驟雨の前に珈琲を

 左手がジャージのジッパーを下げる。
 右手は軽く指先を動かし、いつでも左脇に右手を差し込めるように待機させる。
 人込みの中に、人込みの中心に、賞金首が混ざっていても何もおかしくはない。
 木を隠すには森の中の言葉通りだ。
 ただ、少しばかり外出に気をつけていれば標的も自分が捕捉されずに済んだものを。
 追跡を開始して30分を経過した。
 隠れ家の不法滞在者向け違法住宅に踏み込んだときにはもぬけの殻だった。灰皿に押し付けられた吸殻がまだ熱かったことから、遠くに逃げていないと察知し、すぐに近辺の地図を脳内で広げた。
 その地図の中から標的が頼るかもしれない暴力団の事務所や海外逃亡への伝を作ってくれるマフィアの橋頭堡をピックアップし、『追い込まれて逃げ出した人間が通りそうなルート』を割り出してその先にあるゴールするであろう、地点の手前に先回りしただけだ。
 人が溢れかえる表通りの雑踏の中で、自転車やバイクといった機動力は小回りが効かない。
 人の通行が多過ぎて簡単にタクシーを拾える場所でもない。
 折角踏み込んだ標的の隠れ家がもぬけの殻だったことには何の疑問も持たない。
 標的が身辺の自己警護と同じくらいに情報網を張り巡らせ、タレコミ専門の情報屋を使っている可能性も視野に入れていたからだ。
 デジタルネイティブで横溢するのは表の明るい世界だけではない。
 暗黒社会では恐ろしい速度で情報網を用いた商売が日進月歩を遂げている。
 新しい媒体が現れればすぐさま、自分たちの世界で通用するガジェットとして組み替えて爆発的に拡散する。
 追う方も追われる方も、そしてクライアントも情報屋も新鮮な情報をいかに早く手に入れるかがこの世界で長生きする鍵となっている。
 こんなにも情報が国や世界を覆い尽くしていても、固体や集合体は分かり合えないでいる。情報の速度が上がれば上がるほど孤立するスタンドアローンに似た現象。
 情報化社会の功罪に難癖をつけても今の環境は変わらない。
 与えられた環境で生きることを優先するだけ。
 その過程で自分に適した道を選択する……人生は常に二者択一。
 右か左かを選んで、右を選んだとしてもすぐにまた右か左かを迫られる。
 その選択の判断材料として情報屋のもたらす情報が存在する。
 ある意味では情報屋にいくらの金を握らせるのかが大きなポイントだ。現場で得た情報の交換も情報屋との大きな取引材料になる。
 情報屋自体がダブルスパイの可能性もあるし、情報屋との交渉が捗らなくて情報屋の機嫌を悪くしたら死亡に直結する『甘く美味しい情報』を売りつけられる。
 情報屋は情報を武器にする。
 情報網を廻る情報を操らせれば、望実程度の賞金稼ぎなら蝋燭の火を吹き消す気軽さで消すことができる。
 情報屋の掌の上で道化が踊るがごとくの世界。それが現代だ。
 尤も、情報屋という存在そのものが、情報に踊らされて破滅に追い込まれる事案も決して少なくはない。
 今や国家間での戦争でさえ情報が最強最高の兵器である。
 死者が出ない受験戦争や経済戦争でさえ情報ありきの戦争である。
――――会敵……近いわね。
 望実自身の全力疾走で比較して7割程度の速度で薄暗い路地を走る。
 黴臭く、澱んだ空気が彼女の体にまとわりつく。
 湿気を多く含んだ空気が肺腑に入り込み、体内に何かが浸食していく錯覚を感じる。
 頭上のネオンの漏れた灯りは街灯よりは明るかった。それでも充分に視野と視界を確保するには心もとない。薄暗い分、死角に対する視覚の配り方は神経質になり脳内の視角が広がっている。
 あらかじめ脳内にインプットしている地図と、標的の隠れ家をスタート地点としたマッピング能力を照合した結果だ。
 彼女の機動力であるフリーランニングは常人以上……一定以上の空間把握力が必要だ。
 体内の方位磁石や絶妙なバランス感覚だけでは足りない。
 平面の地図とそこに記された高度の数値から三次元の立体地図を素早く構築する能力が求められる。
 自分の立っている位置からあらゆるルートを検索し、『実際に通れるか否か』を瞬間的に判断しなければ命を落とす。
 違法建築物さえなければ脳内の地図と照合して空気の流れや光源の位置から速度を保ったまま駆けることができるが、違法設置の室外機や山のように詰まれたゴミ袋を避けるのに歯痒い思いをする。
 そんな狭い環境で、『嫌な空気』を察知した。
 『嫌な空気』だ。
 待ち構えられている殺意の塊が空気に混じり、その流れ出る殺意が呼吸をするたびに肺に飲み込んでしまい、心理的形容としての吐き気を覚える。
 溜まらず左手がジャージのポケットを弄る。
 煙草を求めた。ニコチンで消毒したい。
 だが、今は左手を退いて右手を左脇に伸ばすべきだと直感がメタ認知的に囁く。
 会敵まで大した距離はない。
 メタ認知の自分がそのように囁く。
 どこから? 何人? どれくらい先に? メタ認知に囁かれた自分が問い返す。
 自分との問答。
 生体電流の速度での問答。
 その問答を断線したのは一発の銃声だった。
 ビル群の路地裏でやや甲高い発砲音。
 鼓膜にシャープに刺さる音の振動。
 後を追うような、聞こえない空薬莢の気配。
 アスファルトに転がる独特の軽快な金属音は聞こえない。
 すなわち、輪胴式。
 金を出して警護を雇っているとは聞いたが所謂、場慣れしたプロの『護り屋』ではない。
 ボディガードは先陣切って戦っては駄目だ。
 彼らの仕事は追撃者や襲撃者に対して弾幕を張り、牽制して足止めしているうちに警護対象者を遁走させるのがセオリーだ。
 それとも、袋小路に追い込んでしまったか?
 銃声が後を追う。
 目前20mの辻の角で銃火の花が咲く。
 望実も鈍らな反応はしない。
 右手を閃かせて左脇のショルダーホルスターから珍妙なスタイルの拳銃を抜き出す。
 牽制の発砲を2発だけ弾いてバックステップを踏んで、室外機の陰に滑り込ませる。
 こちらに直進する20m先の標的に初弾で命中させるのは意外に難しい。
 射手の腕前がベテランレベルでなかったことを、的を外す神様に感謝する。それとも的である望実に一撃必殺の銃弾を叩き込まなかっただけなのか?
 遮蔽の陰に身を潜め、銃声の合間に聞こえる僅かな音を拾うべく、耳を澄ます。
 銃声が怒号に聞こえる世界で、銃声とは違う音域の声や音を拾うのは難儀だ。
「……3人……」
 望実、呟く。
 銃声のパターンから計算した判明している火力だ。
 口径に統一感がある。
 輪胴式。発砲はダブルアクション。仲間の弾倉交換をカバーし合うだけの技量はあるらしく、最大火力と思われる3つの銃火が瞬くのは瞬間だけだ。
「輪胴式同士仲良くしようよ!」
 望実は体の殆どを、身の丈ほどもある積み重ねられた室外機の陰に潜ませたまま、右手だけを突き出して散発的な発砲で牽制する。
 水で満たされた革の水袋を切れ味の悪い包丁で薙いだような生理的不快感を覚える音が聞こえた。
 直後に低い呻き声。牽制目的だった挨拶代わりのうちの1発が連中の誰かのいずこかの部分に命中し、大きく戦闘力をそがれたらしい。
 不快感を覚える水っぽい音からして致命傷を負わせた手応えではなかった。腕か足の根元、筋肉の厚い部分の肉を大きく削いだ感触。
 望実は薬室分の実包を全て吐き出した輪胴式をすぐに引っ込めてサムピースを押し、シリンダーをスイングアウトさせる。
 彼女の拳銃は珍妙怪奇な恰好だった。
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