驟雨の前に珈琲を

 同士討ちで戦力を消耗させ、残党だけを確実に屠る作戦だったのだ。 今なら解る。
 賞金首は自分が手配書に載せられることを前提に、情報屋の網に掛からないように周到にネコを被っていたのだ。
 それだけのことを準備してタイミングを逃さずに実行する賞金首。
 確かに大きな金額が提示された大仕事になるわけだ。
 手配書には名前と顔と賞金額と捉える条件しか書かれていない。
 後は自分で懇意にしている情報屋から情報を仕入れて追い駆けるのみ。
――――藜直衛(あかざ なおえ)!
 手配書の男の顔を思い出す。
 藜直衛。34歳。175cm。
 優れた筋骨を持った体躯に似合わず、国内で市場を広めつつあるロシアンマフィアの経理を任される会計補佐。右腕欠損。
 集めた情報では、横領着服に加担したとある。
 恐らくそれは真実ではないにしても嘘ではない。いまだに濃厚な灰色の世界のロシアンマフィアの世界だ。どこの派閥がどれだけ深く国内に根を下ろしているのか不明。
 そのロシアンマフィアの一派が現地の日本で調達した藜直衛を生死不問の札を貼って手配書を廻した。
 手配元のロシアンマフィアの名前すら寡聞に漏れる。
 背後関係の何もかもが怪しい人物に慣れているとはいえ、ここまで実力離れした技をみせつけられると自分たち、賞金稼ぎが都合のいい使い捨ての殺し屋として使われているだけだと腹が立つ。
 信用を看板に、爪に火を点し、情報を買い取って、世間に背中を向けている自分たちが報われない。
 鉄火場の真ん中で思考が閉鎖的なループを繰り返す直前、左掌で自分の頬を叩いて意識を集中させる。
 鉄砲玉が飛び交う現実で自分のアイデンティティを問うても仕方がない。
 ここまできてケツを捲くって逃げるのも信用看板に傷がつく。
 ならばいい仕事を独り占めして、大きな顔をするのがプロというものだ。
 ここにいる連中もそれを咀嚼して飲み込んでいる。自分たちの看板、自分の看板、それに泥を塗らない努力を怠らない連中だ。そして自分もその1人だ。
 そんな連中に、そんな連中が、仕事中に同業者同士で撃ち合って擦り減らされる。無念だろう。納得行かないだろう。残念なことに没義道と理不尽と不条理は常に隣に座っている。
 そしてそのスキームの歯車として望実も存在する。
 連中の供養と敵討ちは賞金首を逃がさないことだ。
 賞金稼ぎ連中を蹴落とし、蹴落とした賞金稼ぎ連中を弔う。
 絶妙に矛盾した世界がこの廃棄されたも同然の区画に凝縮されている。
 走る。自分の武器の一つに数えられる脚力で走る。
 左右の手は大きく振らない。
 右手に持ったマテバMTR―8が体幹を中心からブレさせるので、小脇を締めて銃口を上向きの状態で保持。
 指先にはトリガーディシプリンを徹底させる。
 ダブルアクションの拳銃でも重い引き金に指を掛けたまま全速力で走るのは危険だ。
 腰の回りに巻いたウエストポーチも、腰周りの安定を大きく阻害する。これらを全身の膂力だけで体幹の回復を目論むと、翌日は筋肉痛で動けなくなるのは必至だったが、今は……今だけは気にしていられない。
 今日、今夜、今すぐに全力を出さなければ明日の朝日は拝めない。
 体力の温存を気に掛けていると死ぬ。何もしなくても死ぬ。ここは鉄火場なのだ。硝煙と鉄錆び臭い血の香りが渦巻く狭い路地裏なのだ。足元には空薬莢と被弾した脱落者が転がる路地裏の形をした戦場だ。
 銃声は疎らになる。
 マグナムと思われる銃声が轟く度に銃声が一つ消える。
――――拙い!
――――この先は!
 今の進路を維持し、道なりに進んでいればこの区画を飛び出してしまう。
 頭を押さえる役目を自然と担っていた二輪連中もおとなしくなった。とっくに降車してこの区画に侵入しているはずだが、予想どおり、藜直衛という賞金首を仕留めるに到らず、その他大勢の犠牲者の仲間入りと相成っているようだ。
 自分たちの持ち味を捨ててまで吶喊したのに成果を残せなかったのは無念だろう。
 それとも二輪連中は連中で同士討ちしたか、同士討ちをするように誘い込まれたか。
 疎らに起きる銃声の方向に向かうべくきびすを返す。
 見晴らしを。もっと音を視界を! そう思うや否や、廃ビルの非常階段――5階建て――を駆け上がり、マテバMTR―8を左脇に仕舞いこむ。
 3階付近の非常階段から隣のビルの非常階段に飛び移り、さらに駆け上がり、屋上を目指す。
 階層は同じだが、敷地面積が違う。
 屋上伝いに走る上で少しでも助走をつけやすいビルを選んだ。
 路地裏を走って反転してさらに路地を駆け回っても、生き残りの同業者と出会う可能性の方が高い。
 もっと視角と聴覚が利く『櫓』を確保したかった。
 普通の閉鎖的な空間なら、高い櫓は絶好の的だが、3次元的要素がふんだんに盛り込まれている屋外で、夜陰に乗じた索敵は下方にいる人間の視角には入り込み難い。
 空を見ながら曲がりくねる道を走る人間は滅多にいない。
 人類の規格外がいないことを前提しての移動。
 ビルの屋上から屋上へ。
 雨樋や、飛び出た室外機や、窓に取り付けられた鉄格子を利用し、サルさながらに移動。
 全身のバネを総動員。
 藜直衛を視界に入れるまで体力が持つかどうかも考えない。今は真っ直ぐに『一番大きな銃声が聞こえる方向』だけを目指す。
 藜直衛も勿論、移動しているだろう。ビルの屋上で銃声を拾いながら道ではない道を突き進むと案の定、藜直衛はいた。
「……」
 藜直衛の直上。
 左手を一杯に伸ばして大型の輪胴式を悠々と発砲。
 途端、30m向こうの遮蔽物である大型の室外機が耳障りに震えてその陰に隠れていた人影が射竦められて動けなくなっている。
――――今なら!
 望実は『藜直衛と信じて疑わない人物』が身を寄せるビルの角――四つ辻の角――の真上に立ち、辺りに視線を走らせる。
 足場にできる突起物が豊富でボルタリングの逆の要領で降下すれば派手な音も立てずに藜直衛の後ろに降り立てると確信した。
 ビルの屋上からでは38口径で狙撃するのは絶望的だった。
 38口径でなくともマテバMTR―8でなくとも、絶望的だ。
 射的競技を主眼として設計されたマテバMTR―8で過酷な条件下での精密な狙撃は前提から外れている。的を外す前に外れている。
 雨樋と、ビルの窓枠や、室外機に指と爪先を預けて降りる。
 呼吸が荒く鼓動が五月蝿い。
 小さくジャンプしたときに体に感じる衝撃の音も藜直衛に聞かれるのではと冷や汗をかく。
 藜直衛。右腕を欠損している組織者。
 今は能動義手を装着しているらしく、右腕の袖が膨らんでいる。スーツのジャケットの上からでも義手だと解る動きだ。
 肩や背中の筋肉で手首や肘を制御・操作する能動義手は普段はブラブラと垂れ下がっているだけのバランサーだ。
 映画のような高性能な筋電義手ではない。現在の筋電義手はようやく五本指が独立して開閉できる程度に進化しただけで、咄嗟にジャンケンすらできない。
 生体電流で制御するので電子部品が多く、故障やバッテリー切れの早さが大きな課題で、その割りに握力がなく、繊細な作動ができ来ない。今の装具としては昔ながらの能動義手が実用的だ。
――――! ……速い!
 窓枠を降りながら藜直衛の再装填の様子が『見えたので見た』。
 その光景を疑った。
 疑うほどに早く器用だった。
 右手での使用を想定されたスイングアウトの輪胴式をあのような方法で再装填するとは……仕掛けも何もないが、動作が流れるようにスムーズでみていて惚れ惚れする。
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