……。
フィアットパンダ。
『左ハンドル』。
田沢始は『左利きだ。右手で即応できる拳銃は携行しない』。
即応するのなら左手で抜き放ち操作できる拳銃を選ぶ。
踵を返した時に田沢始の死体をみなかったら、『彼の左利き』を思い出さなかっただろう。
フィアットパンダは左ハンドルという、田沢始に都合のいい欧州車だと電流の速さで連想しなかったら早職は……誇張なしに死んでいた。
「……」
竹居江利も竹居江利で勝負を賭けていたのだ。
あと1mでも近寄られていたら、できたての死体を演じるメイクがばれていただろう。
彼女が直々に出張ってきたということは、本当に組織を破門されて全てを失い、心当たりのある男に関連する人間を連続で殺し続ける余裕も権力も財力もなくなったということだと推測できる。
自分を破滅させた心当りの一つを暗殺するつもりでこの事務所に乗り込んできたのだろうが……皮肉にもそれはビンゴで、皮肉にも嘗てのハニートラップの標的を仕留めて、その助手に仕留め返された。
竹居江利の暗殺行はここでお終い。
田沢始の情報屋の情報元としてはここでお終い。
竹居江利の暗殺と暗殺未遂と、田沢始の暗殺とその経緯はしばらくの間はこの業界で語られることだろう。
虚実が入り乱れ、眉唾に彩られ尾鰭背鰭がついて。
本当の脱力感に襲われる早職。
無気力と絶望感も伴う。
続けて、焦燥感と閉塞感が胸を引き裂き、人の言語をなさない慟哭を爆発させた。
余りにも馬鹿馬鹿しく、余りにも滑稽で、余りにも呆気ない。
竹居江利が待ち伏せていたのは早職。
目標は早職。
わざわざ、事務所への帰社を見計らって直前に拳銃自殺をした工作をして不意を衝き、早職を仕留めるはずが、そこへやってきたのは、全ての元凶である田沢始。
不意を衝かれたのは田沢始だった。
機転を利かせたのか偶然だったのか、竹居江利は隙だらけの田沢始を射殺。
貴重な情報が詰まっている脳味噌を破壊した。
状況から察するにベレッタM84FSは竹居江利が持ち込んだ擬装用で、本来は早職と撃ち合った状況を作り上げたかった。
しかし『先に田沢始を殺してしまった』。
車を降りるドアの音が聞こえ、咄嗟に彼の右手側に擬装用のベレッタM84FSを置き、部屋の中で見晴らしのいい社長の椅子に座り、自分の衣服に仕込んだ血糊パックを破いて偽装の血液を大量に流す。
足元に落ちていた38口径のスナブノーズで3発目の発砲。恐らく空砲だろう。
最初の1発は田沢始を射殺する本命。
2発目は撃ち合いの場を作り上げる反撃の空砲。
3発目は自分への致命的被弾を印象づける空砲の発砲。
2発目と3発目のいずれの空砲も速射で発砲したと思われる。
これで現場では『竹居江利と田沢始が合い撃ちを引き起こした、2発しか有効な銃弾が発砲されなかった』空間ができ上がる。
そして室内に踊りこんだ早職。
早々にカタがつくと思っていた竹居江利の唯一のミス。……田沢始は左利きという事柄を失念していた。
それを早職に思い出される前に撃ち殺そうと背後をみせる早職に銃口を向けようとしたが、早職の違和感が解明される速さの方が上手だった。
素早く振り向き様に9mmを叩き込んだ早職。
FNブローニングBDACは残弾の全てを竹居江利の血糊パックを仕込んだ胸部に全て叩き込まれて今度こそ死亡する。
あまりにも馬鹿馬鹿しく、あまりにも滑稽で、あまりにも呆気ない。
これで嗤わずして何を嗤おう。
そして何をそんなに激しく慟哭に暮れよう。
田沢始と特に語り合う内容はない。
寧ろ、語り合えば田沢始を射殺していたのは早職の方だろう。
だが、再開の喜びの欠片も分かち合う暇もなく、彼は……彼という生命と存在は地下社会の情報の一欠片として生きるのみとなったのだ。
悲しいのか怒りなのか。笑えばいいのか泣けばいいのか。
この時の感情は一生消えない。
※ ※ ※
しばらは火消しに忙しいはずの毎日を送るはずだったが、地元暴力団が肩代わりをしてくれた。
親切心や義侠心で肩代わりをしたのではない。
今まで通りに都合のいい探偵であることを交換条件とした。
それだけではない。火消しにかかった費用も借金に上乗せして請求してきた。
ヤクザはどこまで行ってもヤクザだ。
尻の毛まで毟り取るとは的確な表現だ。
いつまでも火が消えたままでは借金の返済もできぬと、自分を奮い立たせたのは1週間後のこと。
田沢始に深い思い入れがあったわけではない。
竹居江利の末期の声無き断末魔が耳から離れないのではない。
ただの八つ当たり、私怨、逆恨みから始まった復讐劇の密度が高過ぎた。
シナリオは簡単だが、短時間のうちで畳み掛けるように、心身の回復を図らせない速度で襲い掛かってきた、『お門違いの復讐の連鎖』に疲労しか覚えなかっただけだ。
未だ若い身空で知る必要もなかったことを知った家出少女時代が懐かしい。
探偵事務所に依頼の電話が掛かってきても、どこかアンニュイな応対で業務内容から説明する。
借金の額面に驚かなかったといえば嘘だ。
嘘以上に嘘のような話で、嘘を飛躍した展開を体験した彼女は、真っ当にベッドの上で死ぬことを諦めた。
そんな彼女だったが、一つだけ建設的、前向き、生産的に心情が動いたと辺りに匂わせる変化があった。
それは……。
「はい。こちら真潟探偵事務所。『面倒事から荒事』までご相談承ります」
名前のない探偵事務所が看板だった探偵事務所に、彼女の苗字を冠した名前がついたことだ。
借金のため、クライアントのため、自分のため、今日も彼女は依頼を引き受ける。
彼女に休息はないのではない。休息が不透明になっただけだ。
今日も今日とて鉄錆び臭い依頼。
早職は愛飲しているポンポンオペラに火を点けると、左脇の安心感を伴う重量感を確認してジャケットを羽織る。
もう、秋だ。
《人を喰う噺・了》
2段飛びで駆ける。心臓が破裂しそうだ。
肺腑の全てが悲鳴を挙げている。もう少しで胃袋が空になるはずなのに、テンプラ蕎麦が食道を逆流しそうな不快感。それを嚥下。息苦しい。間に合えとしか願えない。
フィアットパンダの車内に放置された携帯電話のメインディスプレイには「前の塒で待ち伏せ」とだけ記された短い文面が表示されている。
FNブローニングBDCAを抜き放つ。
先ほどの銃撃戦で牽制として何発か撃った。
正確な弾数は覚えていない。
スライドは後退していない。
14連発のフルサイズマガジン。重心バランスから残弾を推し量る。5発。否、3発か。薬室を含めても5発もない。
タクティカルリロードを行うだけの精神的余裕がない。
探偵事務所。見慣れたドア。
看板も何も掛かっていない簡素なドア。
そこを蹴破らんばかりの勢いで開け放ち、待ち伏せ攻撃の危険性も顧みずに室内に踏み込む。
「……!」
床に、できたての、死体。
血の池がどんどん広がる死体。
今し方まで会話をしていた男の、この界隈では重要過ぎて国宝並みに語られていたらしい男の死体が転がっている。
頭蓋上部……後頭部に射出孔が開いて、珠玉の情報の全てが血液と共に流れ出ている。
飛び散った脳漿の破片を寄せ集めても復元は今の医学では不可能だ。そもそも死体に定義される彼に再び息吹を取り戻させるのは倫理的課題に直面する。
そして早職の銃口はこの男が座るべきだった社長の椅子に向けられる。
「…………」
女が首をうなだれさせて椅子に座ったまま絶命している。
胸部中央から大量の出血。
出血量自体は即座の致死には及ばないが、銃弾が命中した場所が悪かった。
位置からして胸骨を近距離から撃ち抜かれてショックを引き起こして死亡したのだろう。
再び視線だけを田沢始の亡骸に向ける。
田沢始の右手側数10cmの位置にベレッタM84FSが放り出されている。
女の死体……精気のない人相からでも竹居江利だと解る。
近寄らなくても充分に確認できた。
デスクの足元に、銃口から薄っすらと硝煙が昇る38口径のスナブノーズが鈍くシルバーに輝く。
照明のない部屋でアンブッシュを仕掛けるつもりの竹居江利は田沢始と相打ち。
本懐を遂げた竹居江利はそのまま絶命。
早職の構えるFNブローニングBDACの銃口が力無く垂れ下がり、夢遊病患者のように心許ない足取りでふらりと軸足のきびすが反転する。
刹那……。
生気を失って動向の灯りが消えていた早職の瞳に火が点る。
摩擦で靴の裏が煙を上げる。
振り返る。
速射。
スライドが後退して停止するまで4発の発砲。
4発。
『死体の恰好をした竹居江利』を仕留めるのには充分だった。
9mmパラベラムの弾頭は、今度こそ竹居江利の胸骨を破壊し、『血糊のパック諸共』蹂躙した。
本物の血液と偽物の血液が混じった飛沫が窓の外から差し込む街の明かりで美しくも毒々しく映える。
信じられないと言いたげな顔で……絶対に成功すると踏んでいた作戦が破られた悲鳴の顔で、彼女は早職をみている。
竹居江利の右手に握られた、セフティが解除された、撃鉄が起きた、薬室に実包が送り込まれた、コルトコマンダーよりも、弾数が定かでない、バランス感が最悪の珍妙奇ッ怪なカットダウンモデルの方が早かった。
嫌な音を聴いた。『死ぬ人間』の音だ。
たった一つの小さな違和感が増幅されて、殆ど動物的勘で反応した早職。
あと瞬き2回分遅ければ、凶弾に倒れていたのは早職の方だ。
違和感。その正体は……。
フィアットパンダ。
『左ハンドル』。
田沢始は『左利きだ。右手で即応できる拳銃は携行しない』。
即応するのなら左手で抜き放ち操作できる拳銃を選ぶ。
踵を返した時に田沢始の死体をみなかったら、『彼の左利き』を思い出さなかっただろう。
フィアットパンダは左ハンドルという、田沢始に都合のいい欧州車だと電流の速さで連想しなかったら早職は……誇張なしに死んでいた。
「……」
竹居江利も竹居江利で勝負を賭けていたのだ。
あと1mでも近寄られていたら、できたての死体を演じるメイクがばれていただろう。
彼女が直々に出張ってきたということは、本当に組織を破門されて全てを失い、心当たりのある男に関連する人間を連続で殺し続ける余裕も権力も財力もなくなったということだと推測できる。
自分を破滅させた心当りの一つを暗殺するつもりでこの事務所に乗り込んできたのだろうが……皮肉にもそれはビンゴで、皮肉にも嘗てのハニートラップの標的を仕留めて、その助手に仕留め返された。
竹居江利の暗殺行はここでお終い。
田沢始の情報屋の情報元としてはここでお終い。
竹居江利の暗殺と暗殺未遂と、田沢始の暗殺とその経緯はしばらくの間はこの業界で語られることだろう。
虚実が入り乱れ、眉唾に彩られ尾鰭背鰭がついて。
本当の脱力感に襲われる早職。
無気力と絶望感も伴う。
続けて、焦燥感と閉塞感が胸を引き裂き、人の言語をなさない慟哭を爆発させた。
余りにも馬鹿馬鹿しく、余りにも滑稽で、余りにも呆気ない。
竹居江利が待ち伏せていたのは早職。
目標は早職。
わざわざ、事務所への帰社を見計らって直前に拳銃自殺をした工作をして不意を衝き、早職を仕留めるはずが、そこへやってきたのは、全ての元凶である田沢始。
不意を衝かれたのは田沢始だった。
機転を利かせたのか偶然だったのか、竹居江利は隙だらけの田沢始を射殺。
貴重な情報が詰まっている脳味噌を破壊した。
状況から察するにベレッタM84FSは竹居江利が持ち込んだ擬装用で、本来は早職と撃ち合った状況を作り上げたかった。
しかし『先に田沢始を殺してしまった』。
車を降りるドアの音が聞こえ、咄嗟に彼の右手側に擬装用のベレッタM84FSを置き、部屋の中で見晴らしのいい社長の椅子に座り、自分の衣服に仕込んだ血糊パックを破いて偽装の血液を大量に流す。
足元に落ちていた38口径のスナブノーズで3発目の発砲。恐らく空砲だろう。
最初の1発は田沢始を射殺する本命。
2発目は撃ち合いの場を作り上げる反撃の空砲。
3発目は自分への致命的被弾を印象づける空砲の発砲。
2発目と3発目のいずれの空砲も速射で発砲したと思われる。
これで現場では『竹居江利と田沢始が合い撃ちを引き起こした、2発しか有効な銃弾が発砲されなかった』空間ができ上がる。
そして室内に踊りこんだ早職。
早々にカタがつくと思っていた竹居江利の唯一のミス。……田沢始は左利きという事柄を失念していた。
それを早職に思い出される前に撃ち殺そうと背後をみせる早職に銃口を向けようとしたが、早職の違和感が解明される速さの方が上手だった。
素早く振り向き様に9mmを叩き込んだ早職。
FNブローニングBDACは残弾の全てを竹居江利の血糊パックを仕込んだ胸部に全て叩き込まれて今度こそ死亡する。
あまりにも馬鹿馬鹿しく、あまりにも滑稽で、あまりにも呆気ない。
これで嗤わずして何を嗤おう。
そして何をそんなに激しく慟哭に暮れよう。
田沢始と特に語り合う内容はない。
寧ろ、語り合えば田沢始を射殺していたのは早職の方だろう。
だが、再開の喜びの欠片も分かち合う暇もなく、彼は……彼という生命と存在は地下社会の情報の一欠片として生きるのみとなったのだ。
悲しいのか怒りなのか。笑えばいいのか泣けばいいのか。
この時の感情は一生消えない。
※ ※ ※
しばらは火消しに忙しいはずの毎日を送るはずだったが、地元暴力団が肩代わりをしてくれた。
親切心や義侠心で肩代わりをしたのではない。
今まで通りに都合のいい探偵であることを交換条件とした。
それだけではない。火消しにかかった費用も借金に上乗せして請求してきた。
ヤクザはどこまで行ってもヤクザだ。
尻の毛まで毟り取るとは的確な表現だ。
いつまでも火が消えたままでは借金の返済もできぬと、自分を奮い立たせたのは1週間後のこと。
田沢始に深い思い入れがあったわけではない。
竹居江利の末期の声無き断末魔が耳から離れないのではない。
ただの八つ当たり、私怨、逆恨みから始まった復讐劇の密度が高過ぎた。
シナリオは簡単だが、短時間のうちで畳み掛けるように、心身の回復を図らせない速度で襲い掛かってきた、『お門違いの復讐の連鎖』に疲労しか覚えなかっただけだ。
未だ若い身空で知る必要もなかったことを知った家出少女時代が懐かしい。
探偵事務所に依頼の電話が掛かってきても、どこかアンニュイな応対で業務内容から説明する。
借金の額面に驚かなかったといえば嘘だ。
嘘以上に嘘のような話で、嘘を飛躍した展開を体験した彼女は、真っ当にベッドの上で死ぬことを諦めた。
そんな彼女だったが、一つだけ建設的、前向き、生産的に心情が動いたと辺りに匂わせる変化があった。
それは……。
「はい。こちら真潟探偵事務所。『面倒事から荒事』までご相談承ります」
名前のない探偵事務所が看板だった探偵事務所に、彼女の苗字を冠した名前がついたことだ。
借金のため、クライアントのため、自分のため、今日も彼女は依頼を引き受ける。
彼女に休息はないのではない。休息が不透明になっただけだ。
今日も今日とて鉄錆び臭い依頼。
早職は愛飲しているポンポンオペラに火を点けると、左脇の安心感を伴う重量感を確認してジャケットを羽織る。
もう、秋だ。
《人を喰う噺・了》
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