人を喰う噺

「何なの! この銃!」
 真潟早職(まかた さより)の絶叫はこの鉄火場に於いてこれで3度目だった。
 これと同類同等の罵声を含めれば6度目だった。
 泣き言を垂れる彼女を馬鹿にする銃声。
 外れる着弾が、無秩序な跳弾が嘲り飛ばす。
 廃工場での取引を一通り撮影して撤収。
 たったそれだけの簡単な仕事。
 彼女は鉄火場に生きる事を生業とするガンマンではない。
 彼女の職業柄、鉄火場に巻き込まれる展開は多いが、決して他人を殺傷する事をよしとする職掌はなかった。
 だが。それでも。然し。
 彼女は自分の失態を誰かのせいとして押し付けなければならないほどに思考の視野が狭くなっていた。
 夜更け。
 午後11時半を経過したはず。
 廃工場。港湾部に面する廃棄された区画。
 アンダーグラウンドの世界に巣食う人間ならば必ず一度は足を踏み込んでしまうロケーション。
 汽笛が遠くに聞こえる。曇り空。夏の暑さも和らいだ秋口。曇り空のパターンをなす鱗雲。季節の変わり目を報せる大空の便り。
 俳句の一つも捻りたくなる情緒が一体化している人工物の過密地帯。潮の香り。錆の匂い。そして、硝煙の臭い。
 湿度の多い風に乗る銃声。足音、複数。
 黄土色の地味な麻のジャケットにクリーム色のYシャツ。
 灰色にくすんだような綿のスラックス。
 機動力だけを重視した地味なデザインの黒い運動靴。
 右肩から掛けた、デジカメと機材が納まった40cm立方のフラットブラックのケースが異様に重い。……店頭ではあれだけ軽量を謳っていたのに、現場で実際に運用しなければどんなマテリアルも自分の体にとって負担だと学習してくれない。
 更に左手で大きく揺れる機材のケースを押さえながら、右手で発砲。
 自動拳銃。異様なシルエットの自動拳銃。
 普通にスライドを具えた自動拳銃なのだが何かがおかしい。
 その自動拳銃の持ち主たる早職は、非情にも先程から右手の、永いはずの相棒に文句を垂れ流して遁走を続けている。
 心許ない外灯。月光の恩恵も薄い。
 足元が平たいパンプスであれば、早々に連中に身柄を押さえられて職務の遂行は失敗に終わっている。
 彼女はまだ生きている。
 この機材ケースに銃弾が命中せずに自分の命が保てたままセーフハウスに帰投できれば彼女の勝ちだ。
 異様なシルエットの自動拳銃は9mmパラベラムの咆哮を挙げながら主人を護るべく奮戦する。
 180mmにも満たない、小さな全長の自動拳銃は軍用拳銃では最早常識の実包を軽快に吐き続ける。
 早職の右手がリコイルを制御しきれず大きく跳ねる。
 あたかもグリップと右手の相性が悪いかのような印象を覚えるほどの違和感……彼女の右手の小指から覗くグリップエンドのシルエットも、奥歯に物が挟まったと形容するに相応しい違和感を覚える。
 早職は差し込んだ弾倉分の実包を、全て吐き出した時点で戦闘区域からの離脱に成功した。
 機材ケースは無事。自身も無傷。
 残念な事に危険手当や今夜の銃撃戦に於ける実包代は必要経費で落ちない。
 落ちるのは彼女の不始末……落ち度だった。
   ※ ※ ※
 真潟早職。職業、私立探偵。
 25歳の一人親方。
 一人で私立探偵社を経営。
 先代からの引継ぎだが、先代の社長は女性絡みのトラブルで夜逃げしてしまい、その社長が背負っていた負債を返す約束で彼女の命は繋ぎとめられている。
 借金のカタに体ごと風俗に売り飛ばされるか、内臓を売り払ってようやくチャラにできるかどうかの借金だった。
 そこへ持ち掛けられた、救いの手にも思える借金取りのヤクザの上司のお陰で生きている。
 ……地元暴力団の幹部は私立探偵社を引き継いで自分達の都合の良い使いっ走りとして生きるのなら早職の命を保証してくれた。
 元から辿れば何もかもがおかしい仕組みだった。
 火の車の私立探偵事務所が急に求人を出し、都合よく家出少女だった当時16歳の早職を住み込みで雇い入れた。
 彼女に給料らしい給料は無かった。
 トイレと風呂に困らない寝床が有るだけでも若い頃の彼女は嬉々として受け入れた。
 体を売って糊口を凌ぐ予定だったが、この私立探偵社――社長社員総勢2人――にはほぼ毎日、賞味期限が切れたコンビニ弁当が届けられたので余計な出費が抑えられた。
 日用品や女性用品は女にだらしない社長がどこかのホステスやキャバ嬢や風俗嬢から譲ってもらい早職に与えてくれた。
 当時は何も知らなかった。
 探偵事務所の電話番とお茶汲み係り以外に仕事は無く、崩壊した自分の家庭と比べると楽園にも思えた。
 一転したのは彼女が住み込みで働いて1年が過ぎた冬だった。
 書き置きも無く消えた社長。
 私立探偵事務所がテナントで入っていたビルのオーナーが押し掛けてきて賃貸料の不払いを、不法なれど社員扱いだった早職に求めた。
 埒が開かないと悟ったオーナーは自分の不動産を扱う上位組織の地元暴力団の力を借りて借金の返済を迫ったが、結果として地元暴力団の都合の良い使い捨ての使いっ走りとして生きる条件で早職は生き延びた。
 何もかもがおかしいと思った。
 私立探偵事務所の先代社長はこの時のために早職を飼い慣らしていたのだ。
 今だからはっきりと解る。
 人間の屑を優男にデチューンしたような30代半ばの中年男だった。今はどこで何をしているのか解らない。
 アンダーグラウンドの世界とは映画で見るような恰好良いものではなく、ごく普通に日常生活と紙一重で繋がっているのだと実感した。
 自分はただの家出娘で、都合よく寝床が見付かってはしゃいでいただけの、今時の普通の女子高生だと思っていた。
 実家が嫌なだけの、両親を嫌悪するだけの、性意識が低いだけの小娘だと思っていた。
 そんな小娘が1年経過した途端に私立探偵事務所の社長だ。
 探偵という括りの職業は実に大雑把だ。
 興信所は都道府県知事の認可を受けた真っ当な職業で、黄色い分厚い電話帳に名前を載せることができる。
 しかし、今の法律では私立探偵は存在そのものがイリーガルで、何の法的手続きも必要なく開店できる。
 場合によっては便利屋や万ず屋等とも呼ばれている。
 私立探偵とは名ばかりで表向きは宣伝のために看板を出す必要はない。
 実際のクライアントは地元暴力団とその息の掛かった関係者だ。都合の良い駒として生きる代わりに与えられた社長の椅子。……実に座り心地が悪い。
 そんな早職も先月に25歳になった。
 時間の流れる速さにはただただ戦慄を覚えるだけ。
 この暗い道しかない業界の仕組みと生き方を、早々に修得した自分の才能に驚く。
 自慢できない才能だが、暗い世界の人間だから暗い世界で必ず成功するとは限らないのと同じで、明るい世界の人間だから暗い世界では不向きだとは限らない。
 小綺麗にまとまってそこそこ清掃が行き届いた事務所。
 16平米ほどの広さ。
 やや長方形。給湯室を具えている。
 窓の外は林立するテナントビル群しか見えず、見晴らしは最悪。
 このテナントの真上の部屋がパーテーションで仕切られた偽装された違法シェアルームでそのテナントを寝床としている。
 広いだけの調度品に気が行き届いていない部屋。
 電話番時代からこの部屋の清掃は早職の日課だった。
 大して依頼の無い探偵事務所だった。
 時間だけは幾らでも有った。
 今でもいくらでも有る。
 それらしいスチールデスク。
 元社長が愛用していた煙草を吸う為だけの机。背後に窓を背負っているが日当たりは良くないので有り難味は薄い。応接室という割りに仕切りは無く、ただ、テーブル中心のソファセットが並んでいるだけだ。
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