人を喰う噺

 出世街道から外れた刑事を思わせる彼だが、警官隊が乗ってきたパトカーを背景にすると一層、頼りない刑事のイメージが強くなる。
 だが、彼は私立探偵だ。
 生きていたことを喜ぶ感動の再開はない。
 怒りの限りの握り拳を叩き込んでやった。
 状況が許せば残弾全てを叩き込んでもいいくらいだ。
 殴られても仕方のない仕打ちをしてしまった自覚があるのか、田沢始は反論しなかった。
 追い打ちを掛けてやりたい早職も握り拳一発以上の思いの丈は表現しなかった。
 助けてやった。助けられた。命がある。命を拾った。
 殴られた顔面をさすりながら精一杯の笑顔で田沢始は久し振り、元気? 大きくなったな。と、テンプレートのような言葉だけを発してすぐにシャッター街の出入り口の影に停めてあった白いフィアットパンダに乗り込む。
 こんなときの田沢始の癖は知っている。何も言わずに車に乗れというジェスチャーだ。
 早職は殺意を鎮めながら、旧き好き欧州系大衆車の面影を残す小型車に乗り込み、田沢始はキーを捻る。


 田沢始から車中でことのあらましを聞く。
 不貞腐れたように狭い空間でポンポンオペラに火を点ける。
 現代風の電動式でない、ドアに取り付けられたハンドルで上下させるウインドウを開き外気を取り込む。
 田沢始は確かに、竹居江利に誑かされて事務所の金――それは失踪する欺瞞の理由で実際には彼の脳内に仕舞ってある重要な情報と情報源――を持って逃げた。
 『竹居江利の企みに気が付いて、竹居江利の組織が田沢始を捕まえる前に』彼は逃げ出したのだ。
 自分が雲隠れすることを地元暴力団に自作自演の垂れ込みで伝えて逃げた。
 結果的に助手兼事務員として働いていた早職と事務所は守られた。
 『地下に潜りながら外部組織の一つであった、頭角を現し始めた敵対組織と地元暴力団の均衡を修復すべく情報屋の元締めを代行して情報を操っていた』のだ。
 どんなに早職が元社長の田沢始の情報を収集しようと躍起になっても微塵も影も掴めないはずだ。
 集めるべき情報自体が操作されていたのだ。
 田沢始も万が一に備えてセーフハウス的扱いの地位を予め用意していたのではない。私立探偵事務所の社長という肩書きで韜晦しながらその実、裏方で錯綜する情報を吟味する情報屋の情報部とでもいうべき職業が本職だった。
 その本業がばれてしまい、竹居江利に騙されて誑かされて、誑し込まれて探偵事務所の残務処理もできない、頼りない男を演じて表の世界から消えた。
 だが、何年か前に身元がばれそうになった折に自分の一番のお気に入りである衣服を着せた背格好と年齢が同じ浮浪者を身代わりに仕立て上げ、粉砕機で死体を製造して、死亡説を濃厚にさせた。
 それからも田沢始は情報の世界でのみ、息をする歯車として生き続けた。
 情報の操作。ソースの信頼性。
 任意の対象の存在を左右する情報と、その効率的効果的合理的流布。この界隈で鎬を削るあらゆるアンダーグラウンドの組織が田沢始を欲しがった。
 あくまで、中立を演じるのに限界がきたときに『だらしない男を一層演じるために、身代わりに適任の助手を雇ってから姿を消した』……その助手が早職。
 職人として、プロとしては一流の欺瞞工作だが、人間としては三流もおこがましいクズにみえる。
 ……そうみえるように、事実をばらさないと誤解されたままで終わるように、早職や取り巻く組織を欺いたのだ。
 今現在、彼が表の舞台に浮上してきたということは、この界隈の均衡が修復されて最終段階にあるという。……早職は顔色を変えずに理解した。
 仲良しこよしで全方位に営業用の顔を振りまいていた田沢始が初めて、地元暴力団に肩入れする真似をしたのだ。
 先ほどの警官隊の殺到をみれば解る。
 この辺りを管轄とする警察署の『責任有る人間の弱味を交渉条件に』、早職を助けたのだ……勿論それは早職の都合のいい考えで、田沢始は敵対組織に牙を剥く丁度いいタイミングを見つけただけで、それがたまたま、早職のピンチに警官隊を動員させることだった。
 このことから、均衡のバランスは敵対組織に大きく有利に働いていたのに、田沢始の生存を誇示することで、旗色に翳りがみえていた地元暴力団が挽回できたようだ。
 それだけではない。
 均衡をさらに地元暴力団に傾けさせて有象無象の第三組織も一掃出来る機会を見つけた……否、確実のものとしたのだろう。
 田沢始の情報では、早職にとって事の発端となった、竹居江利は監督不行き届きと上位幹部の素質なしとの烙印を押されて破門を言い渡され、そのまま本当に雲隠れしたという。
 それが『本当の最新最速の情報』だ。
 目下のところ、田沢始の手足となる情報屋が情報を収集している最中だ。
 今は携帯電話への着信を待っている最中だと田沢始は相変わらずの、安く薄い笑いを浮かべて言った。
 彼の握るハンドルでフィアットパンダは今にも咳き込んで停車しそうな危ない音をエンジンから響かせていた。
 向かう先は田沢始にとって懐かしい私立探偵事務所。
 もう、表立って歩いても敵対組織に命を狙われることはない。
 彼の情報は最早通貨として流通できるほどに貴重なものとなっている。
 地元暴力団は全力で彼を守るし、第三勢力は彼に取り入るためにハニートラップという意味ではない、本当の甘い条件を携えて腰を低くして恐る恐るコンタクトを図ろうとするだろう。
 今の彼は死体になっても『死体になった事実』も情報として価値を持つ。
 死んだ人間が生きていて、さらに死んだとなれば、その価値は尾鰭背鰭が付き……却って、尾鰭背鰭がつかない情報を求めて、情報屋の交換手は大忙しになる。
 さらには彼が遺したかもしれない情報がさも、埋蔵された財宝のように扱われ得体の知れない賞金稼ぎがトレジャーハンターを気取って跋扈する地獄絵図が繰り広げられる可能性も大きい。
 情報の鮮度と精度と速度はときとして銃弾よりも強い。早い。速い。
 事務所のテナントが入るビルに到着したフィアットパンダ。
 田沢始は足取りも軽く、さっさと事務所へ通じる階段を昇る。
 4階建てでエレベーターの設置義務はない。
 その義務を真に受けてエレベーターを設置しないのはビルのデザインと建築に掛かる予算を浮かすためだ。
 テナントとして借りているだけなので何も文句はいえないが……。
 車内で嬉しそうに古巣に戻る田沢始の姿をみながら、ようやく満足に吸いきることができたポンポンオペラの短い吸い差しを灰皿に押し付けて早職もフィアットパンダから降車しようとした。
「?」
 ドライバーシートの脇から低い振動音。
 着信を受けてバイブレーションが作動している携帯電話だ。
 田沢始がポケットから落としてしまったのだろう。
 苦笑いしてその携帯電話を無理な体勢から拾い上げると、数字とアルファベットの羅列で表示された人物からの着信を報せていた。
 メール着信。
 興味本位で通話ボタンを押す。
 操作が簡単なフィーチャーホンだ。通話ボタンを押せば勝手にメール本文が開く。メールをみるまでもなく、記されている内容は予想できた。先ほど田沢始が言っていた竹居江利の居所の情報だろう。
 確かに文面は竹居江利に関する最新情報だった。
 同時に表情が凍る。
 冷や汗が吹き出て目を大きく開く。
 ディスプレイに表示される文面から目を離し、ドアに手を掛けたとき、事務所の入る部屋が3度明るく点滅した。
 くぐもる銃声。
 『まるで室内でカメラのストロボを焚いたような閃光だった』。
 携帯電話を捨て、ドアを荒々しく開け放ち、左懐に手を差し込みながらビルに飛び込む。
16/17ページ
スキ