驟雨の前に珈琲を

 闇の中では影と化した彼女は最速だった。
 生死不問。
 久し振りの大仕事。
 繁華街から外れても、尚も彼女は路地裏を走る。
 表通りのシャッター街には出ない。
 駅前開発に取り残された一角。区画整理以前からの一角。
 入り組んだこの区画だけは、サナアの旧市街地を連想させる迷宮を作り上げている。
 違法建築に無許可建築。地図にない道。地図にない建物。5階建て前後の廃ビル同然のテナントビルと、店舗付き住居が混在する忘れ去られた空間。
 メインストリートの小規模なアーケードも錆が浮いて大きな危険が潜んでいた。
 次の大震災が訪れればそれだけでこの通りは崩落するアーケードにより自ずと封鎖されるだろう。
 セオリーからすれば今追いかけている賞金首のとった選択肢は正解だった。
 一般道や国道しか頼みの綱がなく、信号に制御された大通りでは自動車による完全な逃走は難しい。
 小道を経由しつつ、自動車を捨てて次の自動車を拾って逃亡する間に、入り組んだ、廃棄されたに等しい区画を突っ切って反対側の大通りに出てからタクシーを拾えば速やかにこの街を離れることができる。
 街を離れればまた別のタクシーを拾って計画している逃亡ルートを辿ればいい。すなわち、この区画を生きて逃げ延びれば賞金首の勝ちだ。
 問題だったのは生死不問の大仕事に食いついたのは望実1人ではなかったことだ。
 商売敵が複数いる。
 自転車を使う奴。原付を使う奴。望実と同じく脚力を使う奴。
 情報屋が金に目を眩んで不逞を働いたのではない。
 情報屋は誰にどの情報を売ったのかさえ暴露しなければ、仁義を通していることになる。
 早い話が、全員が全員、同じ情報屋を情報源としているのなら多数対一で賞金首を追い掛け回すこともありえるのだ。
 むしろ、賞金首を独り占めできる機会の方が少ない。
 業腹ながら、望実のマテバMTR―8は賞金首を仕留めるだけでなく商売敵を蹴落とすのにも活躍する。
 同業者だから必ず連携しなければならない規約はない。
 その逆のケースを大いに考慮すべきだ。
 先程もシリンダー1個分の実包を用いて1人の賞金稼ぎをようやく蹴落とした。胴体のバイタルゾーンに熱く焼けた弾頭を4発ほど叩き込んでやったが、5分以内に救急救命処置を受ければ死亡する確率も大きく減るだろう。5分以内に救急病院に運び込まれればの話だが。
 脚力で賞金首を追いかける、猟犬のごとき賞金稼ぎの集団の中では最速の部類に入る望実。
 脚力は脚力だ。人間の能力以上の能力は発揮できない。
 自転車に原付バイクを相手にまともにスピード勝負を挑んでも勝てるはずがない。
 目下の仕事は、得意のフリーランニングを織り交ぜて路地裏のショートカットを活用して追跡するだけなのだが、賞金首の先回りをする二輪連中がことごとく頭を押さえるので賞金首の逃走先が流動的に変化することが厄介だ。
――――詰まり!
――――賞金首は土地鑑を持っている!
――――そうとしか思えない!
 賞金首は、逃げれば逃げるほど二輪連中が入り込みにくい路地を這いずり回り、情報にない機動力をみせつけていた。
 同じ脚力で……同じ全力疾走で逃げている者を、全力疾走で追いかけているのに距離が縮む気配がない。
――――これじゃ……。
――――これじゃまるで……。
 考えたくない思考に陥る寸前、望実の背後から銃声。
 同じく脚力で追跡する賞金稼ぎの1人が、目前をリードする望実が邪魔になったので背後から銃撃したのだ。
 お互いが走りながらの中での発砲。当たる可能性は低い。両手側を壁に挟まれた路地裏で反響する発砲音から推察。
 すぐさま、目前の四つ辻を左手に折れ、次弾が遅いくる前に遮蔽を確保。大きなロスだ。しかし、いつ当たるかもしれない銃弾を相手に無抵抗な背中を見せ続けるわけにはいかない。
 四つ辻に隠れた途端に身を屈ませて地面に伏せる。
 呼吸、5回。
 アスファルトの地面から立ち昇る、路地裏特有の黴臭い悪臭が肺を汚す。
 黴臭い成分が肺の気胞から吸収されて、得体の知れない毒素が血液に浸透し全身に循環する、そんな生理的不快感を催す構図が脳内で描かれる。
 地面に伏せているだけでもダニやノミなどの害虫が接地する衣服に潜り込んでいく想像が不快と嫌悪を掻き立てる。
 特別な潔癖症でもない彼女がここまで唾棄したがるほどに、この寂れた区画は人の手入れと気配が途切れて久しかった。
 呼吸、5回。
 それだけの時間が経過した。
 瞬間。大幅で駆ける足音が、追いかけてくる足音が踵を鳴らして急停止。
 頭上。望実の頭上付近で急停止。刹那。発砲。発砲。重なる発砲。
 うつ伏せの状態から左腕の膂力だけで、体をその場で寝たまま反転させて仰向けになり、マテバMTR―8を握る右手を頭上に突き出し、発砲した。
 同時に銃口の先にいる人物も発砲したが、伏せるほどに低い位置で待機していた望実に即応できず、銃口を下方に下げる前に苦し紛れの発砲を繰り出す。……望実の発砲の方が的確で正確だった。
「……ちっ……ここまでか……よ」
 20代半ばと思われる紺色のサマージャンパーの優男風の青年は、鳩尾に38splのジャケッテッドホローポイントを叩き込まれ、皮肉にも嫌味にも思える表情で口角を吊り上げて膝から崩れる。
 その青年が手にしていたベレッタM92FSがまだ望実の視界に写るレティクルでは脅威の対象だったので、銃口を向かず戦意を喪失しているにもかかわらず、その青年に仰向けになったままの姿勢でもう1発、銃弾を放ち、胸部に射入孔を拵える。
 1m程度の距離での短い銃撃戦。
 右頬に跳ねた彼の血飛沫を左手の袖で拭う。
 そのやり取りを漁夫の利といわんばかりに、後続の脚力主体の賞金稼ぎが膝を突いたまま絶命する青年の背後を飛び越して、涼しい顔で通過していく。
 左掌を地面につき、地面を押すように腕を伸ばす。
 その反動で体を浮かせて後は左足爪先で踏ん張り、右足爪先で体を起して立ち上がり、今し方通過した賞金稼ぎを遠慮なく背中から発砲して前のめりに打倒させた。
 背中に開いた射入孔も痛そうだが、顔面のパーツが全て削れ落ちそうなほど頭部からスライディングして50cmm以上滑った顔も痛そうだった。
 ……人間とは不思議なもので、即死に到る負傷より血液を大量に撒き散らす、大袈裟な、死に到らない負傷の方に忌避を感じる。
 尤も、今し方、撃ち倒した男と思われるシルエットはここで脱落であろうが。
 追跡開始。
 走りながら左手で衣服についた泥とも粘土とも思える汚れを叩く。
 危険の度合いが大きいからこその大仕事で、大仕事だからこその危険な局面。
 皮肉にも危険が達成感をさらに昇華し、中毒に似た高揚感を生み出す。
 その高揚感を夢見ながらの命の大安売り的商売だと思い返す度に自嘲するのだ。
 いつものジャージとカーゴパンツ。
 地面に伏せていたお陰で体の前面は程よく汚れる。
 仰向けにもなっていたから背中もそれなりに汚れているだろう。
 このオトシマエをつけるには何があっても、賞金首を誰よりも早く討ち取らないと落としどころがなくなってしまうという、根拠不明な意味づけをして闘志を燃やす。
 脚力による追跡を続ける。二輪連中が寂れた表通りを右往左往している。
 タイヤの摩擦音が頻りに聞こえる。二輪連中では入り込めない場所に入りこんだらしい。脳内の地図を広げる。何度もルートの変更。
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