驟雨の前に珈琲を

 望実は左手のリップミラーをカーゴパンツのポケットに押し込み、腰に巻いた予備弾薬を挟み込んだ特殊ローダーを一つ摘む。
 そのまま左手の小指で緩く握って保持してマテバMTR―8をカップ&ソーサーで保持し、右半身のウイーバースタンスで遮蔽の室外機の壁から飛び出す。
 ……低い姿勢から飛び出し、1発牽制。
 『護り屋』が銃口を引っ込めた刹那の間に低い姿勢から立ち上がりながら本来のウイーバースタンスを執り、さらに辻を狙う。
 男の姿がみえたのではない。
 男の頭が出る前に『頭を押さえた』のだ。
 これは人間の心理だ。
 飛び出そうと思った場所に着弾してコンクリが削られて粉塵が上がると、咄嗟で危険を察知し、小さくバックステップを踏む。つまり、急停止。
 呼吸が乱れる初期。思考の回復を図る時間。その知的生命体ゆえの反射が生む隙。
 発砲。男の胸部。2mの距離から。
 マテバMTR―8の銃口を大きく伸ばして殺すつもりの発砲。
 次々と襲いくる衝撃的な事態に停止している男の体は、2mの距離から38口径の直撃を受けても即死に到らず、激痛を覚えず、『コンマ数秒間は無敵のゾンビを思わせるギラギラした眼光で』望実を睨み付けた。
 男は殆ど動物的反射で短い銃身のコルト・ディティクティブを両手で、望実を2m目前にして胸部に被弾するという負傷をしながらカップ&ソーサーのアソセレススタンスで構える。
 更に紫電の速さで、望実はダブルアクションの、重いはずの引き金を軽々と引く。男の喉……舌骨を砕きながら38口径は停止力を頚部に撒き散らして男を即死の状態に叩き込んだ。
 男が不自然な方向に首を大きく折り、仰向けに倒れる。
 スローモーションに似た男が地面に沈む光景は、望実の視界には存在していない。
 望実は既に移動を始め、男を排除した右手側の辻を新しい遮蔽として陣取る。
 まだマテバMTR―8には実包が1発だけ発射可能だったが、構わず、銃口を上空に向けて左手の親指でサムピースを押し、中指薬指でシリンダーを押し出す。
 そのまま左手の指だけでマテバMTR―8を保持して、右手の親指と人指し指の爪を特殊ローダーの隙間に差込む。
 特殊ローダーを摘み出す。特殊ローダーはそのままカーゴパンツのサイドポケットへ仕舞い込む。
 左手小指で保持していた新しい特殊ローダーを右手の指で掴んで無造作に押し込む。左手の4本指でシリンダーフレームを押しつつ親指でシリンダーを押し込んで再装填完了だ。
 実にロスの多い再装填のように思えるが、一連の流れはスイングアウト式の輪胴式拳銃と同じで大きな差異はない。
 エキストラクターを押さずに排莢し、スピードローダーより嵩張らない特殊ローダーを用いる分のメリットも大きい。
 サムピースの位置が特徴的ではあるが、輪胴式拳銃はサムピースを押しても、あるいは引いても映画のように手首のスナップだけで振り出せないしフレームに嵌めこむこともできない。
 それが可能な輪胴式拳銃があるとすれば、シリンダー軸のラッチ部分の磨耗が激しく、ちょっとした衝撃で中心軸から歯車が外れて作動不良を起こしかねない危険な状態だ。
 基本的にスイングアウトを用いる輪胴式拳銃は、再装填時には両手を用いる。片手で素早く操作することは前提に含まれていない場合が殆どだ。
 再装填完了のマテバMTR―8を右手に大きく振り、辻の角からリップミラーは翳さない。
 奥まった袋小路。脳内の地図では5mほどで行き止まりだ。
 今潜んでいる辻から、向かいの辻の角に飛び込みながら奥まった、影で暗いだけの空間に向かって発砲。
「……」
 マズルフラッシュ。
 ストロボを焚いたように一瞬だけ広がる明るい世界。
 明暗のニュアンスがはっきりと浮かぶ。
 その光景を目蓋の裏に焼き付け、盲撃ちかと思われる発砲を再び黒い影で覆われる空間に素早く2発。
「……仕留めた」
 小さく呟く。
 重々しい体躯が地面に転がる音が聞こえる。
 いずれも殺しはしていない。その手応えはない。
 一瞬のストロボの世界で浮かんだのは、遮蔽の位置と、潜む人間の体の押し込め方だけだった。
 2人分の人間が確かに網膜の裏に捉えたが、どちらが賞金首でどちらが『護り屋』かは流石に判然としない。
 ゆえに、死なない程度の負傷をさせる。
 既に負傷して動けない『護り屋』に抵抗する気力すらみせずに、震える賞金首。
 無抵抗。だが、容赦はしない。
 明日の食費のために、今ここで望実の食餌のタネになってもらう。
 望実は遮蔽の辻からゆっくりと歩いて出てくる。右手にマテバMTR―8。左手にイムコのオイルライター。
 自動拳銃のメカニズムを模したとされるイムコのオイルライターが、独特のアクションでウイッグに火を飛ばして揮発するオイルに引火させる。
 温かく丸みすら感じる炎は光源が及ばない黒い世界をオレンジ色の淡い灯りで優しく照らす。
「生きてた? 助かったわ。ちょっと博打だったのよね」
 左大腿部を押さえて顔を青褪めさせている50代前半と思しき小太りの男の顔を確認し、薄ら笑いを浮かべる望実。
 賞金首の男は大腿骨に影響を与えていないであろう被弾箇所を押さえて迫りくる、人を象った恐怖と対面し、震えるだけで声も出せない。
 グリスのような大粒の汗を額に浮かべて唇を小刻みに震わせる。
 右手側で呻き声。腰下ほどの室外機の陰で呻き声。被弾した上にさらに被弾した『護り屋』だろう。
 その『護り屋』腹部を押さえて壁にもたれかかったままの姿で、最後の意地でコルト・ディティクティブを構え直そうと力無く銃口を持ち上げるが、望実は一瞥をくれると無造作に胸部に38口径を叩き込んだ。 
 大きく跳ねると、それきり『護り屋』の男はうなだれたまま動かなくなった。
 賞金首に向き直りマテバMTR―8の直径約9mmの銃口を向けて薄ら笑いのまま抑揚のない声でいう。
「捕まえた。ごめんね」
   ※ ※ ※
 3LDKのハイツ。
 今どきのどこにでもあるデザインで住宅街の中にあっても3階建てのその建物は駅から遠いことを除けば、何かに酷く不自由を押し付けられることはなかった。
 駅は遠いが、バス停が徒歩10分以内に3箇所もあり、中規模の商業施設や各種医院、数件のコンビニ、郵便局があった。飲食店街にも近いので日ごろの行動は自転車で充分こと足りた。
 3階建てのハイツともなると流石に近隣住民との交流も疎遠になり、ネームプレートをみても住民の顔が一致しない。
 回覧板も、ドアに穿かれた郵便受けに放り込めば顔を合わせる必要もない。
 この絶妙に疎遠な住民の間柄は暗黒社会の住人にとって、居心地がいい。
 その上生活力が低くても、生活していけるだけの利便性が豊富だ。
 望実の名誉のためにつけ加えれば、彼女は自炊派で、たまの日にしか贅沢に舌鼓を打たない。
 たまの飲酒ですら宅呑みで、軽く一杯引っ掛けるためだけに繁華街に繰り出すこともない。
 そんな彼女であるから近場のコインランドリーもあまり活用しなかった。季節の変わり目にベッドで使うシーツや毛布をまとめて洗濯するとき以外は全く眼中にない。
 全ての暗黒社会の人間が不摂生な生活に身をやつし、酒と煙草と性愛に溺れて仕事以外では堕落しているのではない。
 望実は決して明るい世界を歩ける身分ではないが、だからこそ普段から生活力を鍛えて善良な市民から奇異な目でみられないように務めている。
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