人を喰う噺

 胃袋が軽くなるのにまだ時間が掛かる。
 まだ30分しか歩いていない。
 先ほどの銃撃があった通りでは、パトカーが殺到しているのがサイレンの音響で解る。
 このまま道なりに進めばシャッター街に出る。
 そのときが勝負だろう。
 壁を攀じ登る技量を持っていない早職に3次元的移動を求めるのは不可能だ。
 早足。早足。少し早い早足。更に少し早い早足。小走り。早い小走り。走駆。
 尾行者をスピードと勢いだけで振り切らんと、猛然と走る。
 食後すぐの運動は体によくないという、小学生の時に聞いたお題目がふと脳裏を過ぎる。
 それに連鎖して小学生時分の思い出が吹き出るように、言語野から溢れ出る。
 すぐに舌を噛んで痛みで雑念を払う。
 鉄火場を前にして、昔の記憶が不意に思い出されるのは縁起がよくないと昔から相場は決まっている。
 口に銜えていたポンポンオペラの吸い口を犬歯でギリっと噛み潰す。
 走る勢いで左脇から飛び出そうなFNブローニングBDACを忌々しく睨む。
 まるで今すぐ抜いて尾行者を射殺せよと勧めているかのようだ。
 不恰好な拳銃の姿をした死神がヘラヘラと笑って挑発している絵面を想像すると余計に腹が立つ。
――――何なのよこの拳銃!
 通常の7発の弾倉を叩き込んだFNブローニングBDAC。
 予備弾倉は全てフルサイズの14連発だ。
 相手の総数は不明だが、この場を乗り切るのには充分な弾数だと思える。
 シャッター街に飛び出る5m手前で、振り向き様に左肘下のホルダーからスローイングスパイクを2本抜き出して狙わずに、釣られて走っている尾行者に向けて投擲する。
 幅3mほどに狭まった路地裏で遮蔽が乏しくなってきた辺り。……連中が銃撃するならこの辺りだと睨んだからだ。
「!」
 黒いスローイングスパイクは映画のように見事に尾行者の眼窩に深く突き刺さることはなかった。
 2本とも一番先頭を走っていた男の胸部に『当たっただけで突き刺さりはしない』。
 怯ませるには充分だ。追うべき女が何かをした途端に先頭を走る男が急ブレーキを掛けて停まった。
 連中の動きが団子状態を形成して止まった。
 彼我の距離15m。……『外さない距離』。
 早職の右手が閃く。
 右脇から刀を抜くように放ったFNブローニングBDACは狙い違わず、フルロードで8連発の9mmパラベラムを弾き出した。
 狭い路地に反響する8発の、耳を聾する銃声。
 団子状態の4人の尾行者は、居並ぶボーリングのピンのように倒されていく。
 彼らの理念や生命を無視するような慈悲の無い銃撃。
 助からない負傷を与えた『音を聞く』。
 全員、助からない。10分以内に応急処置をして救急救命に搬送すれば助かるだろうが、この場でそれを期待するのはまず無理な話だ。
 4人が倒れたので安心してその屍同然の転がる負傷者を飛び越えようとしたが、奥の、先ほど通過した路地裏の辻からさらに人影が増える。 最低2人、いる。
 危険を感じる。
 2人とも拳銃を携えている。
 返した踵を再び返す。
 業腹ながらシャッター街に押し出される。
 銃弾が急かすように襲い掛かる。ジャケットの裾や袖を弾頭が掠る。 スライドが後退したままのFNブローニングBDACを前のめりに転びそうになりながら、弾倉を交換してスライドを前進させる。
 牽制の数発を背後から追ってくる2人に浴びせる。足止めに成功するも目前……矢張り、この状況でこまねいて待っていた本隊が早職を迎えた。
 シャッター街の右手側30mの位置で停車している1台の白いハイエース。
 後部座席のスライドドアが開き、ぞろぞろと男達が吐き出される。 
 人員輸送に用いている9人乗りのハイエースらしい。 
 数台の自動車に分乗した数人も怖いが、1台のワゴン車から大量に降車する戦闘要員というのも圧倒的な威圧感を感じる。空母が艦載機を次々と発艦させる様子を連想させる。
 左手側からの2人と合流する9人。合計11人。
 とてもじゃないが一度に相手ができる人数ではない。
 1人2人と負傷させることはでき来たが、戦線を離脱させるに至らない。
 文字通り、1発撃てば100発返ってくる地獄を呈するだろう。
 違法駐車された大型ワゴン車の陰に飛び込んだが、大型ワゴン車が銃弾の洗礼を受けて小刻みに震える。
 短機関銃やマグナム弾と思しき発砲音も聞こえる。
 腹にくぐもる轟音は散弾銃か。
 真正面からの数にモノをいわせた襲撃に心底肝が冷える。
 気を緩ませれば失禁しそうだ。反撃どころではない。
 遁走に全力を注ぐ。遮蔽になるものは全て利用しなければ、と辺りを窺い、さらに後方に違法駐車してある軽四ワゴンの陰に飛び込む。
 気が付けば、太腿や上腕部や左肩に掠過傷を作っている。……新陳代謝が停止しているので痛みを感じない。
 逆に氷を押し当てあられたような冷たさを感じる。
 蛇がのたうつような列をなす、駐輪された無数の自転車――勿論、駐車禁止区域――の列に前転で転がり込む。
 後退に継ぐ後退で、反撃の余地はない。
「!」
 シャッター街から脱出するまであと20m。
 連中は2、3人で一塊となり、戦線を押し上げて緩やかに早職を包囲しつつある。
 連中の勝利は目前だった。
 連中の数以上の実包を所持していたが所詮、手元の拳銃は1挺だ。
 拳銃を遣う早職も1人だ。
 腹の底が冷える。
 恐怖のあまりに、夕餉のテンプラ蕎麦を吐き戻しそうだ。
 完全に噛み潰していたドライシガーを吐き捨てる。
 地球上のありとあらゆる神様に祈りを捧げる暇もなく、助けを乞う暇もなく、あと数分で包囲網は完成して早職は蜂の巣になるだろう。
 あと20m。たった20m。
 駐輪された自転車やバイクの列はあと15mの位置で途切れる。
 そこから先に遮蔽はない。
 表通りに繋がる一般道があるだけだ。
 こんなことなら9mmの神様以外の神様も信仰しているべきだったと、諦めの境地に達しようとした……その時。パトカーが到着。
 1台のパトカー。それに次ぐ2台目、3台目、4台目。
 到着するなり、輪胴式を腰から抜いて防弾チョッキを着た警官が即座に展開し、ジェラルミンの盾を持ち上げて横隊をなす。
 全く状況が理解できない早職。
 いつもは銃撃戦と聞けば恐れをなして、一段落してから到着する警官隊が、恐ろしく早くサイレンを鳴らして登場。
 窮地に駆けつける騎兵隊さながらの登場。
 続々と到着する警官隊。
 終いには機動隊を乗せた独特のカラーリングをしたバスまで到着する始末。
 いくら連中の火力が上でも、火力以上に相手にしたくない国家権力が相手だ。
 退却を始める襲撃者を追い駆ける警官隊。……ぽつんと取り残される早職。
 警官隊の目には早職が映っていないようにも思えた。
 声も出ずにぽかーんと間抜けな顔で、追い立てられていく襲撃者を見守る。
 多勢に無勢。
 火力は襲撃者の方が上でも、自分達を雇ったクライアントや命令を下した上司に国家権力に食い込んでいる有力者はいないのか、反撃の発砲もそこそこに瓦解して遁走を始める。
「さーよーりー」
 と自分の名前を呼ぶ男の声がしたので振り返る。
 その声の方向を向き、懐かしさの余り、安堵の余り、思わず、自然と体が彼に駆け寄り、助走をつけた後にたっぷりと運動エネルギーが乗ったフルスイングの左拳を、その男の右顔面に叩き込む。
 元社長……田沢始(たざわ はじめ)。
 腑抜けた優男のイメージを具現化させて服を着せて歩かせたような頼りない風貌の『見た目は40代後半』。
 少しばかりの白髪が混じった無造作なボサボサ髪にノータイにグレーのスーツ。
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