人を喰う噺

 人間の手首の構造上、声も出ない激痛を覚えるが、神経や腱が引き攣っているので、まるで自分の掌がズナブノーズのグリップに吸いついたように握りこんでしまい、離れない。
 早職の右手は、右手側の若い黒服の短ドスの突く動作のモーションを阻害させずに右肘内側を押さえて必殺の切っ先を交わす。
 若い黒服の息がかかるほど体を密接させ、自分の右肘でその黒服の右肘を上方から強かに打ち据えて関節をへし折る。
 若い黒服の右手が早職より後方にあったので、早職は自分の肩を力点にして呆気なく短ドスを無力化した。
 大声を挙げる前に右肘を破壊された男の股間を膝蹴りで強打して大声どころではない苦痛を与えて気絶させる。
 スナブノーズを持つ左手首を中心に、全身の腱と筋と筋肉を引き攣らされている男も右拳で喉仏の舌骨に強打を与えて死に到る呼吸困難を与える。
 呼吸したくとも喉が開閉しないのだから窒息する。
 壁に掌ごとタクティカルナイフで縫い付けられていた男が無事な方の手で、不器用な抜き方で左脇から自動拳銃――シグP226――を抜き放つ。
 脂汗に塗れた男の銃口がこちらを見る前にシグP226のスライドに手を掛けて親指をトリガー後方の隙間に差し込んでトリガーストロークを皆無にさせる。
 もう片方の手で男の掌を縫いつけているタクティカルナイフを右手で抜き、男の左頚部、左脇腹、左顎下裏、左脇腹、左鎖骨の窪み辺り、左脇腹の順で連続に切っ先を素早く突き立て、最後に鳩尾に突き刺してレバーを下げるように切っ先を臍に向かって勢い良く下ろす。
 突き刺す順番を次々と変えていく理由は、同一箇所に連続で切っ先を突きたてると噴出する返り血を浴びやすくなるからだ。
 ダメージを分散させ、それでいて、バイタルゾーンから離れていない位置を的確に刺して生命活動に支障をきたす重傷を負わせた。
 オーバーキル気味だが、反撃が怖いのではない。大声や銃声が怖いだけだ。
 本丸は、竹居江利が営業用の顔で挨拶回りに余念がないであろうメインホール。
 ここで一暴れを企てるのが目的だ。
 単純にそれだけ。
 地元暴力団でも第三勢力でも内輪揉めでもなさそうな雰囲気を作ればいい。
 最初は地元暴力団の鉄砲玉を疑われるだろうが、今夜の襲撃はどこの誰にも漏らしていない。
 情報屋と情報を売買したが、いつもの定期的な売買の日に集めた情報ばかりで誰の、どこの、何を目的とした情報収集か? という疑問は簡単にはつまびらかにはならない。
 店で暴れる。これだけで竹居江利の株は暴落だ。
 竹居江利が自分こそが、双方の均衡を保つ場所で誰よりも栄華を誇っていると勘違いしている虚栄心を打ち砕くだけで、早職の溜飲は下がる。
 地元暴力団からすればどこの誰とも解らない気狂いがやらかしたと言い張っても嘘ではないし、そもそも心当たりがない。
 敵対勢力からすれば、ライバルの地元暴力団に大きな動向はなかったのに易々と橋頭堡を襲撃させてしまったことは、内部のスパイを疑うだろう。
 そもそもこの襲撃自体が、自分勝手で自己満足で怒りの矛先を鎮めるだけの個人的衝動が理由なのだから、プロファイル自体が不可能だ。
 プロファイリングが可能だとして容疑者を洗っていたのなら、敵対勢力は今までに闘争を繰り広げてきた相手全てと、その一族郎党全てと、さらにそれらに恩義と義理人情だけでつき従う人物や組織全てを重要対象としてチェックしなければならない。
 敵対組織は自分たちに対する宣戦布告やシマ荒し程度にしか考えていないだろう。
 まさか目的が、竹居江利本人の足元を掬うだけとは考えが及ぶまい。
 竹居江利を殺したのなら、容疑者の割り出しは簡単だ。
 竹居江利は、嘗てはハニートラップ要員として活躍した。
 その際の作戦立案に関わった人物を集め、狭い範囲を人海戦術で調査すれば早職の顔が割れるのも仕方がない。だが、活かしも殺しもしない襲撃を、街中最大の橋頭堡で仕掛けたのなら……状況は敵対組織内部全体で勝手にややこしく拗れるだけで犯人探しは難航する。
 腹というより胎の底でアドレナリンが沸騰するのを感じる。
 鳩尾が冷たい。
 耳鳴りに席巻された世界だというのに、人間の気配が『聴こえる』。視野が狭くなっても、陣取るポイントや進む路がスポットライトが当たっているように明るく教えてくれる。
 肌面積の少ない衣服を纏っているが、全身がセンサーに置き換えられたように温度や風向きに敏感になる。鼓動の喧しさと比例するニコチンと冷たい水への渇望。
 3つの死体や声を挙げられない男を跨いできびすを返す。
 金的を食らわされて泡を吹いている若い男の元に来ると彼の物である短ドスで、呻く彼の喉仏を切断して息の根を止める。無銘だが良く切れる短ドスだ。それを興味なく捨てる。
 再び視線を向ける。
 目前4m。そこのドアを開けるとメインフロアだ。
 血の脂で汚れたタクティカルナイフを、ズボンのポケットから取り出したウエスで拭き取り、折り畳んでポケットに仕舞う。
 これから先は静かな世界で静かな殺し方をする必要はない。
 関係者用通路と思しき通路を抜けると、年季の入った高等遊民を連想させる社交クラブ然とした雰囲気だ。
 浮世離れした人間だらけの堕落と腐敗と権力が渦巻く世界。
 自分だけは絶対に安全と信じて疑わない、血税の真の搾取者が数人のガードを連れてボックス席でホステスと談笑に急がしい。
 派手に乱入したつもりの早職が、余りにも場違いな衣装だったのでホスト側のイベントか、客の誰かが仕込んだ酒肴の足しだと勘違いして騒ぎ立てる者はいなかった。
 店の雰囲気……酒と香水と煙草の香りが混じり、スローテンポな和風アレンジのポップスが背景に流れ、20以上のボックス席が壮観な眺めを拵えている。
 天井は高く、空調やロスナイも充分に機能しており、壁に掛けた絵画や調度品にもフェイクには見えない輝きを感じる。
 壁際に等間隔で置かれた一抱えほどもある花瓶には豪奢なイメージの花が生けられている。
 明るくも暗くもない、目に優しい照明。
 背後から闖入者である早職の肩に手を掛けた黒服の1人を撃ち殺す。FNブローニングBDACを脇から抜き放つ前に、右手を左脇に滑りこませてパーカーの懐内部で抜いての発砲だ。
 普通なら脇腹をマズルフラッシュとガスで火傷しているが、体形を誤魔化すために、腹回りにタオルやサラシを巻いているので風船が爆発した程度の衝撃しか感じない。
 ……それでも発砲音は防げなかった。
 フロア全体に悲鳴と恐怖が伝播していく。
 行動開始。
 柱や壁に背を向けて立っていた黒服や、近くのボックス席で主人をガードしていた男達が、脇や腰に手を廻して色めき立つ。
 拳銃を発砲しようにも、客やホステスが邪魔だったり自分の主人の逃走優先で混乱する黒服とガード。
 柱の陰で人影をみつける。
 姿は隠しているが、殺気を感じる。
 足元の僅かにみえる靴の踵を撃ち抜く。
 衝撃と激痛で身を折り倒れこむ黒服の胸部に2発叩き込む。
 空かさず小脇を引き締めたウイーバースタンスのフィストグリップで構え、即座に振り向き、早職を捕縛しようとしていたガードの男の顔面と胸部に1発ずつ9mmパラベラムで射入孔を拵える。
 小走り。小さな歩幅。やや摺り足気味。
 暴れるだけが目標であっても、当面の標的である竹居江利を探してしまう。
 銃弾が飛来。
 左手側の御影石の柱を削る。
 粉塵が舞う中、目測と勘で反撃。
 手応えは感じない。
 すぐに移動。全周に敵がいる。
 その辺でガタガタ震えているホステスがディフェンスガンを携行していないとは限らない。
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