驟雨の前に珈琲を

 ……実情をいえば、最初は演技だけの生活力のアピールだったが、規則正しく善良な市民を演じれば演じるほど、家計が助かり殺風景な日常に彩を感じる。
 スーパーのタイムセールで上等なブタのバラ肉をみつけたときなど、瞬間的に心が豊かになる。ドラッグストアのチラシをチェックして倍のポイントを付与される日には朝から何を買おうかと心が躍る。
 午前10時。
 一通りの家事を終えてコーヒーメーカーからドリップコーヒーを淹れてリビングでくつろぐ。
 テーブルにコーヒーが注がれたマグカップを置き、丸い座布団とも枕とも思えるクッションを尻に敷いて、薄手の生地で拵えられたオレンジのパーカーのカンガルーポケットに手を差し込んで煙草を取り出す。
 ラスタ・オリジナルのシャグ……手巻き煙草だ。
 ラスタカラーをあしらい、ラスタファリズムの影響を強く訴えるパッケージだが、製造国は紙巻煙草大国のベルギーだ。
 バージニアやバーレーなどのブレンドされた刻みの煙草葉を自分で巻くスタイルの煙草だ。
 欧米では生産コストが安いことから若者や労働者の味方として根強い人気を持つシャグ。しかし日本国内では煙草であれば1g当たりの税率が一定なので安上がりでもなんでもない。
 吸うときに自分の手で巻く手間が増えただけの面倒臭い代物でしかないが、自動販売機で売られている煙草と違い、巻紙には燃焼剤が含まれず、刻み葉自体にも燃焼促進剤が含まれていないものが殆ど。
 ラスタは燃焼速度が非常に遅く、1本当たりの満足感が非常に大きい。それだけに手巻き煙草を立て続けに吸うと体調を崩す煙草の愛好家も多い。
 巻きあげる紙や一緒に巻くフィルターなども多種多様で手巻き煙草の愛好家ともなれば、複数のシャグを好きな分量でブレンドしてオリジナルのタバコを作り出している。
 指先で巻くのが苦手な不器用な人向けに様々なローラーも開発されて廉価で売られている。
 尚、このような事情からシャグ――手巻きタバコの葉――にはニコチンとタールの表記はない。
 巻きあげるたびに、巻きあげる条件のたびにニコチンとタールが激しく変動するために精緻な計測が不可能なのだ。
 望実は付属のペーパーを用いる。フィルターは使わない。付属のペーパーは燃焼促進剤が含まれていない普通の煙草紙だ。燃焼する速度も普通。
 約1gの刻み葉を良く解してから20秒以内で巻きあげる。
 ペーパーの一端に塗られた糊を舐めて湿らせると粘着力がでるのでそれで紙の一辺を止めて完成だ。
 望実は両切り派で前も後ろもないラスタ・オリジナルを吸うのが好きだ。
 市販の紙巻煙草のような隠し味としての甘味料が使われておらず、複数のタバコ葉のブレンドによるスムースで仄かに甘い紫煙を燻らせるこの銘柄が好きだ。
 好きなのだが……落ち着いて腰を据えてからでないとハンドロールで巻きあげてはみ出た粉葉を始末してから煙草に火を点けられないのが難点だ。
 非常に面倒臭い手順。
 この手順そのものを愉しむ余裕がなければ手巻き煙草に手を出さない方がいいだろう。
 何しろ、シャグのパウチの中に保湿するためのヒュミストーンを仕込んでシャグの湿度を小まめに管理する気遣いも必要だ。
 煙草を嗜む。だが、肺に入れない。
 葉巻やパイプのように口腔喫煙で愉しむだけだ。
 これだと常習性がつきにくく、酷いニコチンの渇望を覚えることも少ない。うっかりシャグのポーチに手を伸ばすこともあるが、『シャグを巻く時間はない』という暗示と連動して体が動き、反射的にニコチンを欲する心を抑え込むのが容易だ。
 口中の残り香だけを愉しむとしても充分なスペックを持ったシャグが多いのも手巻き煙草の魅力の一つだろう。
 彼女が胸腔喫煙しない理由はもう一つある。
 望実が走り回ることを最大の機動力としている賞金稼ぎだからだ。
 フリーランニング以外にもフリーランニングと似て非なるパルクールも会得しているし、レジャーとしてのボルタリングのスキルも修得している。
 彼女にとっては道だけが道ではない。
 屋根や壁を猫のように走り、跳ね、飛び、降り、登り、駆け、歩き……心肺機能をフルに活用する機会が多いので呼吸器系と循環器系にダイレクトなダメージを与える胸腔喫煙は避けている。
 長い目で見れば、循環器系をニコチンが廻れば全身の運動能力に悪影響を与えているが、その悪影響が蓄積して引退する前に彼女は恐らく、この暗い世界には存在しないだろう。
 物理的に屠られていないかもしれない。
 いつの間にか遁走を計り消えているかもしれない。
 太く短い生き方しかできないと薄々勘づいているのだ。
「……」
 テーブルの上の新聞に目を落としてしばしの休憩。
 じっくり吸えば15分も愉しめる手巻き煙草。
 市販の煙草は早く燃えるように燃焼促進剤が混入されているのでこんなにゆったりと煙を吹かすことはできない。
 時折、淹れたコーヒーのマグカップを口元に運ぶ。誰が考えたのかは知らないが煙草とコーヒーの相性は抜群だ。醤油とワサビほどの親和性が感じられる。
 先日の夜に小太りの男……賞金首を仕留めてクライアントの前に差し出した後に報酬を貰った。
 あの夜は運がよかった。
 手頃な難易度で、手頃な金額の賞金首を、誰よりも先に仕留めることができたのだから。
 勿論、情報の提供元にも報酬を振り込んだ。忘れないように帰宅する前に振り込んだ。情報屋に報酬を振り込むまでが仕事の範疇だ。
 若しも仕事にしくじったら元の情報提供代の20%増しの請求が送られてくる。情報屋なりの保険だ。
 情報屋の情報が他に横流しされたときの保険のようなものだが、駆け出しの賞金稼ぎからすれば、必死で働いて報酬を納めたくなるネガティブなモチベーションにもなる。
 失敗を繰り返し、働けば働くほど貧乏になっていく展開は誰しもが御免だ。
 小太りの男がどこで何をしでかしたのかは知らない。深く詮索しないのが吉だ。
 そこそこに満足のいく賞金だったので、警戒することを念頭に置く。クライアントが口封じのために賞金稼ぎを『消す』事案もかなり多い。
 賞金稼ぎたちは信用商売であっても、一期一会に等しいクライアントたちは賞金稼ぎのことを都合のいい腕利きの使い捨ての駒程度にしか考えていない。……と、考えた方がいい。
 新聞の社会欄を読んでも、地方版を読んでも、小太りの男のことは報道されていない。
 5分の2ほどを残した手巻き煙草を100円均一で買ったブリキの蓋つき灰皿に押しつけて鎮火させる。
 1日に4、5本も吸えば彼女的に大満足のコストパフォーマンスが優れた手巻き煙草は文字通り手巻きで……ハンドロールなので灰皿に捨てる吸い差しですら愛着がある。
 見事に綺麗に巻けたときなど、思わずデジカメで撮影して保存しておきたい衝動に駆られる。
 昼食までの間にタブレット端末で賞金稼ぎ用のホームページをハシゴする。
 どこかの情報屋の組合が構築した求職情報サイトで完全な検索避けがなされている。
 特定のワードで検索できたとしても、一見すると一般向け求職情報サイトと変わらない。
 隠語と暗号だけでテキストが構成されているので賞金稼ぎ関連の職業以外には解読が難しい。
 逆にいうと、このサイトの存在を知り、テキストを読み解く技能がなければ賞金稼ぎとしてすら活躍できないということだ。
 その求職一覧の中に食指が動く賞金首――厳密には賞金の金額――があった。
 すぐに携帯電話を取り出して懇意にしている情報屋に詳細を訊ねる。
   ※ ※ ※
 影は闇の中では最速だった。
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